修験道というのは、
日本古来の自然信仰と仏教をメインに、
道教などをも習合したもののようだ。
その目的は、大乗仏教と同じく
衆生済度と成道にあるらしい。
けれど、仏教のようには、出離を言わない。
つまり、世の中や人々の醜さをいとわない?
解脱より、救済に重点がおかれる。
貧困や病などの、現実を生きる人々の苦しみを救うこと。
それだけ見れば大乗仏教的だけれど、
仏教的な救済においては、現世利益は方便である。
最終的に目指すべき本質的な救済は、
衆生の成道にある。
仏教においての覚りは、
すべての生きとし生けるものを成道させるという、
とんでもない課題にも尻込みしない
勇気をもたらすという。
修験道においては、
そこまで遠大なことは考えないようだ。
煩悩を抱えながらも、
煩悩に振り回される余裕すらない
苦しみに生きる底辺の民衆。
彼らを、苦しみに満ちた世の中から救うための応急手当が
修験道の役割だったのかもしれない。
***
修験道が敬う“権現”は、宇宙の法の象徴である“仏”が、
仮の姿を取った存在だという。
わたしはそれを、
他界の神が仏法を体得し、
仏法に基づいて人々を救おうとしている姿、と
感じる。
他界の神は、太古から民衆が敬い続けてきた
もっとも原初的な神である。
自然神であり、
先祖や開拓者が還った神でもある。
それは普遍原理である“仏”よりも
やや肉親に近い性質を持つように思う。
***
そもそも原始的な時代には、指導者には、
コミュニティを繁栄させる神なる力が求められた。
天災が続き、苦しみが多く、人々が困窮の底にあれば、
それは指導者の責任だった。
指導者は、他界の神を祀り、敬い、
人々にその守護を分け与え得なくてはならなかった。
だが、やがて政治は大衆を忘れ、
大衆に呪術的な責任を負わなくなったのである。
苦しみにあえぐ民衆を見かねて、
他界の神々は、役行者のような人たちを取り次ぎに選んだ。
その選ばれた人たちが、
自然に魅入られ、やがて修験者となった、とは
考えられないだろうか?
***
他界の神々が、仏としても祀られる事を選び、
仏となった理由はわからない。
神道祭祀が、朝廷の管轄下で
特定の氏族の既得権になってしまった為かもしれない。
けれど、他界に存在する自然神が、
たとえ最初から仏の化身だったとしても、
仏法を知らなければ、
仏教的な悟りを得ることはないように思う。
なぜなら、例え化身として生まれた人間であっても、
仏法を知らずに仏教の悟りには至らないから。
他界に現れる権現は、
敬う人々の供養によって仏の姿を取ったように思う。
***
わたしはなぜ、
権現が最初から仏であると考えないのか。
なぜ、修験道の説く通りに、
自然は最初から仏であると考えないのか。
それは、聖地を訪れたときの感触による。
すべての霊地の神々が、
本当に空を体得し、法身を得ているとは限らない、
と感じる。
他界の神としての尊厳や力を否定しているのではない。
敬い、畏怖してはいるのである。
けれど、他界の神にもまた、人間と同じように
粗大な状態と精妙な状態があるとしたら、
もっとも精妙な状態だとは思えない神も、
多くいる。
それは、他界の神々が、
本当の完成した仏教…
チベット仏教に出会うことでしか
あるいは、本当の覚者と出会い、本当の覚りを知ることでしか
変えられないように思う。
日本古来の自然信仰と仏教をメインに、
道教などをも習合したもののようだ。
その目的は、大乗仏教と同じく
衆生済度と成道にあるらしい。
けれど、仏教のようには、出離を言わない。
つまり、世の中や人々の醜さをいとわない?
解脱より、救済に重点がおかれる。
貧困や病などの、現実を生きる人々の苦しみを救うこと。
それだけ見れば大乗仏教的だけれど、
仏教的な救済においては、現世利益は方便である。
最終的に目指すべき本質的な救済は、
衆生の成道にある。
仏教においての覚りは、
すべての生きとし生けるものを成道させるという、
とんでもない課題にも尻込みしない
勇気をもたらすという。
修験道においては、
そこまで遠大なことは考えないようだ。
煩悩を抱えながらも、
煩悩に振り回される余裕すらない
苦しみに生きる底辺の民衆。
彼らを、苦しみに満ちた世の中から救うための応急手当が
修験道の役割だったのかもしれない。
***
修験道が敬う“権現”は、宇宙の法の象徴である“仏”が、
仮の姿を取った存在だという。
わたしはそれを、
他界の神が仏法を体得し、
仏法に基づいて人々を救おうとしている姿、と
感じる。
他界の神は、太古から民衆が敬い続けてきた
もっとも原初的な神である。
自然神であり、
先祖や開拓者が還った神でもある。
それは普遍原理である“仏”よりも
やや肉親に近い性質を持つように思う。
***
そもそも原始的な時代には、指導者には、
コミュニティを繁栄させる神なる力が求められた。
天災が続き、苦しみが多く、人々が困窮の底にあれば、
それは指導者の責任だった。
指導者は、他界の神を祀り、敬い、
人々にその守護を分け与え得なくてはならなかった。
だが、やがて政治は大衆を忘れ、
大衆に呪術的な責任を負わなくなったのである。
苦しみにあえぐ民衆を見かねて、
他界の神々は、役行者のような人たちを取り次ぎに選んだ。
その選ばれた人たちが、
自然に魅入られ、やがて修験者となった、とは
考えられないだろうか?
***
他界の神々が、仏としても祀られる事を選び、
仏となった理由はわからない。
神道祭祀が、朝廷の管轄下で
特定の氏族の既得権になってしまった為かもしれない。
けれど、他界に存在する自然神が、
たとえ最初から仏の化身だったとしても、
仏法を知らなければ、
仏教的な悟りを得ることはないように思う。
なぜなら、例え化身として生まれた人間であっても、
仏法を知らずに仏教の悟りには至らないから。
他界に現れる権現は、
敬う人々の供養によって仏の姿を取ったように思う。
***
わたしはなぜ、
権現が最初から仏であると考えないのか。
なぜ、修験道の説く通りに、
自然は最初から仏であると考えないのか。
それは、聖地を訪れたときの感触による。
すべての霊地の神々が、
本当に空を体得し、法身を得ているとは限らない、
と感じる。
他界の神としての尊厳や力を否定しているのではない。
敬い、畏怖してはいるのである。
けれど、他界の神にもまた、人間と同じように
粗大な状態と精妙な状態があるとしたら、
もっとも精妙な状態だとは思えない神も、
多くいる。
それは、他界の神々が、
本当の完成した仏教…
チベット仏教に出会うことでしか
あるいは、本当の覚者と出会い、本当の覚りを知ることでしか
変えられないように思う。