Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

修験道

2009-12-01 | 思索のかけら
修験道というのは、
日本古来の自然信仰と仏教をメインに、
道教などをも習合したもののようだ。

その目的は、大乗仏教と同じく
衆生済度と成道にあるらしい。

けれど、仏教のようには、出離を言わない。
つまり、世の中や人々の醜さをいとわない?

解脱より、救済に重点がおかれる。
貧困や病などの、現実を生きる人々の苦しみを救うこと。

それだけ見れば大乗仏教的だけれど、
仏教的な救済においては、現世利益は方便である。

最終的に目指すべき本質的な救済は、
衆生の成道にある。

仏教においての覚りは、
すべての生きとし生けるものを成道させるという、
とんでもない課題にも尻込みしない
勇気をもたらすという。

修験道においては、
そこまで遠大なことは考えないようだ。

煩悩を抱えながらも、
煩悩に振り回される余裕すらない
苦しみに生きる底辺の民衆。

彼らを、苦しみに満ちた世の中から救うための応急手当が
修験道の役割だったのかもしれない。

***

修験道が敬う“権現”は、宇宙の法の象徴である“仏”が、
仮の姿を取った存在だという。

わたしはそれを、
他界の神が仏法を体得し、
仏法に基づいて人々を救おうとしている姿、と
感じる。

他界の神は、太古から民衆が敬い続けてきた
もっとも原初的な神である。

自然神であり、
先祖や開拓者が還った神でもある。

それは普遍原理である“仏”よりも
やや肉親に近い性質を持つように思う。

***

そもそも原始的な時代には、指導者には、
コミュニティを繁栄させる神なる力が求められた。

天災が続き、苦しみが多く、人々が困窮の底にあれば、
それは指導者の責任だった。

指導者は、他界の神を祀り、敬い、
人々にその守護を分け与え得なくてはならなかった。

だが、やがて政治は大衆を忘れ、
大衆に呪術的な責任を負わなくなったのである。

苦しみにあえぐ民衆を見かねて、
他界の神々は、役行者のような人たちを取り次ぎに選んだ。

その選ばれた人たちが、
自然に魅入られ、やがて修験者となった、とは
考えられないだろうか?

***

他界の神々が、仏としても祀られる事を選び、
仏となった理由はわからない。

神道祭祀が、朝廷の管轄下で
特定の氏族の既得権になってしまった為かもしれない。

けれど、他界に存在する自然神が、
たとえ最初から仏の化身だったとしても、

仏法を知らなければ、
仏教的な悟りを得ることはないように思う。

なぜなら、例え化身として生まれた人間であっても、
仏法を知らずに仏教の悟りには至らないから。

他界に現れる権現は、
敬う人々の供養によって仏の姿を取ったように思う。

***

わたしはなぜ、
権現が最初から仏であると考えないのか。

なぜ、修験道の説く通りに、
自然は最初から仏であると考えないのか。

それは、聖地を訪れたときの感触による。

すべての霊地の神々が、
本当にを体得し、法身を得ているとは限らない、
と感じる。

他界の神としての尊厳や力を否定しているのではない。
敬い、畏怖してはいるのである。

けれど、他界の神にもまた、人間と同じように
粗大な状態と精妙な状態があるとしたら、

もっとも精妙な状態だとは思えない神も、
多くいる。

それは、他界の神々が、
本当の完成した仏教…
チベット仏教に出会うことでしか

あるいは、本当の覚者と出会い、本当の覚りを知ることでしか
変えられないように思う。

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