HYAKUSHOU日記

毎日の作業と暮らしといろいろの出来事

電飾

2010-12-15 22:27:25 | Weblog
 電飾でござる。
 イロミネーションなどとカタカナ語で言わぬところが良いところでござるな。
 「ザマーミロ!」でござるな。
 「ケケケケケ!」と何の笑いかわからぬところも良いのでござる。

 これはとあるところの野中の一軒屋でござる。
 一軒家とは言えども、隣家とは数十メートル離れているだけでござるから、完全な野中の一軒屋ではござらぬな。
 そのお宅の電飾を無断で写させていただいたのでござるが、なかなか見事というのか、素晴らしいというのか、周辺が明るいのでござる。

 その明るさゆえ、防犯灯にもなるのでござろうな。
 忍んでいても姿が浮かび上がるのでござる。
 堂々と盗みに入る以外無かろうでござろうな。

 拙者の推測でござるが、おそらく小さなお子さんが居られるのでござろうな。
 従って、この時期、このような電飾を凝って作られるのでござろうな。
 親御さんかご祖父かは全く存ぜぬが、よほどにかわいがられていると推察いたすところでござる。

 もう一点は、電気代が馬鹿にならぬでござろうと思うところでござる。
 如何にLEDとは申せ、これがおおよそ20日あまり、場合によっては一ヶ月も続くのでござるからして、結構なものになると思うところでござる。
 されど、そのようなことを考えていては、このような見事な電飾は出来ないのでござろうな。

 この写真を写しながら、ふと脳裏をよぎったのは、朝鮮半島でござる。
 宇宙から見ると、南朝鮮の夜景は煌々と光が見えるのに、北朝鮮は真っ暗な状態でござった。
 もちろん日本は「チョッとぐらい控えんかい!」という感じで、列島の形がそのままでござるのだ。

 ニュースなどで見聞きする北朝鮮は、「この暗さの中で一般の人たちはひもじさと寒さに耐えているのでござろうな」と思うところでござる。
 貧乏百姓としては、辛く感じるのでござる。
 金(変換で菌と出たのでござる)王朝の歴々にはそのようなことは無かろうと思うのでござるが、その差は一体何か?となるのでござるな。
 まさに戦中の日本という感でござるな。

 それと、六カ国協議だとか単独交渉だとかニュースで流れてござるが、朝鮮半島は今だ休戦という戦争状態なのでござるな。
 かっての朝鮮戦争では、「国連軍としての南朝鮮国軍とアメリカ軍など 対 北朝鮮軍と中国軍」の戦争でござったのだ。
 それが五十数年続いているのでござるからして、今平和を求めるとしても生半尺にはいかぬと存ずるのでござる。
 どちらかが折れるか、戦争をするかしか道は残っておらぬのでござろうな。
 やくざチンピラ軍対独善民主軍というところでござろうか。

 いずれにしても早く静かな世界が欲しいものでござる。
 平和は良いものと思うのでござるが、平和という言葉がある限り平和は無いのでござろうな。

 と、わけのわからぬことを言って、「明日の心だ!」

唄2

2010-12-14 21:37:32 | Weblog
 続きでござる。
 加藤登紀子さんの「日本哀歌集」からなのでござる。
 なぜこれにこだわるのでござろうかな。
 やはり、拙者の青春でござったからなのでござろうか。

 「しのび逢う つらさ
  夜が明ける つらさ・・・」
 と、出てくるのは、「西武門節」でござる。
 しのび逢う人に知られぬ恋の会う瀬の切なさでござる。
 その女心、切ないのでござるな。
 いやー、切なさ、悲しさ、寂しさ・・・でござるな。
 そんな恋に惹かれつつ、恋に恋していた拙者なのでござろうな。

 「我は湖(うみ)の子 放浪の
  旅にしあれば しみじみと・・・」
 は、いわずとしれた「琵琶湖周航の歌」でござる。
 拙者、どういうわけか、この歌、高校時代から好きだったのでござる。
 この唄の一説に、「赤い椿の 森陰に」とあるのでござる。
 思春期に入る頃の拙者に、この一説のままの情景が、いまだに拙者の心の中にとどまっているのでござる。
 そこで見た少女の姿がとどまっているのでござる。
 一服の日本画的に残っているのでござる。
 されど、それから十年を幾つか経て会った時に、そのイメージは無残に打ち砕かれてしまったのでござる。
 が、その情景は今でも残っているのでござるな。
 この唄の意味合いとは違うものでござるようなのだ。

 「どこまで続く 泥濘ぞ
  三日二夜を 食も無く・・・」
 と、情けなくなるような唄は「討匪行」でござる。
 日中戦争での中国大陸での事を歌ったものでござろうが、一銭五輪の赤紙で徴兵された一兵卒の悲哀を歌った情景でござろう。
 人の心が切々と流れるのでござるが、拙者、この歌が農作業中にでてくるのでござる。
 農作業が情けないのではござらず、徴兵で出征していった若者が農家の出身でござれば、農作業は残された年寄りがしなければならず、戦死となればその農家は言うに言われぬ苦しみを背負う事となるのでござるな。
 この唄も、酒の肴には哀し過ぎるのでござる。

 「いのち短し 恋せよ乙女
  紅き唇 あせぬ間に・・・」
 とは、「ゴンドラの唄」でござる。
 まさに若き時は一瞬の間でござるな。
 拙者のごときものでも、その青春を謳歌できたのは瞬き一つという感がするのでござる。
 若きときに、出来ることは必死になってでもやりつくせねば、悔いが残る事になるのでござる。
 それが、仕事であれ、勉学であれ、恋愛であれ、ともかく全力でやりつくさねば、拙者のような年齢になると、「くそー!・・・」と思うのでござるな。
 これも哀しいというべきでござろうな。

 「真っ暗闇の山の中 星を見据えて涙する
  血の猛り立つ この体 酒に酔わせてくれようぞ・・・」
 なんて唄の出だしは、「五右衛門節」でござる。
 その昔、血気盛んな頃は、この唄と酒で血が沸き立ったのでござる。
 矛盾した世相に、それを正さんがためと、気が猛るときがあったのでござる。
 が、それもゴンドラの唄なのでござるな。
 過ぎ去りし時間なのでござる。

 ちょっと疲れてき申したのでござる。
 これも加齢による疲労なのでござろうかな?
 情け無いのでござる。

 と、落ち込みつつ、続きをまたの機会にとして、「明日の心だ!」

完敗

2010-12-13 22:17:21 | Weblog
 先ほどまで、米の勉強会の第1回目でござった。
 写真は秋の風景でござるが、今よりもっと美味い米を作るということと、その米を売る作戦を立てられるべく、勉強会を設定し呼びかけたのでござる。
 されど、その内容は完敗でござった。

 進行のイメージどおりに行かなかったこと。
 決めるべき事を決められなかった事。
 発言を上手く拾えなかった事。
 誤解を生じる事態に十分な対応が出来なかった事。
 数えれば、「山ほど」あるのでござる。

 まず、いろいろとイメージしながら準備をしたのでござるが、時間ぎりぎりまでそのイメージが固定できなかった事。
 これが第一の完敗の原因でござろうな。
 従って、進行が上手く出来なかったのでござる。
 それと、勉強会のイメージはあっても、その具体性が整理できていなかった事でござろうな。
 それが第一とあいまって、ぐしゃぐしゃになってしまったのでござろう。

 何にしても失敗か成功かしかないのでござるからして、一度の失敗でめげる事は無いのでござるが、やはりビューチフルにはしたいものでござる。
 最後に次回の開催を約束できた事だけでも、とりあえずは丸としておこうと思うのでござるが、やはり虚しさ・残念さは残るものでござる。

 米食味鑑定士協会の会長や米穀新聞もお越しいただいたのでござり、状況や手法のアドバイスをいただきながらこの様でござった。
 と言いつつ、今後に希望は十分持てるものであったと感ずるところでござる。
 やり方・考え方で八方寸詰りの中でも、切り開いて前へ進む事は可能という希望でござる。

 まず拙者が迷わない事でござるな。
 迷ったときは、やめる勇気でござるかな。
 あるいは、少しの希望が見えれば突っ切るという勇気でござろうか。

 今夜は、拙者にとっては大きな試練でござったのだ。
 そして、踏み出してしまった一歩でござるのだ。
 1年間やるしかないでござろうな。

 で、眠いので、「明日の心だ!」

2010-12-12 20:04:53 | Weblog
 拙者が40年来聞いている唄なのでござる。
 加藤登紀子さんが歌っているのでござる。
 日本の古い唄なのでござる。
 拙者の心に入ってくる歌なのでござる。
 
 「知床の岬に はまなすの咲く頃・・・」 の、「知床旅情」でござるな。
 地図の上では知っていても、行った事も無く、想像とテレビの映像だけでござるが、自然の中での人の心と若き女性への恋心が織り成す情景を思い浮かべる拙者でござる。
 一人でいるときの人恋しさが、ジンワリとしみ込むのでござるな。
 これこそ酒の世界で想い浮かべる情景でござろうか。

 「たとえどんな人間だって 心のふるさとがあるのさ
  俺にはそれがこの町なのさ・・・」
 は、「銀座のすずめ」でござる。
 都会の悲しさ、寂しさ、そして、そこで生きる力のようなものを感じるのでござるな。
 これは、始めごろあまり気にしなかった歌なのでござるが、いつからか気にしているのでござるな。
 東京にいた頃、銀座ではなかったのでござるが、渋谷や新宿などの繁華街が思い出されるとこの唄が重なるのでござる。

 「積もる吹雪に 暮れ行く町よ
  渡り鳥なら 伝えておくれ・・・」
 は、満州里小唄でござる。
 この唄、あまりご存知で無いと思うところでござるが、凍て上がる大地で春を待つ気持ちでござるな。
 この唄は、ここ十数年聞く気の唄なのでござる。
 いつか春が来るという希望を持つ唄ではござるが、それまでの厳しさが心に染み入るのでござるな。

 「一つ アエー 木造新田の相野村、
  村の端ンズレコの 弥三郎ァ家・・・」
 と、出だしがあるのは「弥三郎節」でござるのだ。
 これは水飲み百姓の嫁とり物語のようでござるな。
 なんとなく今の拙者に重なるところがござり、そして、今の世間の結婚にも通ずるところがござるように思えるのでござる。
 これも好きな唄の一つなのでござるな。

 「心猛くも 鬼神ならず
  人と生まれて 情けはあれど・・・」
 と、来るのは「蒙古放浪の唄」でござる。
 これぞ、拙者の唄と思いきや、東京農大などの拓殖学科などでは「これが愛唱歌でござる!」との事でござる。
 失礼をいたしたのでござる。
 この唄、学生時代の拙者の部屋では、朝起きの唄、目覚ましの唄でござったのだ。
 この壮大な情景が、その頃の拙者とその仲間にはピタリと合ったのでござる。
 その後、某雑誌で旧帝国大学の学生の物語があり、その結末は、愛する女性と大陸に渡り馬賊になったというものでござったのだが、この最後に蒙古放浪の歌が出てきたのでござる。
 感激ものでござったのだ。
 そして、この唄を聴きながら酒を飲むと、とめどなく泣けてしまう拙者でござった。
 カッコ悪!

 というところで、この続きはまたの機会ということになるのでござる。
 「明日の心だ!」

立った2

2010-12-11 14:24:56 | Weblog
 前回に続きというお題でござるが、決して続くものではござらぬ。
 拙者の性格がそれぐらいバラバラなのでござる。
 だから、あまり期待は持てぬのでござる。

 この写真、看板の裏側でござる。
 実際に立っているものを見ると、いやー!、ド派手そのままでござるな。
 ここのシンボル=アンパンマンがいて、手形があって、手形の蟹さんがいて、名前が書いてあって、最も落書きらしい落書きがあって、わけのわからん言葉があって、・・・!

 表側のゆめっちデザインとは打って変わった混沌と無秩序で、意味不明と理解不能と判りすぎるものが所狭しとランダムに賑やかなハーモニー(?)を奏でているのでござる。
 全くもって楽しいものでござる。
 この楽しさがみんなの心なのでござろうか。

 こうなると、木を切って看板を作った拙者の冥利に尽きるものとなるのでござろうな。
 どこかのガレージや橋げたやヨウヘキににわけのわからん落書きをしてあるのよりは、天と地、月と泥亀、玉(ぎょく)と糞ぐらい違うのでござるな。
 地や泥亀や糞には比較の対象にして申し訳ないでござるが。

 あの街中で見かける落書きは、全く持っていただけるものではござらぬ。
 第一、全く美しくないのでござるし、自分の存在を認めさせたいのか?ウスラ汚い落書きだけの存在主張だけが見えるのでござる。
 それが情けないのでござるな。

 件の落書き、夜中に忍んでシャッターなどに書くのでござろうが、実に腐った根性でござるな。
 それにひきかえ、この落書き、拙者の休みの間に寄って集って賑やかに書いたようでござる。
 それでもって、これほど明るく賑やかになったのでござろうな。
 これを描いている連中の顔だ頭に思い浮かんで笑いがうかんでくるのでござる。
 面白いものでござる。

 そんなことを考えているうちに、他の情けない事を思い浮かべてしまったのでござる。
 どこやらの数々の政治団体・政党、どこやらの国々など、自分のことは棚に上げて自分に都合のいいことばかり並べて、さも「正義は我にあり」というような虚勢を張っているのでござるな。
 これも、橋げたやシャッターやコンクリート壁にかかれた、クソ汚い落書きと同じかと思えてきたのでござる。
 生活の安寧や平和を望むその他大勢・下賎の者にとって、このような連中がいてはそれは望めるものではござらぬわな。

 せめて、この施設は平和であり、安心であり、などと期待をしているのでござる、と言ったところで、「明日の心だ!」

立った!

2010-12-09 21:53:41 | Weblog
 ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!
 ついに立ったのでござる。
 拙者の孫が立ったのではござらぬ。
 まだ二ヶ月で立ったら、神技そのものでござる。

 念願のゆめっち看板が立ったのでござる。
 その立てる過程は昨日のとおりでござるのだ。
 それが今朝見たら、そのまま立っているのでござった。
 こけてなかったのでござる。

 この看板に書かれているところの、キャラクターも文字もその配置も、すべてゆめっちが製作したのでござる。
 親ではないから欲目というものは無いのでござるからして、それなりに評価はするのでござるが、良い出来でござろう。
 キャラクターは「みょうがちゃん」というようでござる。
 茗荷村でござるからして、「みょうがちゃん」でござるな。

 こういうキャラクターをひらめきで作るのは、ゆめっちの得意とするところのようでござる。
 ゆめっちの頭にひらめいたものを、自分のセンスで形にしていくのがゆめっちなのでござる。
 もちろん文字もそのとおりで、どのような書体にしようかということは、彼女のセンスにかかっているのでござるな。
 その辺が、凡人をまだ下げたボンクラの拙者と違うところでござる。

 今日、村で体験入村をしている方と話をしたのでござるが、「今のイラストとか文字は、いろいろなものから抜粋したコピーで、それをアレンジして使うものだから、斬新性創造性は無い」ということでござった。
 然りと思うのでござる。
 人間の文化というのは、「猿真似」「物真似」「写実」というところから出発し、それが幾多のセンスを経過して新しい文化になるのかも知れぬのでござる。
 そういうことから考えると、ゆめっちはゆめっちの文化を持っているということになるのでござるな。

 拙者はというと、その看板を作っただけでござるな。
 気を手に入れて(買ってきて)、切って、打ち付けて、バーナーで焼いて洗っただけでござる。
 そりゃ、師の言う事も当然でござるな。
 拙者納得でござる。

 ゆめっちも嬉しいと思うし、これを立てた畑班の連中も嬉しいだろうし、それを見て「良いなー!」と思う人も嬉しいと、これまた良いことだし、誰よりも拙者が一番嬉しかったりするのでござろうな。
 道路から入った瞬間目に入る看板なのでござる。
 そして、道路からも勿論見えるのでござるからして、看板の役目を十分果たしているのでござる。

 と、嬉しさを胸に、「明日の心だ!」

破れかぶれ

2010-12-08 20:13:06 | Weblog
 もうボツボツネタ切れでござろうと思いきや、毎日何かしらあるものでござる。
 毎日毎日が違った毎日で、毎月毎月がこれまた違った毎月、毎年毎年がまたまた違った毎年という事で、ネタは多少なりとも違ってあるものでござる。
 そう考えると、人生は退屈をしている暇は無いという事でござるな。

 写真は、拙者のズボンでござる。
 それがちょっと穴が開いたという事だけでござる。
 ただのそれだけでござるのだ。

 そしてそれは単に一コマでござるだけなのだ。
 どう一コマかというと、ちょっと穴をあけてしまう動作が、結構楽しい仕事面白い仕事をしている途中でござったのだ。
 昨日の名誉の負傷の未遂となったのでござるな。

 今日は朝から念願の看板を立てるべく、気張って準備をして出かけたのでござる。
 金の石頭やゴムの石頭、セメント用の混ぜる船、スコップ、などを持って出発したのでござる。
 「どう立てればいいのかな?」などと考えながらでござる。

 連中を連れてセメントと針金を買い込みに行き、準備は整ったのでござる。
 看板を四人がかりで運んできて、建ててみて傾きを修正してから鉄筋で支えをしたのでござる。
 グリ石で看板の足元を締めて、セメントの空練をそこへ入れて締めたのでござる。
 都合5杯の空練を入れたのでござる。
 その上へ土砂を入れて鳴らして御終いとなったのでござる。

 その序盤で、地中から出ていたパイプを切っていたときに、ディスクが跳ねてズボンを切ったのでござる。
 ただそれだけの事でござり、ヒヤッとしたものの、切ったのはズボンだけでござり、皮までは至らなかったので、未遂でござるな。
 なぜ看板の写真でないのかという向きもござろうが、完成をして写真を撮るときには逆光でござったのだ。
 これもそれだけの理由でござる。

 看板を立てた事で、ゆめっちが来たときに喜んでくれたのでござる。
 彼女が喜ぶのは当然で、早くに出来上がっていたのでござるが、いろいろとハードルがあり障害物がありで今になってしまったのでござる。
 彼女にすれば、イライラもするし、本当に立つのだろうかと疑問になった事もあったでござろうからして、喜んでくれれば拙者も嬉しいのでござる。

 それと、立てているときに一哉師がお通りになられ、
 師   「誰が書いたん?」
 拙者  「ゆめっちです。個性的でセンスの良い看板です。」
 師   「立派なもんやな!あんたみたいな凡人と違うな!」
 という会話でござったのだ。
 確かに、確かに、拙者は凡人というよりかは、ボンクラでござるからして、師の言われる事はしっかりと当っているのでござる。
 しかし師の言葉は嬉しいものでござった。

 それと、出来上がって片づけをしているときに、利用者の一人が「できてうれしいです。」とたどたどしく言った言葉があって、それにも拙者は嬉しかったのでござる。
 普段ほとんど言葉を話さず、考えている事もはっきりわからない人でござるが、拙者、その言葉は本当に嬉しいものでござった。
 ズボンの破れなど、物の数ではござらぬのだ。

 で、どうズボンを繕うかと悩みつつ、「明日の心だ!」

名誉の負傷

2010-12-07 19:15:34 | Weblog
 カッコ悪いのでござる。
 草刈をしていて、チョコッと傷をしたのでござる。
 極些細な傷でござる。
 ワー!カッコ悪!

 まずは以前から気になっていたところと思い、草刈機を振り回しにかかったのでござる。
 最初数分は順調に刈れたのでござる。
 そして開始から数分後に、鼻へ砂粒が当ったのでござる。

 「痛いな。もう。」と思い、いつもの通り飛び石が当ったのだという事で、気にせず草刈作業を続けていたのでござる。
 そのうち、鼻の当たった辺りがむずむずとしてくるのでござる。
 鼻水が出ているときのようで、気持ちが悪く、手の甲でぬぐったのでござる。
 そうするとでござるな、手の甲が拙者の血で真っ赤になっているのでござる。

 その瞬間、拙者は、鼻血が出たのだと思ったのでござる。
 でもって、軽トラへ戻り窓拭き用の紙で拭いたらベットリと血が着いて、拙者気が弱くても卒倒しそうにならなかったのでござる。
 拭いたら、チョコッとした傷が鼻の左についているのでござるのだ。
 そこで、急いで愛しい人に「フェイスマスクは絶対被れ!」と、メールをしたのでござる。
 結局、止血はタバコを一本吸って完了でござった。

 しかし、鼻などは血管が多いのかして、よく出血するものだと感心しきりでござった。
 そういえば、顔とか頭は、少々の傷でも結構血が出るものでござるな。
 血管が張り巡らされているのでござろうな。
 
 写真は、インターネットからコピーしたものでござる。
 拙者の草刈機は、新ダイワでござる。
 別にどこのメーカーでもいいのでござるのだ。
 よく枯れて故障が少なければそれでいいのだ。

 写真はチップの刃(通称 チップソー)が着いているのでござるが、拙者の刃は八枚ピッチの鉄板(通称 八枚刃)だけの刃でござる。
 傷をした事でもわかるように、石の多いところなのでござるからして、チップソーではすぐにチップが欠けてしまうのでござる。
 研ぎだちの八枚刃で刈るのは、切れ味が良くて大好きなのでござる。
 もちろんチップソーでも切れ味はいいのでござるが、石を叩くとチップが欠けるので、実にもったいないのでござる。

 八枚刃を研ぐのも良いものなのでござる。
 「どの程度の角度で研ぎ出せば一番よく切れるのか」とか、「刃先がちょっとでも丸みを帯びているとすぐに切れ止むから刃先はきちっと研ぐこと」などと思って研ぎ出し作業をするのでござる。
 良い調子でかれると、「うん!なかなか良い調子でござるな。」と悦に入れるのでござる。
 拙者の頭は、まあ、この程度に単純な頭の構造になっているのでござる。

 と、頭の構造まで話が進んだので、あとは、「明日の心だ!」

大徳寺納豆

2010-12-06 20:42:33 | Weblog
 お土産にいただいたのがこの大徳寺納豆でござった。
 どういう製法か知らぬのでござるが、真っ黒で塩辛くてコクのある味なのでござる。
 食べ方もいろいろとあるようでござり、ちょっと刻んで味噌汁に入れたり、炒め物に入れたりと、工夫次第でござる。
 ただ、大量に食すると「塩分取り過ぎ!」といわれそうでござるが、寒い時には良いのでござろうな。

 この納豆、何とかいうお坊さんから秘伝で続いているという事でござるからして、おいそれと製法を教えてもらえるというものではござらぬのだ。
 禅の世界での精進料理という事でござる。
 拙者には、大徳寺納豆に縁はあっても、禅とか悟りとかは一切縁の無い話でござるのだ。

 と、いう辺りで、勘の冴えたお方ならどのような話の展開になるか予想できたのでござろうな。
 おそらく当っている事でござろう。
 食するなどという言葉は、全くとんでもない話ということになるのでござるな。

 今日は念願の草刈に入ったのでござる。
 まずは獣害の比較的少ない田んぼからと思い、作業にかかったのでござるが、何が少ないのでござろうか。
 まず、畦の法面は猪や鹿の獣道になっており、ミミズなどのいそうなところは猪が穿り返してぼこぼこになっているのでござる。

 そのようなところを何とか刈り倒して、畦の田んぼ側を刈っていると、落ちているは落ちているは。
 件の大徳寺納豆とそっくりなのが、あちらにもこちらにもコロコロボロボロと転がっているのでござる。
 そして、猪や鹿の足跡が柔らかい田んぼに無数にあるのでござる。
 そこへ加えて、モグラが畦のどこといわずに穿り返してあるので、ボコボコのところへグァグァになっているのでござる。

 今、獣害防止柵を作っているところでござるからして、どこからでも入って来られるのでござるが、「それにしてもこの状態は・・・・!」と絶句状態になり申したのでござる。
 「これなら堆肥を入れる必要はないのではなかろうか」と思うほどでござる。
 それらを想像してくだされでござるな。

 堆肥といえば、最近は堆肥の取り合いの状況なのでござるな。
 お願いにいったら、翌日に予約優先で全量無くなっており、他のところへ伝を頼っていくと堆肥舎は空っぽでござり、別の所は機械が無いので積めないという事になり申したのでござる。
 堆肥を入れれば良いのだという事は以前から拙者も言い続けており申し、その手立ても打ってきたのでござるが、なかなか謂う事は聞いてもらえなかったのでござる。

 ここへきてそれがわかったのでござるのか、その有様でござる。
 「いよいよ、個人で堆肥舎を持たねばいかんのか」という感でござる。
 しっかりしたものを作ろうとすると、とんでもない金がかかるのでござり、今の拙者には夢のまた夢でござる。
 簡易式のいい堆肥保管施設を考案せねばならぬような感じでござるな。
 イメージはあっても、場所と建設費用が問題となるのでござる。
 木製の枠でいこうとすれば六基は必要でござり、300㎡は必要でござろうな。

 予定は、すでに堆肥を入れて、トラクターでドライブをしているのでござるが、今年は獣害防止柵の作業と堆肥の不足で、かなり作業がお遅れているのでござる。
 「遅れついでに、のんびりまったりと今月中に全て完了すればいいか」と、開き直りつつある拙者なのでござる。

 というところで、「明日の心だ!」
 

赤と黒

2010-12-04 19:20:32 | Weblog
 文学的な出だしでござるな。
 なかなかに良いものでござる。
 と、自分だけ悦にいっているのでござる。

 この写真、手ブレでござり、ついでにピンボケでござるな。
 それはアカンのでござる。
 拙者のセンスでござり、しゃーないでござるな。

 どうもここのところ、よんどころなき事情により金曜はこれに掛かれぬ事態となっている様でござるので、これもしゃーないでござるな。
 よんどころない事情はお聞きくださるなでござる。
 とりあえずはよんどころが無いのでござるからして。

 で、何故にこの写真か?このお題か?でござる。
 この二尾を見ていて、拙者思うところがあったのでござる。
 拙者、昔から走るという事は苦手でござり、スポーツというか運動そのものは苦手でござったのだ。
 
 野球やソフトボールをすれば、ボールが飛んで止まらなければ取れず、打者になると投手が投げた瞬間か捕手のミットにボールが納まってからバットを振る、サッカーをすれば息を切らせてしまいボールを抱きかかえる、という具合でござる。
 もちろん走ればとびっきりのビリッケツでござったのだ。

 このような拙者がいるからこそ、一番手がいて、上手な人がいるのでござる。
 皆が同じように上手であれば面白みは全く無いのでござるな。
 皆が一番であれば、競争にはならぬのでござる。
 「イケメン」と「別嬪」ばかりであって、皆が同じような流行の顔でござれば、個性も何もあったものではなくアンドロイドの品評会なのでござる。

 赤い金魚がいるから黒い金魚がいるのでござり、出目金がいるのでござるから竜金や和金がいるのでござるのだ。
 これで和金ばかりでござれば、ただの赤い魚の群れでござる。
 同じものの集団だけでござる。

 ここに、茗荷村でいうところの「賢愚和楽」「ふたつひとつ」というのがあるのではござらぬかな。
 それぞれが異なった個性があり、それぞれに異なった能力があり、それぞれに違う面相がある、と、いうように、違いがあるからこそ、楽しさや感性・個性があるのでござらぬかな。
 今の世の中、なんとなくアンドロイド化をしているように感じるところがござるのだ。

 先日、ニュースを見ておる時に、就職戦線の話がござった。
 ほとんどが大手企業や公務員などを目指し、自分だけの安定だけを図るために必死になっているということでござった。
 そりゃ、どう考えてもそのほうが安定しているように見えるものでござり、世間体も良いのでござろうな。
 ただし、全員がそうなれるものではござらぬな。
 そこに内定の決まらぬ人がドンと大勢出るという事でござろうな。

 ところがでござる、
 優秀な下請け企業や中小企業では優秀な人材が欲しいというのが実情のようでござり、優良企業もたくさんござるということでござるな。
 また伝統工芸などでも跡継ぎが欲しいという事でござる。
 そのようなところへの就職は親が反対のようでござり、安定しないという事が理由という事でござる。

 その方々は下請けがあり中小企業があって初めて大企業が成り立つものというのをお分かりになっていないようでござるな。
 伝統工芸や技術もそうでござる。
 下支えがあって初めてそれに助けられた表舞台があるのでござる。
 それらが冷遇される社会がもちろん変なのでござるがな。
 
 そのような状況は、歴代の永田町と霞ヶ関が作り上げたものでござろうが、それらの人たちもまた同じような流れで過ごしてきた人なのでござろうかな。
 仕事とは、まず、楽しく、自分の人生をかけられるものでござり、信念をもてるもの、と思うのでござる。
 金はそれについてくるということでなければ、世の中狂っているのでござろうな。

 と、水飲み百姓のたわごとでござる。
 
 で、「明日の心だ!」