李白ー9
秋下荊門 秋 荊門を下る
霜落荊門江樹空 霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆無恙挂秋風 布帆(ふはん) 恙(つつが)無く 秋風に挂(か)く
此行不為鱸魚鱠 此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自愛名山入剡中 自ら名山を愛して剡中(せんちゅう)に入る
⊂訳⊃
霜は荊門に降り 岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し 剡渓の奥へ分け入るのだ
⊂ものがたり⊃ 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができました。あたりははや晩秋のけはいです。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にあります。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といったおもむきでした。蜀の側からすれば東方、湖北・湖南地方への出口ということになります。
李白はここで、ひとつの決意を口にしています。今度の旅は「鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)」を食べに行くような物見遊山の旅ではない。名高い寺を訪ねて勉強をしながら、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んでいます。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名でした。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいというのが李白の目的です。
李白ー10
渡荊門送別 荊門を渡って送別す
渡遠荊門外 渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来従楚国遊 来りて従う 楚国(そこく)の遊(ゆう)
山随平野尽 山は平野に随いて尽き
江入大荒流 江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月下飛天鏡 月は下りて 天鏡(てんきょう)飛び
雲生結海楼 雲は生じて 海楼(かいろう)を結ぶ
仍憐故郷水 仍お憐れむ 故郷の水
万里送行舟 万里 行舟(こうしゅう)を送るを
⊂訳⊃
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ 山は消え去り
広大な天地の間へと 江は流れてゆく
月が傾けば 天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと 蜃気楼が出現したようだ
だがしかし しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が 万里のかなたへ送るのだ
⊂ものがたり⊃ 湖北地方に出た李白たちが、はじめて足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)でした。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分されている大城でした。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であったのです。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流しながら翌年の春までを過ごします。
李白は江陵で当時の道教教団の最高指導者であった司馬承禎(しばしょうてい)と会っています。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼されていました。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのです。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うたと思いますが、司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めたということ以外に、詳しいことは分かっていません。
開元十三年(725)の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩です。題の「送別」は誤記と解されています。李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせていますが、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませています。
李白ー11
望天門山 天門山を望む
天門中断楚江開 天門(てんもん) 中断して楚江(そこう)開き
碧水東流至北回 碧水(へきすい) 東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸青山相対出 両岸の青山(せいざん) 相対して出で
孤帆一片日返来 孤帆(こはん) 一片 日返(にっぺん)より来(きた)る
⊂訳⊃
天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ 北へ向かって曲がる
両岸の山が 相対してそば立つなか
帆舟がぽつり かなたの天から進んできた
⊂ものがたり⊃ 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着きます。岳州の州治は岳陽にあって、南に洞庭湖が広がっています。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがありましたので、海のようなものです。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩きますが、くわしいことはわかりません。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行ったと思われます。
ところが夏の終わりに、呉指南が湖上で急死してしまいました。李白は旅の友をうしない号泣して悲しみますが、友の遺体を湖畔に仮埋葬して旅をつづけます。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着きます。鄂州の江夏県城は大きな街ですので、ここでしばらく体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かったはずです。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がありますが、山には登らなかったと思います。
長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆくのですが、その門戸に当たるところに掲げた詩の「天門山」があります。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆきます。この詩は後年の作とする説もありますが、私ははじめて天門を通過したときの李白の印象を大切にしたいと思って、ここに掲げました。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であったのでしょう。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆくのです。
この詩を作ったときの作者の位置・視点については、いろいろな解釈がありますが、帆舟が一艘、天の彼方から進んでくるように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っていると想像して訳しています。
李白ー12
金陵酒肆留別 金陵の酒肆にて留別す
風吹柳花満店香 風は柳花(りゅうか)を吹きて 満店香(かん)ばし
呉姫圧酒喚客嘗 呉姫(ごき)は酒を圧して 客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵子弟来相送 金陵の子弟(してい) 来りて相い送り
欲行不行各尽觴 行かんと欲して行かず 各々觴(さかずき)を尽くす
請君試問東流水 請う君 試みに問え 東流(とうりゅう)の水に
別意与之誰長短 別意(べつい)と之(これ)と 誰か長短なるやと
⊂訳⊃
風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし 酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは 集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく 心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君 東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は どちらが深く長いかと
⊂ものがたり⊃ 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着きます。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡です。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いています。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあって、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があり、酒旗高楼が林立していました。
李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流します。半年近く滞在したあと、開元十四年(726)の暮春のころに舟を出して、さらに東へ進みます。詩は金陵を発つときの留別の詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれました。
秋下荊門 秋 荊門を下る
霜落荊門江樹空 霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆無恙挂秋風 布帆(ふはん) 恙(つつが)無く 秋風に挂(か)く
此行不為鱸魚鱠 此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自愛名山入剡中 自ら名山を愛して剡中(せんちゅう)に入る
⊂訳⊃
霜は荊門に降り 岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し 剡渓の奥へ分け入るのだ
⊂ものがたり⊃ 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができました。あたりははや晩秋のけはいです。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にあります。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といったおもむきでした。蜀の側からすれば東方、湖北・湖南地方への出口ということになります。
李白はここで、ひとつの決意を口にしています。今度の旅は「鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)」を食べに行くような物見遊山の旅ではない。名高い寺を訪ねて勉強をしながら、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んでいます。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名でした。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいというのが李白の目的です。
李白ー10
渡荊門送別 荊門を渡って送別す
渡遠荊門外 渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来従楚国遊 来りて従う 楚国(そこく)の遊(ゆう)
山随平野尽 山は平野に随いて尽き
江入大荒流 江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月下飛天鏡 月は下りて 天鏡(てんきょう)飛び
雲生結海楼 雲は生じて 海楼(かいろう)を結ぶ
仍憐故郷水 仍お憐れむ 故郷の水
万里送行舟 万里 行舟(こうしゅう)を送るを
⊂訳⊃
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ 山は消え去り
広大な天地の間へと 江は流れてゆく
月が傾けば 天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと 蜃気楼が出現したようだ
だがしかし しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が 万里のかなたへ送るのだ
⊂ものがたり⊃ 湖北地方に出た李白たちが、はじめて足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)でした。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分されている大城でした。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であったのです。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流しながら翌年の春までを過ごします。
李白は江陵で当時の道教教団の最高指導者であった司馬承禎(しばしょうてい)と会っています。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼されていました。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのです。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うたと思いますが、司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めたということ以外に、詳しいことは分かっていません。
開元十三年(725)の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩です。題の「送別」は誤記と解されています。李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせていますが、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませています。
李白ー11
望天門山 天門山を望む
天門中断楚江開 天門(てんもん) 中断して楚江(そこう)開き
碧水東流至北回 碧水(へきすい) 東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸青山相対出 両岸の青山(せいざん) 相対して出で
孤帆一片日返来 孤帆(こはん) 一片 日返(にっぺん)より来(きた)る
⊂訳⊃
天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ 北へ向かって曲がる
両岸の山が 相対してそば立つなか
帆舟がぽつり かなたの天から進んできた
⊂ものがたり⊃ 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着きます。岳州の州治は岳陽にあって、南に洞庭湖が広がっています。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがありましたので、海のようなものです。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩きますが、くわしいことはわかりません。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行ったと思われます。
ところが夏の終わりに、呉指南が湖上で急死してしまいました。李白は旅の友をうしない号泣して悲しみますが、友の遺体を湖畔に仮埋葬して旅をつづけます。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着きます。鄂州の江夏県城は大きな街ですので、ここでしばらく体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かったはずです。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がありますが、山には登らなかったと思います。
長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆくのですが、その門戸に当たるところに掲げた詩の「天門山」があります。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆきます。この詩は後年の作とする説もありますが、私ははじめて天門を通過したときの李白の印象を大切にしたいと思って、ここに掲げました。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であったのでしょう。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆくのです。
この詩を作ったときの作者の位置・視点については、いろいろな解釈がありますが、帆舟が一艘、天の彼方から進んでくるように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っていると想像して訳しています。
李白ー12
金陵酒肆留別 金陵の酒肆にて留別す
風吹柳花満店香 風は柳花(りゅうか)を吹きて 満店香(かん)ばし
呉姫圧酒喚客嘗 呉姫(ごき)は酒を圧して 客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵子弟来相送 金陵の子弟(してい) 来りて相い送り
欲行不行各尽觴 行かんと欲して行かず 各々觴(さかずき)を尽くす
請君試問東流水 請う君 試みに問え 東流(とうりゅう)の水に
別意与之誰長短 別意(べつい)と之(これ)と 誰か長短なるやと
⊂訳⊃
風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし 酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは 集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく 心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君 東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は どちらが深く長いかと
⊂ものがたり⊃ 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着きます。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡です。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いています。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあって、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があり、酒旗高楼が林立していました。
李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流します。半年近く滞在したあと、開元十四年(726)の暮春のころに舟を出して、さらに東へ進みます。詩は金陵を発つときの留別の詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれました。
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