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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫257ー260

2010年07月15日 | Weblog
 杜甫ー257
    朱鳳行              朱鳳行

  君不見         君見ずや
  瀟湘之山衡山高   瀟湘(しょうしょう)の山  衡山(こうざん)高し
  山巓朱鳳声嗷嗷   山巓(さんてん)の朱鳳(しゅほう)  声嗷嗷(ごうごう)
  側身長顧求其曹   身を側(そばだ)て 長顧(ちょうこ)して其の曹(そう)を求むるも
  翅垂口噤心労労   翅(つばさ)は垂れ 口(くち)噤(つぐ)んで心(こころ)労労たり
  下愍百鳥在羅網   下(しも)は愍(あわれ)む  百鳥の羅網(らもう)に在り
  黄雀最小猶難逃   黄雀(こうじゃく)   最も小なるも猶(な)お逃れ難きを
  願分竹実及螻蟻   願わくは  竹実(ちくじつ)を分かちて螻蟻(ろうぎ)に及ぼし
  尽使鴟梟相怒号   尽(ことごと)く鴟梟(しきょう)をして相い怒号せしめんことを

  ⊂訳⊃
          君よ見たまえ
          瀟湘の山のなかでは  衡山が特別に高い
          山頂の朱色の鳳凰は  声高々と鳴いていた
          身構えてあたりを見回し  仲間をさがすが
          いまや翼を垂れ  口を閉ざして疲れきっている
          下界では  あらゆる鳥が網にかかり
          雀のような小鳥でさえも   逃げられないのを哀れに思う
          できれば食糧の竹の実を  小さな虫たちにくれてやり
          梟のような悪鳥に  ひと泡吹かせてやりたかったのだが


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫の当面の目的地は、潭州から湘水をさらに150kmほど南へ遡った衡州(湖南省衡陽市)でした。知己の韋之晋(いししん)が衡州刺史をしていたので、それに頼るつもりであったようです。その途中の湘水西岸に高さ1290mの南岳衡山があり、南北400kmにわたる連山となって横たわっていました。
 詩題の「朱鳳」は衡山に棲むという朱色の鳳凰のことで、南は赤、神獣は朱雀(すじゃく)であることにちなんだ伝説の鳥です。杜甫は三句目以下で、自分を「朱鳳」に例えています。
 朱鳳は南岳の山巓にあって身をそばだてて仲間をさがしますが、探し出すことができません。だからいまは翼を垂れ、疲れ切って口を閉ざしていると言います。こんな状態になったのは、下界のようすがあまりにもひどいからで、あらゆる鳥が「羅網」、つまり乱世の逆境に捕らえられているからだと嘆きます。
 最後の二句は、杜甫が自分の志と、それを成し遂げられなかった後悔の気持ちを詠うもので、「竹実」は鳳凰の食べ物とされています。

 杜甫ー258
   江閣臥病走筆寄呈      江閣病に臥し 筆を走らせて
   崔・盧両侍御          崔・盧の両侍御に寄呈す

  客子庖厨薄     客子(かくし)    庖厨(ほうちゅう)薄く
  江楼枕席清     江楼(こうろう)  枕席(ちんせき)清し
  衰年病秪痩     衰年(すいねん) 病みて秪(た)だ痩(や)せ
  長夏想為情     長夏(ちょうか)  情を為(な)さむことを想う
  滑憶雕胡飯     滑(かつ)は憶う 雕胡(ちょうこ)の飯(はん)
  香聞錦帯羮     香(こう)は聞く  錦帯(きんたい)の羮(こう)
  溜匙兼煖腹     溜匙(りゅうし)と煖腹(だんぷく)と
  誰欲致盃甖     誰か盃甖(はいおう)を致(いた)さむと欲する

  ⊂訳⊃
          旅の台所は  乏しくなるばかり
          江辺の楼で寝ているが  枕もとには何もない
          年をとって病にかかり   身は痩せ細るばかり
          夏の日々  情けのある人はいないかと想う
          雕胡(まこも)の飯があったら  食べやすいだろう
          蓴菜(じゅんさい)の羮(あつもの)があったら  香ばしいだろう
          匙の上を  つるりと滑って腹を暖めるもの
          誰か酒と盃を  持ってくる者はいないのか


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫は人生の目標であった「奉儒守官」の志が達成されなかったことを嘆きながら衡州に着きますが、刺史の韋之晋は杜甫が着くのと入れ違いに潭州刺史になって転出していました。杜甫は無駄足になったことに落胆し、しばらく衡州にとどまってから潭州にもどりました。
 ところが杜甫が潭州に着いたときは、韋之晋は四月に急死したあとでした。不運としか言いようがありません。頼る者をなくした杜甫は、それから翌年の大暦五年(770)四月まで、舟中や江辺の楼を宿所としながら、市場で薬草を売ったり、州府の知己の好意にすがったりしながら糊口をしのいでいたようです。
 この一年にわたる潭州滞在は北へもどるのに充分な時間の余裕であると思われますが、杜甫はなぜかあてもなく潭州にとどまっています。病気のせいもあったかもしれませんが、帰るに帰れない経済的な窮状におちいっていたと見るべきでしょう。.
 詩は夏の終わりか秋のはじめに、崔渙(さいかん)と盧十四(ろじゅうし:十四は排行)に食べ物と酒をねだったものです。崔氏と盧氏は旧知の元侍御で、このとき潭州に左遷されたかして来ていたものと思われます。この詩は杜甫一家が食事にも事欠くような窮状におちいっていたことを示しています。

 杜甫ー259
   小寒食船中作         小寒食 船中の作

  佳辰強飲食猶寒   佳辰(かしん)  強(し)いて飲めば食(しょく)猶(な)お寒く
  隠几蕭条載鶡冠   几(き)に隠(よ)り蕭条として鶡冠(かつかん)を載(いただ)く
  春水船如天上坐   春水(しゅんすい) 船は天上に坐するが如く
  老年花似霧中看   老年(ろうねん)   花は霧中(むちゅう)に看(み)るに似たり
  娟娟戲蝶過間幔   娟娟(けんけん)たる戲蝶(ぎちょう)は間幔(かんまく)を過ぎ
  片片軽鷗下急湍   片片(へんぺん)たる軽鷗(けいおう)は急湍(きゅうたん)を下る
  白雲山青万余里   雲白く山青きこと万余里
  愁看直北是長安   愁えて直北(ちょくほく)を看る  是(こ)れ長安

  ⊂訳⊃
          めでたい日だ  無理に酒を飲んだが冷たい料理
          脇息にもたれ  うら寂しく鶡冠をかぶる
          春川の水は   空を映して舟は天上に浮かぶようだ
          老人の目には 花は霧の中に咲くかと霞んで見える
          美しい蝶が   戯れながら幕間を飛び
          二三の鷗が   軽々と急流をくだる
          白雲と緑の山  万里のかなたへつづき
          愁いを込めて  北へまっすぐに見る都長安


 ⊂ものがたり⊃ 困難な生活のうちに一年が過ぎ、杜甫は五十九歳の春を迎えました。その春、舅父(きゅうふ:母方のおじ)の崔偉(さいい)が郴州(ちんしゅう:湖南省郴州市)の録事参軍(刺史代理)になって赴任する途中、潭州を通過しました。杜甫は久しぶりに親族の「おじ」と会い、くさぐさの話をしたことでしょう。上流の任地へ赴く「おじ」を見送ってから、杜甫は潭州で迎える二度目の寒食節を過ごします。詩題の「小寒食」は寒食節の三日目、最後の寒食日のことです。
 詩は中四句を前後の二句で囲む形式で、はじめの二句は現在の状況です。杜甫は舟中で生活しており、節句だからと無理をして酒を飲みました。寒食節なので肴は冷たい料理です。「鶡冠」の鶡は雉の一種で、鶡の尾羽を飾りにつけた冠です。鶡冠は隠者のかぶりものとされていますので、杜甫は隠者然として脇息にもたれている自分を描いているのです。
 中四句はまわりの描写で、春になって水嵩の増した水面に空が映って天上に坐しているような気分であると、杜甫は隠者を気取るのです。つぎの頚聯の対句は見事な出来で、杜甫の観察眼と創作力がすこしも衰えていないことを示しています。結びはやはり長安への思いで結ばれているところが、杜甫の杜甫たる由縁でしょう。

 杜甫ー260
     清 明             清  明

  著処繁華衿是日   著処(ちょくしょ)の繁華  是(この)日に衿(ほこ)り
  長沙千人万人出   長沙(ちょうさ)  千人万人出(い)ず
  渡頭翠柳艶明眉   渡頭(ととう)翠柳(すいりゅう)  明眉(めいび)艶(えん)に
  争道朱蹄驕齧膝   道を争う朱蹄(しゅてい)齧膝(げっし)驕(おご)る
  此都好遊湘西寺   此(こ)の都(と)遊ぶに好し  湘西(しょうせい)の寺
  諸将亦自軍中至   諸将亦(ま)た軍中より至る
  馬援征行在眼前   馬援(ばえん)が征行(せいこう)  眼前(がんぜん)に在り
  葛強親近同心事   葛強(かつきょう)が親近(しんきん)  心事(しんじ)同じ
  金鐙下山紅日晩   金鐙(きんとう)  山より下れば紅日(こうじつ)晩(く)れ
  牙檣捩柁青楼遠   牙檣(がしょう)  柁を捩(もど)らせば青楼(せいろう)遠し
  古時喪乱皆可知   古時(こじ)の喪乱(そうらん)    皆(みな)知る可く
  人世悲歓暫相遣   人世(じんせい)の悲歓(ひかん) 暫(しばら)く相遣(や)る
  弟姪雖存不得書   弟姪(ていてつ)存すと雖(いえど)も書を得ず
  干戈未息苦離居   干戈(かんか)未だ息(や)まず   離居(りきょ)に苦しむ
  逢迎少壮非吾道   少壮(しょうそう)を逢迎(ほうげい)するは吾が道に非ず
  況乃今朝更祓除   況(いわ)んや乃(すなわ)ち今朝は更に祓除(ふつじょ)なるをや

  ⊂訳⊃
          今日はどこでも賑やかさを自慢する
          長沙では   千人万人の人出だ
          渡津の柳は  緑の眉のように艶やかで
          道を争う朱蹄の駿馬は  堂々と進む
          湘水の西の寺は  遊宴に適しているので
          将軍たちも  軍中からやってくる
          まるで馬援の南征を見るようで
          葛強への信任  忠誠心は自分と同じである
          鐙をけって山から下りると  夕日は赤く
          帆舟の柁を切れば  遠くに青楼が見える
          古来より騒乱の時の人心はわかっている
          人は悲しみにつけ歓びにつけ  一時の歓楽を尽くすのだ
          弟や甥はいるが  便りはなく
          兵乱はいまだにやまず  離別に苦しんでいる
          若者の相手をするのは不得意で
          まして今朝は  上巳の祓除の日に当たるのだ


 ⊂ものがたり⊃ 小寒節の翌日は清明節です。大暦五年(770)の清明節は旧暦三月三日で、上巳節と重なっていました。後半で出てきますが、このことによって杜甫はこの時まで潭州にいたことの証明になります。
 清明節の日には野外で遊ぶ習わしであり、人出があります。杜甫も人ごみに混じって郊外に出かけたようです。潭州の湘水西岸には岳麓山があり、山中には岳麓寺と道林寺の二寺がありました。寺の境内は遊宴に適しており、潭州駐屯の武将たちが宴会をひらいていました。それを見て杜甫は、後漢の名将「馬援」(ばえん)が武陵(湖南省常徳市)で新曲を作らせ、南征の兵士の苦労を慰めた話を想い出します。
 「葛強」(かつきょう)は晋の将軍山簡(さんかん)に愛された部将で、二人の信頼関係は杜甫の好きな話題でした。山簡の葛強への信任、葛強の山簡に対する忠誠心は自分と同じだと杜甫は詠いますが、それは杜甫の唐朝への忠誠心と同じということでしょう。
 夕刻になったので、杜甫は山を下りて帰途につきます。後半八句冒頭の「金鐙」は金の装飾をほどこした立派な鐙(あぶみ)ということで、権貴の者の乗馬、もしくは乗っている人を表わします。杜甫はそんな身分ではありませんので、これは将軍たちが帰途についたことをいうもので、杜甫もそれにつれて山を下ったのだと考えられます。このころの杜甫は自分の馬を持っている状況ではありませんので、乗っているとすれば借り物でしょう。
 つぎの対句は人心の機微を洞察して思いやりのあるものになっています。つぎの二句も弟や甥(姪は甥の意味)と離れて暮らしていることへの嘆きです。それも兵乱が止まないために、離居の苦しみを味わっているというのです。
 結びの二句は一転して、杜甫が旧弊で理屈っぽい自分の性格を反省するものです。今日は清明節で気晴らしの日であるが、同時に上巳の祓除(ふつじょ:みそぎはらい)の日でもあるので謹厳にならざるを得ないのだと、言い訳めいたことを口にしています。遊びたがる若い家族となにか小さないさかいでもあったのでしょうか。

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