B年.待降節第1主日
表紙
「わたしたちは、主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる。」
入祭唱
「神よ、わたしは心をこめてあなたを仰ぐ。わたしの神よ、あなたにより頼む。
はむかう者が勝ち誇り、わたしが恥を受けないように。あなたを呼び求める者は
誉れを受け、あなたに背く者は打ち負かされる。」
挨拶
「クリスマスまで4週。でも待降節としての意味がある。浮かれているのでなく、
意味を大切にしたい。色は紫。回心の色。」
第一朗読(イザヤの預言)
「どうか、天を裂いて降ってください。」
答唱詩編
「神よわたしに目を注ぎ、強めてください、手を差し伸べて。」
第二朗読(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
「わたしたちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる。」
アレルヤ唱
「主よあなたのいつくしみを示し、救いをお与えください。」
福音説教(マルコによる、13.33-37)
「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたには
分からないからである。」
「神の救いを一年を通してミサで踏襲して来たが、今日は一年の始まり。先週まで
がA年。これからB年。3年間。A・B・Cがある。待降節はクリスマスの準備。だけ
じゃない。
今日のミサ。深い意味がある。主が来られる。世の終わり。それは、世界の完成。
キリストの再臨。それと、イエズスがお生まれになった。主が来れれる。それを祝う
のがクリスマス。でも、それだけで良いか?わたしたち人間は小さい存在である。
神の方で、自分からやって来る?わたしたちは、「神様の中に存在している」のでは
なかったか?神の中で泳いでいる。そして、神に普段、気付かない。神を忘れている。
神は来られる、ではない。神はそこにおられる。じっと待っておられる。だから、待って
いるのは、神様の方。歩んで行くのは、我々の方。放蕩息子の喩えのように、帰って
来るのを待っている。だから待降節の本当の意味は、「わたしたちが神の方へ近づく。」
神の国は、愛の国である。そこは、平和の世界、正義の世界。神の思いが満ちてい
る世界。人間が作り上げて行くのではない。既に完成している。だから、わたしたちが、
どれだけ受け入れるか?である。分裂・対立から、神を受け入れて行く。そこに人生の
意味・歴史がある。神をどこ迄受け入れていくか?神の御子が何回、何10回、何100
回生まれようが、わたしたちの心の中に生まれてくれなければ、何の意味があるか?
神を受け入れていかなければ、25日過ぎれば元の木阿弥。
何回も言っているように、わたしたちは、神という海の中の魚・スポンジ。スポンジの
中に海の水がどれだけ染み込むか?普段日常の中で、神を拒んでいないか?神が不
都合だからと自分の思いだけで精一杯。そして、神を自分の中から拒んでしまう。そう
ではなく、神に向かう。神に向かって少しでも近づいて行く。そして、常に、「わたしたち
の人生は、これで良いのかな?」と反省していく。それがキリスト者の生き方。「これで
いいのかな」が大事。神に向かって、「こんな自分でいいのかな?」と反省していく。
その判断の基準は福音。聖書。それが基準。特に待降節の間に、一歩でも半歩でも
近づく。そういうふうに自分を変えてく。待降節は、単なるクリスマスのための準備期間
ではない。神は、わたしたちの周りにおられる。わたしたちが神に行くのであって、神が
わたしたちのところに来られるではない。それは、天動説・地動説。太陽が東から昇り
西へ沈む、でなく、実際は、地球が回転しているように、神がわたしたちにやって来る、
でなく、わたしたちが神の方へ行く。わたしたちは、固定した存在ではなく、神の中に
存在し、生きている。人間的な言い方ではなく、わたしたちが神の方へ行く。待ってい
るのは神。わたしたちは、「それに相応しくない。」 でも、神はわたしたちにまで目を
留められ、御独り子を送られた。そして、今もわたしたちを待たれている。だから、わたし
たちは、毎日毎日神の方に近づいて行く。それが大事。そういう生き方をしたい。そうい
う生き方をしているか?毎日反省していきたいと思う。」
(11/30、カトリック飯田教会ミサ、主任司祭・伊藤神父様の説教をわたくし乗倉のメモ
書きから起こしました。文責はわたくしにあります。)
「教会の暦の新しい暦に。「目を覚ましていなさい。」 待降節は4週間だが、昔は4旬節
=40日間だった。主の現われの準備は、5世紀に遡る。イタリア・イスパニアで40日間
待ち望んだ。そして、1/6の主の現れ。この習慣がローマ教会へ入って来た。そして、
4週間の待降節になった。ところで、教会の典礼の頂点は御復活。マタイによると、イエルサレム入城を祝われた。神殿の中で商人を追い出した。当時の権力者達からの質問を悉く論破して来た。民衆に主の御言葉を伝えて来た。そして逮捕され、十字架に架けらた。マルコ。イエスの弟子達が神殿を賛美した。素晴らしい神殿だと。でも、石が何一つ残らない。完全に破壊される。ソロモンによってバビロンに倣って再建された。当時、2番目の神殿だった。そして拡張されていた。素晴らしい神殿であった。それがローマ兵によって破壊された。AD7世紀。ルカ。イエルサレムと世の終わり。語られている。それとともに、「山へ逃げなさい」。亡くなった人が膨大な数になった。それらの人々は、キリストの言葉を守らずに、城の中に閉じ篭った。でも城が破壊され死んでしまった。しかし、イエスの言葉を守り、山に逃げた人は助かった。しかし、それによって、古い教会が破壊され、古い信仰から新しい信仰へと移った。イエス亡くなって、復活した。そして教会大きくなっていった。世の終わり。イエルサレムの話から全世界への話に移行している。天体が揺り動かされる。大きな変動がある。「喜びなさい」「目を覚ましていなさい。」 それが何時なのか?弟子も知らない。御使いも知らない。イエスは知っている。「目を覚まして準備していなさい」 イエルサレムじゃなくても、死が何時来るのか?分からない。病気だとある程度予想がつく。でも事故などで何時終わるか分からない。目を覚ましていて、イエスの話されたことを実行していなければならない。わたしたちにとって、死が何時訪れても幸い。死は、天国へ行くこと。御言葉を心に留めて生きて行きたい。」
(11/30、カトリック駒ヶ根教会ミサ、主任司祭・武田神父様の説教をわたくし乗倉のメモ書きから起こしました。文責はわたくしにあります。)
共同祈願
「目を覚まして、主キリストを待ち望もう。」
拝領唱
「神は恵みを注がれ、地は豊かに実る」
notes
1 12月第1。クリスマスの飾り付けと掃除。
2 野菜。白菜・大根。伊原・伊藤農園。飢餓機構に全額寄付。
3 駒ヶ根から何人か来ています。3週。来週まで。
4 今週1週間、東京の聖アントニオ修道院へ行く。何かあったらフランシスコ会へ。神 学校へ。その間は携帯を切っているので。
5 フィリピンの人で、遅れて来る人が多い。神の御言葉・ミサを大切に。神の御言葉に 耳を傾ける。少し前に来て、神様御免なさい。人に対して、1週間、御免なさい。言 う。遅れるという悪い週間を改めるようにしてください。
表紙
「わたしたちは、主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる。」
入祭唱
「神よ、わたしは心をこめてあなたを仰ぐ。わたしの神よ、あなたにより頼む。
はむかう者が勝ち誇り、わたしが恥を受けないように。あなたを呼び求める者は
誉れを受け、あなたに背く者は打ち負かされる。」
挨拶
「クリスマスまで4週。でも待降節としての意味がある。浮かれているのでなく、
意味を大切にしたい。色は紫。回心の色。」
第一朗読(イザヤの預言)
「どうか、天を裂いて降ってください。」
答唱詩編
「神よわたしに目を注ぎ、強めてください、手を差し伸べて。」
第二朗読(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
「わたしたちは主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる。」
アレルヤ唱
「主よあなたのいつくしみを示し、救いをお与えください。」
福音説教(マルコによる、13.33-37)
「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたには
分からないからである。」
「神の救いを一年を通してミサで踏襲して来たが、今日は一年の始まり。先週まで
がA年。これからB年。3年間。A・B・Cがある。待降節はクリスマスの準備。だけ
じゃない。
今日のミサ。深い意味がある。主が来られる。世の終わり。それは、世界の完成。
キリストの再臨。それと、イエズスがお生まれになった。主が来れれる。それを祝う
のがクリスマス。でも、それだけで良いか?わたしたち人間は小さい存在である。
神の方で、自分からやって来る?わたしたちは、「神様の中に存在している」のでは
なかったか?神の中で泳いでいる。そして、神に普段、気付かない。神を忘れている。
神は来られる、ではない。神はそこにおられる。じっと待っておられる。だから、待って
いるのは、神様の方。歩んで行くのは、我々の方。放蕩息子の喩えのように、帰って
来るのを待っている。だから待降節の本当の意味は、「わたしたちが神の方へ近づく。」
神の国は、愛の国である。そこは、平和の世界、正義の世界。神の思いが満ちてい
る世界。人間が作り上げて行くのではない。既に完成している。だから、わたしたちが、
どれだけ受け入れるか?である。分裂・対立から、神を受け入れて行く。そこに人生の
意味・歴史がある。神をどこ迄受け入れていくか?神の御子が何回、何10回、何100
回生まれようが、わたしたちの心の中に生まれてくれなければ、何の意味があるか?
神を受け入れていかなければ、25日過ぎれば元の木阿弥。
何回も言っているように、わたしたちは、神という海の中の魚・スポンジ。スポンジの
中に海の水がどれだけ染み込むか?普段日常の中で、神を拒んでいないか?神が不
都合だからと自分の思いだけで精一杯。そして、神を自分の中から拒んでしまう。そう
ではなく、神に向かう。神に向かって少しでも近づいて行く。そして、常に、「わたしたち
の人生は、これで良いのかな?」と反省していく。それがキリスト者の生き方。「これで
いいのかな」が大事。神に向かって、「こんな自分でいいのかな?」と反省していく。
その判断の基準は福音。聖書。それが基準。特に待降節の間に、一歩でも半歩でも
近づく。そういうふうに自分を変えてく。待降節は、単なるクリスマスのための準備期間
ではない。神は、わたしたちの周りにおられる。わたしたちが神に行くのであって、神が
わたしたちのところに来られるではない。それは、天動説・地動説。太陽が東から昇り
西へ沈む、でなく、実際は、地球が回転しているように、神がわたしたちにやって来る、
でなく、わたしたちが神の方へ行く。わたしたちは、固定した存在ではなく、神の中に
存在し、生きている。人間的な言い方ではなく、わたしたちが神の方へ行く。待ってい
るのは神。わたしたちは、「それに相応しくない。」 でも、神はわたしたちにまで目を
留められ、御独り子を送られた。そして、今もわたしたちを待たれている。だから、わたし
たちは、毎日毎日神の方に近づいて行く。それが大事。そういう生き方をしたい。そうい
う生き方をしているか?毎日反省していきたいと思う。」
(11/30、カトリック飯田教会ミサ、主任司祭・伊藤神父様の説教をわたくし乗倉のメモ
書きから起こしました。文責はわたくしにあります。)
「教会の暦の新しい暦に。「目を覚ましていなさい。」 待降節は4週間だが、昔は4旬節
=40日間だった。主の現われの準備は、5世紀に遡る。イタリア・イスパニアで40日間
待ち望んだ。そして、1/6の主の現れ。この習慣がローマ教会へ入って来た。そして、
4週間の待降節になった。ところで、教会の典礼の頂点は御復活。マタイによると、イエルサレム入城を祝われた。神殿の中で商人を追い出した。当時の権力者達からの質問を悉く論破して来た。民衆に主の御言葉を伝えて来た。そして逮捕され、十字架に架けらた。マルコ。イエスの弟子達が神殿を賛美した。素晴らしい神殿だと。でも、石が何一つ残らない。完全に破壊される。ソロモンによってバビロンに倣って再建された。当時、2番目の神殿だった。そして拡張されていた。素晴らしい神殿であった。それがローマ兵によって破壊された。AD7世紀。ルカ。イエルサレムと世の終わり。語られている。それとともに、「山へ逃げなさい」。亡くなった人が膨大な数になった。それらの人々は、キリストの言葉を守らずに、城の中に閉じ篭った。でも城が破壊され死んでしまった。しかし、イエスの言葉を守り、山に逃げた人は助かった。しかし、それによって、古い教会が破壊され、古い信仰から新しい信仰へと移った。イエス亡くなって、復活した。そして教会大きくなっていった。世の終わり。イエルサレムの話から全世界への話に移行している。天体が揺り動かされる。大きな変動がある。「喜びなさい」「目を覚ましていなさい。」 それが何時なのか?弟子も知らない。御使いも知らない。イエスは知っている。「目を覚まして準備していなさい」 イエルサレムじゃなくても、死が何時来るのか?分からない。病気だとある程度予想がつく。でも事故などで何時終わるか分からない。目を覚ましていて、イエスの話されたことを実行していなければならない。わたしたちにとって、死が何時訪れても幸い。死は、天国へ行くこと。御言葉を心に留めて生きて行きたい。」
(11/30、カトリック駒ヶ根教会ミサ、主任司祭・武田神父様の説教をわたくし乗倉のメモ書きから起こしました。文責はわたくしにあります。)
共同祈願
「目を覚まして、主キリストを待ち望もう。」
拝領唱
「神は恵みを注がれ、地は豊かに実る」
notes
1 12月第1。クリスマスの飾り付けと掃除。
2 野菜。白菜・大根。伊原・伊藤農園。飢餓機構に全額寄付。
3 駒ヶ根から何人か来ています。3週。来週まで。
4 今週1週間、東京の聖アントニオ修道院へ行く。何かあったらフランシスコ会へ。神 学校へ。その間は携帯を切っているので。
5 フィリピンの人で、遅れて来る人が多い。神の御言葉・ミサを大切に。神の御言葉に 耳を傾ける。少し前に来て、神様御免なさい。人に対して、1週間、御免なさい。言 う。遅れるという悪い週間を改めるようにしてください。