Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

行為は報われるべきか

2010-07-10 | 思索のかけら
“努力は報われるべきだ”と、人は言う。
政治家はもっともらしくそうなる世の中を約束し、
人々はそれを願う。

だけど誰も、その努力の中身を問わない。
なぜだろう?

あなたはどんな努力をしているのか?
そして、それがどう報われるべきだと思っているのか?

***

努力には、もちろん結果が伴う。
それが、望む通りのものかは兎も角として。

自分の努力に対して出た結果。
それこそ、その努力が現実に及ぼした作用の報いである。
それが、因果の現実だ。

そこから、認めなくてはならない。
そこを外したら、なにも分からなくなる。

こういう努力には、こういう結果が出る。
その組み合わせを多く知ることである。
望む結果が出ないなら、その理由を考え、試行錯誤しなくてはならない。

“こんな結果はイヤだ、政治家がなんとかしろ!”
ではないのである。

もちろん、きちんと因果関係を考え、試行錯誤を重ね、
自らの工夫の及ぶ範囲で最善を尽くして、
それでもいい結果が出ない原因の一つに政治がある、というのなら、
政治を変える試みも必要だろう。

しかし、ただやみくもに努力(というより、単なる我慢)をしただけで、
結果を政治に出させようというのなら無茶な話だ。

だだをこねて、因果が変わるのなら世話はない。

最初に人間の集まりとしての社会があり、
その一定の法則がある。
因果は、人間の性質とその集団の性質の持つ法則である。

政治でムリヤリ因果をねじ曲げれば、
人間の性質に無理がかかり、ひずみは必ず現れることになる。

***

仏教では、行為には、
有漏の行為と無漏の行為があるという。

有漏の行為とは、
“肉体”が確固として存在する“この”自分である、と信じている段階に
その肉体から生ずる動機で行うもの。

あるいは、“メタ認知”が確固として存在する“この”自分である、と信じている段階に
そのメタ認知から生ずる動機で行うもの。

それらはよい動機とはならず、その結果は煩悩を増大させるという。

その行為は、たとえどんな努力を伴っていたとしても、
苦しみを増すばかりの結果になると、仏教は説くのである。

そこから得られたものは、人を満たさない。
本当の満足をもたらさない。

見栄を張れば、より多くの見栄を張らなければならなくなる。
権力を振り回せば、より大きな権力を振り回したくなる。

不満が、増すばかりなのである。

***

逆に、無漏の行為というものもある。
これは苦しみをもたらさない清められた行為である。

それは覚りからもたらされるが、
覚るなどということは、ごく普通の人間には、難しいだろう。

だが、普通の人間にも、よき動機はある。
それは、自分を真実に近づけていこうとするところから出る。

世界そのものとも言える、常に移り変わる流れのような御仏(大霊)から
常に流れ込み、流れ出していくだけの霊が、本当の自分なのである。

それは不確かなものであり、実体を持たない。

そうした認識に、自分を近づけていこうとする努力から出るのは、
よき動機と言える。

***

もしも肉体の感覚が強すぎ、メタ認知が持ちにくいタイプならば、
なにかのついででいい。

歩きながらでも、他人ごとのように
“歩いています、
右足を出しました、左足を出しました、
つまずきました”と実況中継でもして、メタ認知を育てた方がいい。

それは御仏から流れ込む働きであり、跡をとどめない。

メタ認知を育てたら、そのメタ認知が望む自分になるために、
腹に力をいれて、自分を利他の努力に掻き立てるのだ。

空であるメタ認知に体を従えていくうちに、
肉体は清まっていくだろう。

そうした努力は必ず報われる。
努力を重ねるうち、いつか本当に、無漏の行為に辿り着くだろう。
いつか、

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