Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

厭世と現世肯定

2009-11-30 | 思索のかけら
仏教自体が厭世的とは言えないかもしれないけど、
仏教は厭世から入る教えだ。

世の中の醜さ、人々の醜さ、
人生と自分自身の醜さ。

仏の教えを本当に必要とするためには、
それを厭い、そこから抜け出ようとする気持ちが、
必要だと言う。

そこから本当に救い出してくれるのは
仏の教えだけだから。

***

世の中の、人々の、ネガティブな面。
例えば、

近視眼的で世俗的な欲望を満たすために、
我こそがと押し除けあい、力の行使も厭わない。

また、他人のそうした貪欲さを上手く利用する事で
自らの欲望を少しでも多く満たそうとする。

そうした事にあくせくしながら人生を過ごし、
人は老いて行く。

欲望を満たす為のレースに勝利した人間は、
老いてなおそれにしがみつく。

脅かすものを蹴落とすことに窮窮としながら。
権力と金を振り回し。

勝利できなかった人間は、せめてもの縁にしがみつき、
なお少しでも多く得ることを望む。

欲望の残滓は尽きることもなく。

やがて死に怯えながら、死に臨んで、
あがき苦しむ。

それは生まれ変わる限り
永遠に続くのである。

***

そうした生き方と世の中に、つくづくと嫌気がさした人間に、
仏教は、超える為の方法論を示す。

だから、そうした世の中で勝って幸せだと思っている人や、
それをイヤだと思う感性がない人には、
必要とされない。

***

神道の根本には、現世肯定があるように思う。

それは、神々が生み出し育ててくれた自然と世界への
感謝からなる信仰である。

自然力の不可思議や、
過去の人々の苦労と足跡を肯定し、
その上に生かされていることへの感謝。

わたしはずっと、
そうした感覚を強く持って生きてきた。
だけど同時に、仏教的な厭世観も持っている。

それは矛盾するものだろうか?

わたしは自然や地域を愛している。
原始宗教の素朴さを持って。
だけど醜い人間性を厭わしく思ってもいる。

***

神道は原始宗教に端を発する信仰であり、
仏教は、都市文明を背景として発生したものだと思う。

自然の中で自然と共に生きる人に、
仏教は当てはまるだろうか?

自然の中で開拓者として生きる人に
仏教は力を与えるだろうか?

出家は、出家という余剰を抱える余裕のある文明の中で
初めて存在しうる。

そして仏教は“人々”を対象とするのである。
“自然と人”ではなく。

逆に言えば、神道は、
人々が牧歌的であり得た素朴な時代の理想像であり、
現実の醜さを治療しえない、
とも考えられる。

***

だがそうすると、修験道とは何なのだろう?

自然の中の仏教は、人々に、
一体なにをしてくれるのだろうか?

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