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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白56ー60

2009年05月14日 | Weblog
 李白ー56
   南陵別児童入京       南陵 児童に別れて京に入る

  白酒新熟山中帰   白酒(はくしゅ)新たに熟して山中(さんちゅう)に帰る
  黄鶏啄黍秋正肥   黄鶏(こうけい) 黍(しょ)を啄んで秋正(まさ)に肥ゆ
  呼童烹鶏酌白酒   童(どう)を呼び鶏(けい)を烹(に)て白酒を酌(く)む
  児女歌笑牽人衣   児女(じじょ)歌笑(かしょう)して人の衣(い)を牽(ひ)く
  高歌取酔欲自慰   高歌(こうか) 酔(えい)を取って自ら慰めんと欲す
  起舞落日争光輝   起って舞えば 落日光輝(こうき)を争う
  遊説万乗苦不早   万乗(ばんじょう)に遊説す 早からざりしに苦しむ
  著鞭跨馬渉遠道   鞭を著(つ)け馬に跨(またが)って遠道を渉(わた)る
  会稽愚婦軽買臣   会稽(かいけい)の愚婦(ぐふ) 買臣(ばいしん)を軽んず
  余亦辞家西入秦   余(よ)も亦 家を辞して西のかた秦(しん)に入る
  仰天大笑出門去   天を仰ぎ大笑(たいしょう)して門を出(い)で去る
  我輩豈是蓬蒿人   我輩 豈(あ)に是(こ)れ蓬蒿(ほうこう)の人ならんや

  ⊂訳⊃
          新しい酒ができたころ  山中の家に帰る
          おりしも秋  鶏は黍(きび)を食べて肥えている
          童僕を呼び  鶏(とり)の料理で酒を飲む
          息子や娘は喜んで  衣(ころも)を引いてたわむれる
          高らかに歌い  酔ってみずから慰めようと
          立って舞えば 夕陽もいっしょに煌めくようだ
          遅まきながら  天子に遊説することになり
          鞭を執り  馬に跨って都へゆく
          会稽の愚婦は  朱買臣を軽んじたが
          余もまた家を去って  西のかた長安に向かう
          天を仰ぎ  大いに笑って門を出ていく
          吾輩はもともと田舎に埋もれるような者ではない


 ⊂ものがたり⊃ 天宝元年(742)正月、玄宗皇帝は人材推薦を求める詔勅を発しました。このとき李白は東魯にいたはずです。通説では『旧唐書』にある説を採って、李白は道士の呉筠(ごいん)と越の剡中(せんちゅう)にいて、まず呉筠が都に招かれ李白を推薦したことになっています。しかし、李白にはこの年の四月作と題注のある「遊太山六首」という作品があり、四月に泰山に登っています。だから李白は、そのあと東魯を後にして江南へ旅立ったと思われます。目的はおそらく南陵の鄭氏に預けてある二子を引き取るために南陵に向かったのでしょう。
 その旅のどこかで李白は、もし天子の人材推薦の詔勅に応ずる気があるなら推薦しようという有力者がいるとの報せを受け取ったと思われます。李白は急いで南陵にゆき、事情が変わったので子供を引き取ることはしばらく見合わせたいと鄭氏に伝え、勇躍して都へ旅立ったものと思われます。

 李白ー57
   別内赴徴三首 其一   内に別れて徴に赴く 三首  其の一

  王命三徴去未還   王命三たび徴す  去らば未だ還(かえ)らざらん
  明朝離別出呉関   明朝離別して呉関(ごかん)を出(い)ず
  白玉高楼看不見   白玉(はくぎょく)高楼 看(み)れども見えず
  相思須上望夫山   相思(そうし)  須(すべか)らく上るべし望夫山

  ⊂訳⊃
          勅命三たび下れば  帰らぬこともあるかも知れぬ

          明朝別れて  呉の関門を出る

          玉殿高楼は  見ようとしても看ることはできない

          恋しい時は  望夫山に登って偲んでくれ


 ⊂ものがたり⊃ 詩題に「内に別れて」とありますが、「内」(つま)とは鄭氏のことで、正式に結婚した妻ではありません。また「王命三たび徴す」とありますが、これは当時の慣用的な言い方で、勅命を受けても三度目に応ずるのが礼儀とされていました。諸葛孔明の草廬の三顧と同じです。李白はしばらくもどれないかも知れないが、恋しいときは望夫山に登って偲んでくれと、鄭氏に因果を含めています。

 李白ー58
   別内赴徴三首 其二   内に別れて徴に赴く 三首  其の二

  出門妻子強牽衣   門を出(い)ずれば  妻子強く衣(い)を牽(ひ)き
  問我西行幾日帰   我に問う  西行(さいこう)幾日か帰ると
  来時儻佩黄金印   来(きた)る時  儻(も)し黄金の印を佩(お)ぶれば
  莫見蘇秦不下機   蘇秦(そしん)が機(き)を下られざるを見る莫(な)からん

  ⊂訳⊃
          門を出るや  妻子は衣(ころも)にすがりつき

          都に行けば  帰るのはいつかと尋ねる

          帰って来たとき  黄金の印綬(いんじゅ)を佩びていたら

          蘇秦の妻も  機織りの手をやすめて迎えたであろう


 ⊂ものがたり⊃ 私の推定では、このとき娘の平陽は十歳、息子の伯禽は七歳になっていたはずです。父親を慕う年ごろになっていますので、東魯に行っていっしょに暮らす期待に胸をふくらませていたと思います。それが駄目になり、子供たちは父親の袖にすがって別れを悲しんだに違いありません。
 都からもどるのは何時かと鄭氏に尋ねられて、もし黄金の印綬を佩びて、つまり出世して帰ってきたならば、蘇秦の妻も機(はた)織りの手を休めて迎えに出てきたであろうと、蘇秦の妻の故事を持ち出して皮肉を言っているようです。蘇秦が出世もせずに洛陽の家に帰ってきたとき、蘇秦の妻は機織りの手をやすめもせずに、出迎えもしなかったという話があります。子供を引き取る話が駄目になって、鄭氏はすこしおかんむりだったのかもしれません。

 李白ー59
   別内赴徴三首 其三   内に別れて徴に赴く 三首  其の三

  翡翠為楼金作梯   翡翠(ひすい) 楼と為(な)し 金 梯(てい)と作すとも
  誰人独宿倚門啼   誰人(だれひと)か独宿して  門に倚(よ)りて啼(な)く
  夜泣寒燈連暁月   夜泣きて寒燈(かんとう)  暁月(ぎょうげつ)に連なり
  行行涙尽楚関西   行行(こうこう)涙は尽く  楚関(そかん)の西

  ⊂訳⊃
          翡翠の楼閣 黄金の梯子で住もうとも

          門に佇み   ひとり身を嘆いて泣くのは誰であろう

          夜は寒々とした火影で泣き  明け方までつづく

          涙はたえまなく流れ  楚関の西で泣き尽くすのか


 ⊂ものがたり⊃ 南陵の別れの一連の詩では、「会稽の愚婦」や「機を下られざる」蘇秦というように、朱買臣の妻や蘇秦の妻の故事を持ち出して、出世前の蘇秦や朱買臣が妻から大切にされなかったことを例に引いています。このことから、李白は南陵の鄭氏から重んぜられていなかったとする説があります。もっとも子供を預けて自分は東魯で気ままな旅をしているようでは、自分の子供でもない二人を預けられている鄭氏が不機嫌になるのも当然でしょう。
 其の三の詩は意味不明なところがあります。たとえ立派な御殿に住んでいるような者であっても、別れて暮らすのはつらく悲しいことであろう。私が居なくては、恋しくて泣き暮らすことになると思うが、しばらく我慢をしてくれ、と鄭氏を慰めている詩のように思われます。

 李白ー60
    烏棲曲            烏棲曲(うせいきょく)

  姑蘇台上烏棲時   姑蘇(こそ)の台上  烏(からす)棲む時
  呉王宮裏酔西施   呉王の宮裏(きゅうり)  西施(せいし)を酔わしむ
  呉歌楚舞歓未畢   呉歌(ごか)  楚舞(そぶ)  歓び未だ畢(おわ)らず
  青山猶銜半辺日   青山(せいざん) 猶お銜(ふく)む 半辺(はんぺん)の日
  銀箭金壺漏水多   銀箭(ぎんせん) 金壺(きんこ)  漏水(ろうすい)多し
  起看秋月墜江波   起(た)って看る  秋月(しゅうげつ)の江波に墜つるを
  東方漸高奈楽何   東方漸く高(しろ)し  楽しみを奈何(いかん)せん

  ⊂訳⊃
          姑蘇山の台上で    烏が寝ようとする時
          呉王夫差の宮殿では 西施が酒に酔いしれる
          呉歌よ楚舞よと     楽しみは尽きることなく
          山の端には半輪の陽 沈もうとしていまだ沈まぬ
          金の壺に銀の針    漏刻の水は滴りつづけ
          身を起こせば秋の月  江(かわ)の波間に沈みゆく
          東天やがてほの白くなろうとも  歓楽の時は果てしない


 ⊂ものがたり⊃ 李白が都についたのは秋のなかば過ぎ、遅くとも晩秋九月はじめのころと思われます。長安についた李白は老子を祀る玄元廟(げんげんびょう)に宿を取りました。するとそれを待っていたように詩人で秘書監(従三品)の賀知章(がちしょう)が訪ねてきました。賀知章はこのとき八十四歳の高齢でした。
 賀知章は李白が差し出した詩を読んで「此の詩、以て鬼神を哭せしむべし」と称賛し、李白を「謫仙人」(たくせんにん)と言って褒めました。「謫仙人」とは天上から地上に流されてきた仙人という意味であって、道教の立場からは大変な褒め言葉です。
 このとき賀知章に見せた詩を、孟棨(もうけい)の『本事詩』では「蜀道難」であったと言っていますが、そうではなく李白が三年前に呉に行ったときに作った「烏棲曲」ではなかったかとする説もあります。「烏棲曲」は楽府題であり、李白の制作意図としては単に春秋呉越戦争の時代の懐古詩を作ったのに過ぎないと思われます。しかし、賀知章にとっては、皇帝が息子寿王の妃楊玉環(ようぎょくかん)を召し上げて女道士とし、宮中に入れて太真(たいしん)と名を変えさせ溺愛しはじめた玄宗の生活を諷したものに思え、感激したのでしょう。

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