李白61
侍従遊宿温泉宮作 侍従して遊び温泉宮に宿して作る
羽林十二将 羽林(うりん)の十二将
羅列応星文 羅列(られつ)して星文(せいもん)に応ず
霜仗懸秋月 霜仗(そうじょう) 秋月(しゅうげつ)を懸(か)け
霓旌巻夜雲 霓旌(げいせい) 夜雲(やうん)を巻く
厳更千戸蕭 厳更(げんこう) 千戸蕭(つつし)み
清楽九天聞 清楽(せいがく) 九天(きゅうてん)に聞こゆ
日出瞻佳気 日出でて佳気(かき)を瞻(み)る
叢叢繞聖君 叢叢(そうそう)として聖君を繞(めぐ)る
⊂訳⊃
護衛の将軍は十二将
星宿(せいしゅく)の方位に応じて配置につく
秋月の光に冴えて 儀仗の刃は霜のように白く
天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
刻を告げる太鼓の音に 千戸の家は静まりかえり
清らかな楽のしらべが 九重の奥から聞こえてくる
やがて朝日が昇ると 聖天子の香気は
御座所をめぐって 神々しく流れはじめる
⊂ものがたり⊃ 詩人で大官の賀知章が李白を「謫仙人」と褒めちぎったので、都での李白の詩名は急速に高まります。詩名は玄宗皇帝の耳に達し、李白は特別のお召しを受けて翰林学士に登用されます。
しかし、これには裏があったかもしれません。皇帝の妹玉真公主は女道士になっていて、玉真観という道観に住み、持盈(じえい)法師と称していました。道教の筋から李白のことが公主の耳に達し、公主の意向を受けて賀知章が李白に会いにきたとも推定されます。
それから李白は「翰林供奉」になったのであって、正規の採用ではないという説も行われていますが、翰林院に召し出された人材は、翰林院発足の当初は翰林待詔もしくは翰林供奉と称されていました。李白が翰林院入りした天宝元年(742)には翰林学士と呼ぶように改められていましたので、李白は翰林学士に採用されたのです。しかし、李白は学士と称するのを嫌い、旧い供奉という言い方を好んだのだと思います。翰林学士は令外(りょうげ)の官で、天子の特命に応じていろいろなことができる自由な官職でした。
玄宗はこの年、十月二十六日から十一月二十八日まで寵妃の楊太真をともなって驪山の温泉宮に行幸します。李白は行幸に従駕して、さっそく詩を献じています。詩はまことにまともな詩であって、李白らしい面白さがありません。李白はまじめに朝臣としての役割を果たそうとしていたのです。
李白ー62
駕去温泉宮後贈楊山人 駕が温泉宮を去るの後 楊山人に贈る
少年落托楚漢間 少年 落托(らくたく)す 楚漢(そかん)の間(かん)
風塵蕭瑟多苦顔 風塵 蕭瑟(しょうしつ)として苦顔(くがん)多し
自言介蠆竟誰許 自ら言う 介蠆(かいまん)竟(つい)に誰か許さんと
長吁莫錯還閉関 長吁(ちょうく) 莫錯(ばくさく)として還りて関を閉ず
一朝君王垂払拭 一朝 君王 払拭(ふっしょく)を垂(た)れ
剖心輸丹雪胸臆 心を剖(さ)き丹を輸(いた)して 胸臆を雪(すす)ぐ
忽蒙白日廻景光 忽ち白日の景光(けいこう)を廻らすを蒙(こうむ)り
直上青雲生羽翼 直(ただ)ちに青雲に上って羽翼(うよく)を生ず
幸陪鸞輦出鴻都 幸に鸞輦(らんれん)に陪(ばい)して鴻都(こうと)を出で
身騎飛龍天馬駒 身は騎(の)る 飛龍(ひりゅう)天馬(てんま)の駒(く)
王公大人借顔色 王公大人(たいじん) 顔色(がんしょく)を借(しゃく)し
金章紫綬来相趨 金章(きんしょう)紫綬(しじゅ) 来りて相趨(はし)る
当時結交何紛紛 当時 交りを結ぶ 何ぞ紛紛(ふんぷん)
片言道合唯有君 片言(へんげん) 道(みち)合するは唯だ君有り
待吾尽節報明主 吾が節を尽くして明主(めいしゅ)に報ずるを待って
然後相攜臥白雲 然(しか)る後 相攜(たずさ)えて白雲に臥(が)せん
⊂訳⊃
若いころは 楚地漢水のあたりに落ちぶれて
うら寂しい貧乏暮らし いつも苦しげな顔をしていた
頑固がこの世に通用しないと 自分でも思い
力なく家に帰って 門を閉じて溜め息をつく
ところが君王が 一朝にしてすべてを吹き払い
赤心を披瀝して 残らず胸の内を申し上げる
するとたちまち ひかり輝く太陽の恵みを受け
翼を生やして 青雲をかけ昇る
このたびは 天子の輦(くるま)のお供をして鴻都門をいで
身は飛龍天馬の二歳馬にまたがる
王公貴顕も こころよく会ってくれ
高位高官も 小走りで面会にやってくる
このとき交わりを結んだ人は数知れないが
ただ一言で 調子の合ったのは君だけだ
私が忠節をつくし 君恩に報いたならば
君といっしょに 白雲の間に遊ぼうと思う
⊂ものがたり⊃ 詩を贈られている「楊山人」という人の経歴は不詳です。前後の関係から驪山の付近に住んでいた在野の詩人とみられます。詩の前半は自分の来歴を述べ、「楚漢の間」に「落托」(托落の倒置で、失意不遇のさま)して貧乏暮らしをしていたが、天子にみいだされて、たちまち行幸に扈従する身分になったと、こころから嬉しがっている様子が目に見えるようです。
後半では、これまで目もくれなかった王公貴顕もこころよく会ってくれ、高位高官も趨行(すうこう)して会いにくると得意そうです。しかし、調子が合うのは君だけで、結びの二句「吾が節を尽くして明主に報ずるを待って 然る後 相攜えて白雲に臥せん」は、例によって李白常用の隠遁姿勢の表明であり、栄耀栄華が目的で天子に仕えているのではないと志のあるところを述べています。
李白ー64
宮中行楽詩八首 其一 宮中行楽詩 八首 其の一
小小生金屋 小小(しょうしょう)にして金屋(きんおく)に生まれ
盈盈在紫微 盈盈(えいえい)として紫微(しび)に在り
山花挿宝髻 山花(さんか) 宝髻(ほうけい)に挿(さしはさ)み
石竹繍羅衣 石竹(せきちく) 羅衣(らい)に繍(しゅう)す
毎出深宮裏 毎(つね)に深宮(しんきゅう)の裏(うち)より出で
常随歩輦帰 常に歩輦(ほれん)に随って帰る
只愁歌舞散 只だ愁う 歌舞(かぶ)の散じては
化作綵雲飛 化して綵雲(さいうん)と作(な)って飛ぶことを
⊂訳⊃
幼いころから 黄金づくりの家に育ち
年頃になって 紫微の宮殿にはいる
美しい髷には 山の花一輪
羅の衣装には 石竹の模様の刺繍
いつも宮殿の 奥深いところから出て
帰るときには かならず天子の輦に随う
悩みといえば 華やかな歌舞がつきて
綵雲となって 遥かな空に飛び去ること
⊂ものがたり⊃ 李白の宮仕えは、至極順調にはじまります。翌天宝二年(743)の春になると、曲江の宜春苑や城内の別宮興慶宮での宴遊など、玄宗のさまざまな遊楽に扈従して宮廷詩人としての才能を発揮します。なお、「宮廷詩人」という言葉を使いましたが、そういう職種があったわけではなく、宮廷の吏員が詩を書けるのは普通の教養ですので、そのなかで特に才能のある者に天子の下命があり、即興の詩を献じて遊宴に彩りをそえたのです。
「宮中行楽詩」の連作もそのひとつで、はじめは十首あったようです。其の一の主人公はもちろん楊太真で、彼女の悩みといえば、夢のようないまの生活が終わることだけだと詠っています。結句の「化して綵雲(さいうん)と作って飛ぶことを」は戦国楚の懐王にまつわる説話で、懐王は昼寝の夢のなかで巫山の神女と契りますが、神女は別れに際して「旦(あした)には朝雲となり、暮(ひぐれ)には行雨となる。朝朝暮暮、陽台の下(もと)」と思いを述べて去りました。懐王が翌朝、巫山の南に行ってみると、神女の言った通りの幽遠な場所でしたので、そこに廟を建てて祀ったということです。
李白ー65
宮中行楽詩八首 其二 宮中行楽詩 八首 其の二
柳色黄金嫩 柳色(りゅうしょく) 黄金にして嫩(やわら)か
梨花白雪香 梨花(りか) 白雪(はくせつ)にして香(かんば)し
玉楼巣翡翠 玉楼(ぎょくろう)には翡翠(ひすい)巣くい
珠殿鎖鴛鴦 珠殿(しゅでん)には鴛鴦(えんおう)を鎖(とざ)す
選妓随雕輦 妓(ぎ)を選んで雕輦(ちょうれん)に随わしめ
徴歌出洞房 歌を徴(め)して洞房(どうぼう)を出(い)でしむ
宮中誰第一 宮中(きゅうちゅう) 誰か第一なる
飛燕在昭陽 飛燕(ひえん) 昭陽(しょうよう)に在り
⊂訳⊃
柳の葉は 黄金のように輝いて柔らか
梨の花は 雪のように白くて香りがある
高楼には 翡翠(かわせみ)が巣をかけ
玉殿には 鴛鴦(おしどり)が飼ってある
舞姫を選んで 天子の輦にしたがわせ
歌手を召して 奥御殿に出入りさせる
宮中第一の美女は誰であるか
昭陽殿中 趙飛燕あり
⊂ものがたり⊃ 其の二の詩も楊太真の華やかな生活を詠っており、首聯の二句「柳色 黄金にして嫩か 梨花 白雪にして香し」は斬新な表現として、李白の名句のひとつに数えられています。結びの「飛燕 昭陽に在り」の飛燕は、漢の成帝の皇后趙飛燕(ちょうひえん)のことで、趙飛燕は漢の昭陽殿に住んでいました。唐の宮中にも昭陽殿があり、そこが楊太真の住まいでしたので、楊太真を宮中第一の人と褒めあげているのです。宮中第一の人は皇后であるべきですが、玄宗は皇后を亡くしたあと皇后を立てていませんでした。あとの六首は省略しますが、楊太真を中心とした宮女たちの生活が詠われているのは当然です。
侍従遊宿温泉宮作 侍従して遊び温泉宮に宿して作る
羽林十二将 羽林(うりん)の十二将
羅列応星文 羅列(られつ)して星文(せいもん)に応ず
霜仗懸秋月 霜仗(そうじょう) 秋月(しゅうげつ)を懸(か)け
霓旌巻夜雲 霓旌(げいせい) 夜雲(やうん)を巻く
厳更千戸蕭 厳更(げんこう) 千戸蕭(つつし)み
清楽九天聞 清楽(せいがく) 九天(きゅうてん)に聞こゆ
日出瞻佳気 日出でて佳気(かき)を瞻(み)る
叢叢繞聖君 叢叢(そうそう)として聖君を繞(めぐ)る
⊂訳⊃
護衛の将軍は十二将
星宿(せいしゅく)の方位に応じて配置につく
秋月の光に冴えて 儀仗の刃は霜のように白く
天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
刻を告げる太鼓の音に 千戸の家は静まりかえり
清らかな楽のしらべが 九重の奥から聞こえてくる
やがて朝日が昇ると 聖天子の香気は
御座所をめぐって 神々しく流れはじめる
⊂ものがたり⊃ 詩人で大官の賀知章が李白を「謫仙人」と褒めちぎったので、都での李白の詩名は急速に高まります。詩名は玄宗皇帝の耳に達し、李白は特別のお召しを受けて翰林学士に登用されます。
しかし、これには裏があったかもしれません。皇帝の妹玉真公主は女道士になっていて、玉真観という道観に住み、持盈(じえい)法師と称していました。道教の筋から李白のことが公主の耳に達し、公主の意向を受けて賀知章が李白に会いにきたとも推定されます。
それから李白は「翰林供奉」になったのであって、正規の採用ではないという説も行われていますが、翰林院に召し出された人材は、翰林院発足の当初は翰林待詔もしくは翰林供奉と称されていました。李白が翰林院入りした天宝元年(742)には翰林学士と呼ぶように改められていましたので、李白は翰林学士に採用されたのです。しかし、李白は学士と称するのを嫌い、旧い供奉という言い方を好んだのだと思います。翰林学士は令外(りょうげ)の官で、天子の特命に応じていろいろなことができる自由な官職でした。
玄宗はこの年、十月二十六日から十一月二十八日まで寵妃の楊太真をともなって驪山の温泉宮に行幸します。李白は行幸に従駕して、さっそく詩を献じています。詩はまことにまともな詩であって、李白らしい面白さがありません。李白はまじめに朝臣としての役割を果たそうとしていたのです。
李白ー62
駕去温泉宮後贈楊山人 駕が温泉宮を去るの後 楊山人に贈る
少年落托楚漢間 少年 落托(らくたく)す 楚漢(そかん)の間(かん)
風塵蕭瑟多苦顔 風塵 蕭瑟(しょうしつ)として苦顔(くがん)多し
自言介蠆竟誰許 自ら言う 介蠆(かいまん)竟(つい)に誰か許さんと
長吁莫錯還閉関 長吁(ちょうく) 莫錯(ばくさく)として還りて関を閉ず
一朝君王垂払拭 一朝 君王 払拭(ふっしょく)を垂(た)れ
剖心輸丹雪胸臆 心を剖(さ)き丹を輸(いた)して 胸臆を雪(すす)ぐ
忽蒙白日廻景光 忽ち白日の景光(けいこう)を廻らすを蒙(こうむ)り
直上青雲生羽翼 直(ただ)ちに青雲に上って羽翼(うよく)を生ず
幸陪鸞輦出鴻都 幸に鸞輦(らんれん)に陪(ばい)して鴻都(こうと)を出で
身騎飛龍天馬駒 身は騎(の)る 飛龍(ひりゅう)天馬(てんま)の駒(く)
王公大人借顔色 王公大人(たいじん) 顔色(がんしょく)を借(しゃく)し
金章紫綬来相趨 金章(きんしょう)紫綬(しじゅ) 来りて相趨(はし)る
当時結交何紛紛 当時 交りを結ぶ 何ぞ紛紛(ふんぷん)
片言道合唯有君 片言(へんげん) 道(みち)合するは唯だ君有り
待吾尽節報明主 吾が節を尽くして明主(めいしゅ)に報ずるを待って
然後相攜臥白雲 然(しか)る後 相攜(たずさ)えて白雲に臥(が)せん
⊂訳⊃
若いころは 楚地漢水のあたりに落ちぶれて
うら寂しい貧乏暮らし いつも苦しげな顔をしていた
頑固がこの世に通用しないと 自分でも思い
力なく家に帰って 門を閉じて溜め息をつく
ところが君王が 一朝にしてすべてを吹き払い
赤心を披瀝して 残らず胸の内を申し上げる
するとたちまち ひかり輝く太陽の恵みを受け
翼を生やして 青雲をかけ昇る
このたびは 天子の輦(くるま)のお供をして鴻都門をいで
身は飛龍天馬の二歳馬にまたがる
王公貴顕も こころよく会ってくれ
高位高官も 小走りで面会にやってくる
このとき交わりを結んだ人は数知れないが
ただ一言で 調子の合ったのは君だけだ
私が忠節をつくし 君恩に報いたならば
君といっしょに 白雲の間に遊ぼうと思う
⊂ものがたり⊃ 詩を贈られている「楊山人」という人の経歴は不詳です。前後の関係から驪山の付近に住んでいた在野の詩人とみられます。詩の前半は自分の来歴を述べ、「楚漢の間」に「落托」(托落の倒置で、失意不遇のさま)して貧乏暮らしをしていたが、天子にみいだされて、たちまち行幸に扈従する身分になったと、こころから嬉しがっている様子が目に見えるようです。
後半では、これまで目もくれなかった王公貴顕もこころよく会ってくれ、高位高官も趨行(すうこう)して会いにくると得意そうです。しかし、調子が合うのは君だけで、結びの二句「吾が節を尽くして明主に報ずるを待って 然る後 相攜えて白雲に臥せん」は、例によって李白常用の隠遁姿勢の表明であり、栄耀栄華が目的で天子に仕えているのではないと志のあるところを述べています。
李白ー64
宮中行楽詩八首 其一 宮中行楽詩 八首 其の一
小小生金屋 小小(しょうしょう)にして金屋(きんおく)に生まれ
盈盈在紫微 盈盈(えいえい)として紫微(しび)に在り
山花挿宝髻 山花(さんか) 宝髻(ほうけい)に挿(さしはさ)み
石竹繍羅衣 石竹(せきちく) 羅衣(らい)に繍(しゅう)す
毎出深宮裏 毎(つね)に深宮(しんきゅう)の裏(うち)より出で
常随歩輦帰 常に歩輦(ほれん)に随って帰る
只愁歌舞散 只だ愁う 歌舞(かぶ)の散じては
化作綵雲飛 化して綵雲(さいうん)と作(な)って飛ぶことを
⊂訳⊃
幼いころから 黄金づくりの家に育ち
年頃になって 紫微の宮殿にはいる
美しい髷には 山の花一輪
羅の衣装には 石竹の模様の刺繍
いつも宮殿の 奥深いところから出て
帰るときには かならず天子の輦に随う
悩みといえば 華やかな歌舞がつきて
綵雲となって 遥かな空に飛び去ること
⊂ものがたり⊃ 李白の宮仕えは、至極順調にはじまります。翌天宝二年(743)の春になると、曲江の宜春苑や城内の別宮興慶宮での宴遊など、玄宗のさまざまな遊楽に扈従して宮廷詩人としての才能を発揮します。なお、「宮廷詩人」という言葉を使いましたが、そういう職種があったわけではなく、宮廷の吏員が詩を書けるのは普通の教養ですので、そのなかで特に才能のある者に天子の下命があり、即興の詩を献じて遊宴に彩りをそえたのです。
「宮中行楽詩」の連作もそのひとつで、はじめは十首あったようです。其の一の主人公はもちろん楊太真で、彼女の悩みといえば、夢のようないまの生活が終わることだけだと詠っています。結句の「化して綵雲(さいうん)と作って飛ぶことを」は戦国楚の懐王にまつわる説話で、懐王は昼寝の夢のなかで巫山の神女と契りますが、神女は別れに際して「旦(あした)には朝雲となり、暮(ひぐれ)には行雨となる。朝朝暮暮、陽台の下(もと)」と思いを述べて去りました。懐王が翌朝、巫山の南に行ってみると、神女の言った通りの幽遠な場所でしたので、そこに廟を建てて祀ったということです。
李白ー65
宮中行楽詩八首 其二 宮中行楽詩 八首 其の二
柳色黄金嫩 柳色(りゅうしょく) 黄金にして嫩(やわら)か
梨花白雪香 梨花(りか) 白雪(はくせつ)にして香(かんば)し
玉楼巣翡翠 玉楼(ぎょくろう)には翡翠(ひすい)巣くい
珠殿鎖鴛鴦 珠殿(しゅでん)には鴛鴦(えんおう)を鎖(とざ)す
選妓随雕輦 妓(ぎ)を選んで雕輦(ちょうれん)に随わしめ
徴歌出洞房 歌を徴(め)して洞房(どうぼう)を出(い)でしむ
宮中誰第一 宮中(きゅうちゅう) 誰か第一なる
飛燕在昭陽 飛燕(ひえん) 昭陽(しょうよう)に在り
⊂訳⊃
柳の葉は 黄金のように輝いて柔らか
梨の花は 雪のように白くて香りがある
高楼には 翡翠(かわせみ)が巣をかけ
玉殿には 鴛鴦(おしどり)が飼ってある
舞姫を選んで 天子の輦にしたがわせ
歌手を召して 奥御殿に出入りさせる
宮中第一の美女は誰であるか
昭陽殿中 趙飛燕あり
⊂ものがたり⊃ 其の二の詩も楊太真の華やかな生活を詠っており、首聯の二句「柳色 黄金にして嫩か 梨花 白雪にして香し」は斬新な表現として、李白の名句のひとつに数えられています。結びの「飛燕 昭陽に在り」の飛燕は、漢の成帝の皇后趙飛燕(ちょうひえん)のことで、趙飛燕は漢の昭陽殿に住んでいました。唐の宮中にも昭陽殿があり、そこが楊太真の住まいでしたので、楊太真を宮中第一の人と褒めあげているのです。宮中第一の人は皇后であるべきですが、玄宗は皇后を亡くしたあと皇后を立てていませんでした。あとの六首は省略しますが、楊太真を中心とした宮女たちの生活が詠われているのは当然です。
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