いよいよ登場でござるのだ!
拙者の孫でござるのだ!
もんくあっか!
なんて高い調子でがなってみても、「あほか!」と言われればそれまででござるな。
しかし、嬉しいものでござる。
そうは聞かされていても、実際に見ると自然と笑みがこぼれるのでござる。
なんと言えばいいのかわからぬのでござるが、とにもかくにも嬉しいのでござるのだ。
倅のこの頃にも似ておるのでござるが、全体には嫁と似ており、倅に言わせると「嫁の写真はこのままだ」ということでござる。
されど、この孫は男なのでござるのだ。
ちゃんと忘れ物をせずに出てきたのでござるよ。
実のところ、男の子でござろうが女の子でござろうが、拙者良かったのでござる。
まず普通に生まれてくることでござるのだ。
それで、十分なのでござる。
この写真、宮参りのとき、拙者からお祝いに送った祝いの「おしもん(和三盆や米粉などを固めた菓子)」をだかえさせられたところでござる。
当地方では祝い事などには、これを贈ったり内祝いにする風習がござるのだ。
しかし、写真で見ると、おしもんの鯛が大きいのか孫が小さいのか、ちょっと面白い写真でござる。
倅と嫁は、拙宅へメールの受けられるパネルを置いて、毎日のように写真を送ってくれるのでござる。
それを見ては、拙者、曾爺様、曾ばあ様はニンマリとしているのでござる。
家族で喧嘩をしても、これを見ると恥ずかしくなるのでござるな。
孫とは不思議なものなのでござる。
拙者の知る範囲では、拙者の爺様がいて婆様と一緒になり、拙者の父上(今の曾爺様)が生まれて、母上と一緒になり、そして拙者が生まれたのでござるな。
その拙者が家内と一緒になって、倅二人が生まれたのでござるな。
そしていつの間にか、倅の一人が嫁と結婚して、この孫が生まれたのでござる。
命というのは連々と受け継がれるのでござるな。
逆鼠算の要領で、10代遡ると実に1,024人の人が関わる事になるのでござるな。
12代となると4,096人の人がいないと、今の拙者がいないという事になるのでござるな。
その半数づつの男女がいないと、今の拙者は影も形も無いのでござる。
そう思うと、一体拙者は誰だなんていうことや、ご先祖は云々と家系を述べても、何にもならぬように思えるのでござる。
ご先祖が江戸末期に水飲み百姓でござると言われても、その何代か前にはやんごとなき身分でござったかも知れぬのでござる。
今は権勢を奮っていても、二十代前には誰がいたかわからぬのでござるな。
今その辺で偉そうに肩で風切って歩いている人も、先祖をたどれば夜盗追い剥ぎであったかも知れぬのでござるな。
そう考えてテレビなどを見ていると、「この人のご先祖は・・・」という考えになり、実に面白いのでござる。
戦国時代には、ご先祖さんどうしが血みどろの戦をしていたかも知れぬのでござる。
こう考えると、人というか、動物の世界、ひいては生物の世界は面白くなるのでござるな。
今だけを見て、「あそこの家は・・・」とか「あの人の先祖は・・・」などと言う事がばかばかしくなるのでござるな。
願うのは、この孫がこの先どのような艱難辛苦にも耐えて、立派に独り立ちをしてくれて、健康で過ごせる事でござる。
できれば、酷い艱難辛苦は勘弁願いたいものでござる。
安寧と健康を願うのは、肉親ならば誰でもでござるな。
それでは、ニンマリとして次の作業に掛かるのでござる。
「明日の心だ!」
拙者の孫でござるのだ!
もんくあっか!
なんて高い調子でがなってみても、「あほか!」と言われればそれまででござるな。
しかし、嬉しいものでござる。
そうは聞かされていても、実際に見ると自然と笑みがこぼれるのでござる。
なんと言えばいいのかわからぬのでござるが、とにもかくにも嬉しいのでござるのだ。
倅のこの頃にも似ておるのでござるが、全体には嫁と似ており、倅に言わせると「嫁の写真はこのままだ」ということでござる。
されど、この孫は男なのでござるのだ。
ちゃんと忘れ物をせずに出てきたのでござるよ。
実のところ、男の子でござろうが女の子でござろうが、拙者良かったのでござる。
まず普通に生まれてくることでござるのだ。
それで、十分なのでござる。
この写真、宮参りのとき、拙者からお祝いに送った祝いの「おしもん(和三盆や米粉などを固めた菓子)」をだかえさせられたところでござる。
当地方では祝い事などには、これを贈ったり内祝いにする風習がござるのだ。
しかし、写真で見ると、おしもんの鯛が大きいのか孫が小さいのか、ちょっと面白い写真でござる。
倅と嫁は、拙宅へメールの受けられるパネルを置いて、毎日のように写真を送ってくれるのでござる。
それを見ては、拙者、曾爺様、曾ばあ様はニンマリとしているのでござる。
家族で喧嘩をしても、これを見ると恥ずかしくなるのでござるな。
孫とは不思議なものなのでござる。
拙者の知る範囲では、拙者の爺様がいて婆様と一緒になり、拙者の父上(今の曾爺様)が生まれて、母上と一緒になり、そして拙者が生まれたのでござるな。
その拙者が家内と一緒になって、倅二人が生まれたのでござるな。
そしていつの間にか、倅の一人が嫁と結婚して、この孫が生まれたのでござる。
命というのは連々と受け継がれるのでござるな。
逆鼠算の要領で、10代遡ると実に1,024人の人が関わる事になるのでござるな。
12代となると4,096人の人がいないと、今の拙者がいないという事になるのでござるな。
その半数づつの男女がいないと、今の拙者は影も形も無いのでござる。
そう思うと、一体拙者は誰だなんていうことや、ご先祖は云々と家系を述べても、何にもならぬように思えるのでござる。
ご先祖が江戸末期に水飲み百姓でござると言われても、その何代か前にはやんごとなき身分でござったかも知れぬのでござる。
今は権勢を奮っていても、二十代前には誰がいたかわからぬのでござるな。
今その辺で偉そうに肩で風切って歩いている人も、先祖をたどれば夜盗追い剥ぎであったかも知れぬのでござるな。
そう考えてテレビなどを見ていると、「この人のご先祖は・・・」という考えになり、実に面白いのでござる。
戦国時代には、ご先祖さんどうしが血みどろの戦をしていたかも知れぬのでござる。
こう考えると、人というか、動物の世界、ひいては生物の世界は面白くなるのでござるな。
今だけを見て、「あそこの家は・・・」とか「あの人の先祖は・・・」などと言う事がばかばかしくなるのでござるな。
願うのは、この孫がこの先どのような艱難辛苦にも耐えて、立派に独り立ちをしてくれて、健康で過ごせる事でござる。
できれば、酷い艱難辛苦は勘弁願いたいものでござる。
安寧と健康を願うのは、肉親ならば誰でもでござるな。
それでは、ニンマリとして次の作業に掛かるのでござる。
「明日の心だ!」