藤原敦忠の詠んだ歌。
載っている本によって
出てくる順番が違います。
年代順になってるとは限らないみたいですね。
歌は同じでも 前後の説明の文章が違ってたり。
書いてたら すごく長くなってしまいました。
(なんのブログですか・・みたいになりました。)
何故長くなったかって言うと
敦忠さまの思い人(彼女)が 多過ぎだからです。
敦忠さま モテたからって 多過ぎです★
原作「少将・・」の順番でいくと
最初に出てくるのは(つきあった順番ではないです)
皇太子保明親王の御息所(寵愛をうけた女)。
こちらは 敦忠が最初2人の使をしていたのだけど
その後 親王が亡くなってから
御息所と敦忠が契るようになり・・。
(契るって今聞くと なんだか・・ 笑。)
「でも 私は たぶん道真の祟りで短命ですから。」
と 敦忠は その後のことは諦めていたそうです。
そして次は、(ようやく 和歌が出てきます)
斎宮雅子内親王。
敦忠は 宮が斎宮にならせられて
伊勢に行かれてしまう時に歌を詠みます。
斎宮の皇女に長いこと求婚申し上げて
今日、明日にでもお逢いしようとしたときに
(皇女が)伊勢の斎宮の御占いに当たってしまわれた。
なんとも残念だとおとこは お思いになった。
「伊勢の海の千尋(ちひろ)の浜にひろふとも
今はかひなく思ほゆるかな」
大和物語では「今はかひなく~」となっているけれど
後撰集では「今は何てふかきかあるべき」となって
嘆きの気持ちが強いようです。
決まってしまって逢えなくなってしまった次の日
敦忠は 御殿の門の榊に歌を さし挟めたのだそうです。
悲しかったんでしょうね。
伊勢の海の広い浜で貝を拾おうとしても、
貝がないように、
(斎宮が決まられた今)
いくらお慕いしてもかいのないことと思われますよ。
と言う意味だそうです。
次は 左大臣の君(娘)。
藤原実頼の娘か、
藤原仲平の娘・明子か 忠平の娘・貴子らしいです。
・・って多過ぎて 分かりませんけど とにかく
敦忠が 左大臣の君に求婚された年の暮れに
(なかなか逢えないのを残念がって)贈った歌。
「物思ふと月日のゆくも知らぬまに
今年は今日に果てぬとか聞く」
意味は、あれこれとあなたのことを思っているうちに
月日が経ってゆくのも忘れておりましたら、
今年は今日で終わってしまうとか聞きます。
(話が飛びますけど 万葉和歌に「とか」とか出てると
自分も使う言葉だから、何だか嬉しいです♪)
それから 次に
「いかにしてかく思ふてふことをだに
人伝ならで君に語らん」
意味は、なんとかして、このように思っていることだけでも
人を介してでなく、あなたに直接お話ししたいものです。
この時は 左大臣が 2人の仲を禁じていて
なかなか逢えなかったそうなので この歌を詠んだのだそう。
などと歌を たびたび贈って ついに契りを結んだ翌朝に
詠んだ歌
「今日そへに暮れざらめやと思へども
たえぬは人の心なりけり」
意味は、今日だってまた日が暮れる(逢える)とは思うけど
それまでは待てないのは恋するものの心なのですね。
・・という感じで 敦忠さま なかなか熱心です。
マメな方です(笑)。
これだけでも(和歌が残っているだけでも)
多いのですが このあと まだ(噂の)右近さんがいます♪
でも 右近さんは 自分の歌もあるから
また 次にします。
それに 対右近さん・・だと
ただ好き同士の歌というより ちょっと皮肉も入って
雰囲気が 今までのと 少し違います。
でも 右近さんの歌 評価高いみたいです。
百人一首では 敦忠さまより 前にありますからね。
順番じゃないのかもしれませんが。