ミロクには大自在天と云う敵がある、
ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。
もしミロクの百の力が一つ欠けたなら、大自在天は勝つのであって、
是ではどうしてもミロクの世になることはできぬのである。
大自在天には財力がある。
そうして今日は筆の力、口の力で攻めてくる。
法律権力で攻めてくる。
或いは軍隊の力を以て攻めてくると云うように、
どんな権力でも持っている。
即ち九十九の力を持って居るのであるが、
ミロクの方はそう云うものは何も持っておらぬ。
唯、誠と云う一つの玉を持って居るのみである。
剣とか、弓とか、そういう圧迫するものはなくて、
唯、誠一つで、
大自在天の各種の力にぶつかって行くのであります。
出口王仁三郎『王仁文庫 第二輯』五色草
***
ヒンドゥーの破壊神・シヴァを
仏教では、大自在天と呼びます。
元々は、モンスーンの破壊力を象徴する嵐の神で、
創造神ブラフマー、すなわち梵天に変わって、
ヒンドゥーの主神となりました。
梵天は、お釈迦さまが覚ったとき、説法しなさいと促した神さまで、
彼の勧めがなければ、仏教は生まれなかったでしょう。
彼は仏教の守護神であり、
また、弁天さまの夫にもあたります。
大本の、艮の金神・国常立命と、同じような性格をもつ
神さまだと思います。
対する大自在天=シヴァは、
ヒンドゥーの苦行者の姿を持つ、苦行の守護神でもあります。
***
インド哲学には、根源を示す
アートマンという概念があります。
梵天が主神であった時代、それは、
“~でないもの”という言葉だけで表される、
仏教の“空”に似た概念でした。
時代が下り、それは、
真我…すなわち、
不滅の根元的な個我、と
考えられるようになりました。
ヒンドゥーの苦行は、
真我を見い出すためのもの。
***
仏教は“空”を説きます。
すべては実在ではなく、
縁起により仮に集まっているだけの姿で、
自我もまた同じだと。
自分というものは存在しないのだと。
チベットのタントラでは、修行により、自己を
粗大な状態から、より微細な状態へと変化させていきます。
思うに、真我というような不滅の精神が存在するのではなく、
気質や性質を伴う微粒子の集まりが、意識を構成するのでは。
真我があると考えることは、自我意識の領域を作り出します。
それは領域の周囲に壁を作り出すことでもあります。
すると、微粒子は自由を失い、
周囲の微粒子からエネルギーを取り入れることも、
与えることも出来なくなるでしょう。
***
大自在天は、真我という意識を抱えた存在で、
それが正しいことを疑いません。
ヒンドゥーの苦行は、真我を見い出すためのものであり、
故に真我を信じることが信仰となる。
それ故に、とても強い。
その自我意識の壁は、
周囲からいくら愛を注いでも、溶けることがありません。
自我の存在を信じるがゆえに、その領域は作り出され、
領域がないことを受け入れないが故に、
領域を確定させる体を必要とする。
彼に選んでいる余裕はなく、
目の前の体に飛び付くようにしながら、
輪廻を続ける。
ないことを体得した存在だけが、ないことに安住し、
時に生まれ変わりを選ぶ。
***
大自在天の改心は、
愛を注ぐだけではダメなようです。
おそらく、彼自身の認識の変化が
どうしても必要なのでしょう。
ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。
もしミロクの百の力が一つ欠けたなら、大自在天は勝つのであって、
是ではどうしてもミロクの世になることはできぬのである。
大自在天には財力がある。
そうして今日は筆の力、口の力で攻めてくる。
法律権力で攻めてくる。
或いは軍隊の力を以て攻めてくると云うように、
どんな権力でも持っている。
即ち九十九の力を持って居るのであるが、
ミロクの方はそう云うものは何も持っておらぬ。
唯、誠と云う一つの玉を持って居るのみである。
剣とか、弓とか、そういう圧迫するものはなくて、
唯、誠一つで、
大自在天の各種の力にぶつかって行くのであります。
出口王仁三郎『王仁文庫 第二輯』五色草
***
ヒンドゥーの破壊神・シヴァを
仏教では、大自在天と呼びます。
元々は、モンスーンの破壊力を象徴する嵐の神で、
創造神ブラフマー、すなわち梵天に変わって、
ヒンドゥーの主神となりました。
梵天は、お釈迦さまが覚ったとき、説法しなさいと促した神さまで、
彼の勧めがなければ、仏教は生まれなかったでしょう。
彼は仏教の守護神であり、
また、弁天さまの夫にもあたります。
大本の、艮の金神・国常立命と、同じような性格をもつ
神さまだと思います。
対する大自在天=シヴァは、
ヒンドゥーの苦行者の姿を持つ、苦行の守護神でもあります。
***
インド哲学には、根源を示す
アートマンという概念があります。
梵天が主神であった時代、それは、
“~でないもの”という言葉だけで表される、
仏教の“空”に似た概念でした。
時代が下り、それは、
真我…すなわち、
不滅の根元的な個我、と
考えられるようになりました。
ヒンドゥーの苦行は、
真我を見い出すためのもの。
***
仏教は“空”を説きます。
すべては実在ではなく、
縁起により仮に集まっているだけの姿で、
自我もまた同じだと。
自分というものは存在しないのだと。
チベットのタントラでは、修行により、自己を
粗大な状態から、より微細な状態へと変化させていきます。
思うに、真我というような不滅の精神が存在するのではなく、
気質や性質を伴う微粒子の集まりが、意識を構成するのでは。
真我があると考えることは、自我意識の領域を作り出します。
それは領域の周囲に壁を作り出すことでもあります。
すると、微粒子は自由を失い、
周囲の微粒子からエネルギーを取り入れることも、
与えることも出来なくなるでしょう。
***
大自在天は、真我という意識を抱えた存在で、
それが正しいことを疑いません。
ヒンドゥーの苦行は、真我を見い出すためのものであり、
故に真我を信じることが信仰となる。
それ故に、とても強い。
その自我意識の壁は、
周囲からいくら愛を注いでも、溶けることがありません。
自我の存在を信じるがゆえに、その領域は作り出され、
領域がないことを受け入れないが故に、
領域を確定させる体を必要とする。
彼に選んでいる余裕はなく、
目の前の体に飛び付くようにしながら、
輪廻を続ける。
ないことを体得した存在だけが、ないことに安住し、
時に生まれ変わりを選ぶ。
***
大自在天の改心は、
愛を注ぐだけではダメなようです。
おそらく、彼自身の認識の変化が
どうしても必要なのでしょう。