杜甫251
登岳陽楼 岳陽楼に登る
昔聞洞庭水 昔聞く 洞庭(どうてい)の水
今上岳陽楼 今上る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南坼 呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮かぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北
慿軒涕泗流 軒(けん)に慿(よ)れば涕泗(ていし)流る
⊂訳⊃
かねて名高い洞庭湖を
いま 岳陽楼に上ってみはるかす
呉楚の地は 東と南に引き裂かれ
太陽と月は 昼夜湖上に浮かび時は流れる
親しい者から 一通のたよりもなく
老いた身に 小舟がひとつ
勾欄に慿りかかって関山の北
戎馬を思えば とめどなく涙は流れる
⊂ものがたり⊃ 岳州の渡津に舟をつけると、杜甫はすぐに岳陽楼に上ったようです。岳陽城は洞庭湖の湖口東岸にあって、岳陽楼は城壁の西門上に聳える三層楼でした。西南の眼下に洞庭湖を見渡すことができます。
この五言律詩は、杜甫の名作のひとつに数えられています。首聯から対句を用い、前半四句は岳陽楼からの眺め、というよりも位置づけを雄大に詠います。「呉楚 東南に坼け」は方角的に難解ですが、洞庭湖が古代の呉と楚の国を東と南に分けていたと、大きく言うものでしょう。「乾坤 日夜浮かぶ」の乾坤は太陽と月のことで、洞庭湖の湖上に太陽と月が交互に浮かんで時は流れてゆくと、悠久の天地のいとなみの大きさを詠います。
後半四句は感慨を述べるもので、前回の詩で「難危 気益々増す」と自分を鼓舞してみても、家族をひきつれての漂泊の旅はこころもとなく、戦乱の世を哀しむのでした。すでに安史の乱は終わっていましたが、この年の八月に吐蕃の兵が鳳翔(長安の西)に侵入し、関門の北の「戎馬」(兵乱)は収まっていませんでした。
杜甫ー252
宿白沙駅 白沙駅に宿す
水宿仍余照 水宿(すいしゅく) 仍(な)お余照(よしょう)
人煙復此亭 人煙(じんえん) 復(ま)た此の亭
駅辺沙旧白 駅辺(えきへん) 沙 旧(もと)白く
湖外草新青 湖外(こがい) 草 新たに青し
万象皆春気 万象(ばんしょう) 皆 春気(しゅんき)
孤槎自客星 孤槎(こさ) 自(おのずから)ら客星(かくせい)
随波無限月 波に随う 無限の月
的的近南溟 的的(てきてき)として南溟(なんめい)に近づく
⊂訳⊃
消え残る夕陽 水辺に舟を泊め
今宵も水煙が 宿場の家から立ち昇る
駅亭の辺りは 白い砂浜がひろがり
岸辺には 青い若草が芽吹いている
すべては 春の気配を帯びはじめたが
一艘の筏に乗る私は さすらいの星なのだ
波に揺られて どこまでもつづく月の影
煌々と輝く中を 南の果てへ近づいてゆく
⊂ものがたり⊃ 杜甫の一家は岳陽で年を越し、翌大暦四年(769)の正月、洞庭湖を南へ下って潭州(湖南省長沙市)に向かいました。北の故郷ではなく、南の瀟湘の地へ向かった理由については、いろいろな説がありますが、乱後の北へ帰っても生活できないというのが隠された理由だったのではないでしょうか。
当時の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあり、湖の南岸は現在よりも50kmほど南へ拡がっていたとみられています。洞庭湖の東南隅に青草湖と称する一角があり、白沙駅という宿駅がありました。杜甫は日暮れになって白沙駅の渡津に舟をつなぎました。
この詩も前半四句は叙景、後半四句は感慨になっています。頷聯(三、四句)の各句を後ろから一字飛びに読むと、「白沙駅」「青草湖」の名前が詠み込まれています。杜甫は本来、詩中で言葉遊びをするような詩人ではないのですが、こうした隠し味は地もとの人を喜ばせる効果があったと思います。杜甫には地もとの人士に受ける詩を書く必要があったのです。
しかし、後半四句の感慨には深刻なものがあり、杜甫は遊びを含む詩のなかにも本心を詠いこんでいるのです。
杜甫ー253
清明二首 其一 清明 二首 其の一
朝来新火起新煙 朝来(ちょうらい) 新火(しんか) 新煙(しんえん)を起こす
湖色春光浄客船 湖色(こしょく) 春光(しゅんこう) 客船に浄(きよ)し
繍羽銜花他自得 繍羽(しゅうう) 花を銜(ふく)みて他(か)れ自得(じとく)し
紅顔騎竹我無縁 紅顔(こうがん) 竹に騎(の)る 我れ縁(えん)無し
胡童結束還難有 胡童(こどう)の結束(けつそく) 還(ま)た有り難く
楚女腰肢亦可憐 楚女(そじょ)の腰肢(ようし) 亦(ま)た憐む可し
不見定王城旧処 見ず 定王城の旧処(きゅうしょ)
長懐賈傅井依然 長く懐(おも)う 賈傅(かふ)の井(い)依然たるを
虚霑周挙為寒食 虚しく霑(うるお)う 周挙(しゅうきょ)が寒食を為(な)すに
実藉君平売卜銭 実に藉(よ)る 君平(くんぺい)が売卜(ばいぼく)の銭
鐘鼎山林各天性 鐘鼎(しょうてい) 山林 各々(おのおの)天性
濁醪麤飯任吾年 濁醪(だくろう) 麤飯(そはん) 吾(わ)が年(とし)に任せん
⊂訳⊃
朝から火を起こし 新しい煙が流れる
水の色も春の光も 舟をめぐって清らかだ
美しい鳥が 花をくわえて得意げに飛び
子供らは竹馬に乗るが 私には縁がない
異族の子らの 細身の衣装もめずらしく
楚地の娘の 柳腰はかわいらしい
定王の城の旧址は いまはないが
賈誼の井戸が残っているのは なつかしい
周挙も楽しんだ寒食明けだが ご馳走はない
厳君平の売卜百銭の得に あやかりたいものである
鐘鼎の富貴 山林の隠棲 人それぞれだが
濁り酒に粗末な飯 歳月の過ぎるがままに任せている
⊂ものがたり⊃ 白沙駅を出ると、舟はすぐに湘水に入ります。潭州(湖南省長沙市)は湘水の河口に近い城市といってよく、陰暦三月のはじめ、清明節のころには潭州に着いていました。
清明節は同時に寒食明けでもあり、新しく火を起こして食事をつくり、墓参りや野遊びをします。陽暦では四月五日か六日にあたりますので、気候のよい季節です。子供が竹馬に乗るのも踏青(野遊び)の一種ですが、杜甫は故郷にいませんので墓参りはできません。土地に住む異族の子供の民族衣装や楚女の細い腰が杜甫の目にとまります。
後半六句のうち、はじめの二句は潭州にある史跡です。「定王城」は漢の長沙王呉発(定王)の城で、「不見」(見ず)というのは今はないという意味です。「賈傅の井」は長沙王の大傅になって潭州にきた賈誼(かぎ)の宅中の井戸のことで、これは残っていたようです。
「周挙」(しゅうきょ)は後漢の幷州(へいしゅう)刺史で、冬の寒食節を廃止したという言い伝えがあります。春の寒食節は周挙も楽しんだが、自分にはご馳走はないというのでしょう。「君平」は厳君平(げんくんぺい)のことで、占いをして銭を得ていました。末尾の四句は清明節になったが、杜甫は金銭に窮し、貧しい食事しかできないといい、富貴も隠棲も人の考え方次第だが、自分は濁り酒に粗末な飯でがまんをしていると強がりを言っているのか、嘆いているのか、判断に迷うような詠いぶりです。
杜甫ー255
清明二首 其二 清明 二首 其の二
此身漂泊苦西東 此の身(み)漂泊して西東(せいとう)に苦しみ
右臂偏枯半耳聾 右臂(うひ)は偏枯(へんこ)し 半耳(はんじ)は聾(ろう)す
寂寂繋舟双下涙 寂寂(せきせき)たる繋舟(けいしゅう) 双(なら)び下る涙
悠悠伏枕左書空 悠悠(ゆうゆう)たる伏枕(ふくちん) 左書(さしょ)空(むな)し
十年蹴鞠将雛遠 十年 蹴鞠(しゅうきく) 将雛(しょうすう)遠く
万里鞦韆習俗同 万里 鞦韆(しゅうせん) 習俗(しゅうぞく)同じ
旅雁上雲帰紫塞 旅雁(りょがん) 雲に上り紫塞(しさい)に帰り
家人鑽火用青楓 家人(かじん) 火を鑽(き)るに青楓(せいふう)を用う
秦城楼閣烟花裏 秦城(しんじょう)の楼閣は烟花(えんか)の裏(うち)
漢主山河錦繡中 漢主(かんしゅ)の山河は錦繡(きんしゅう)の中(なか)
春去春来洞庭闊 春去り春来たり 洞庭(どうてい)闊(ひろ)く
白蘋愁殺白頭翁 白蘋(はくひん) 愁殺(しゅうさつ)す白頭(はくとう)の翁を
⊂訳⊃
身は異郷にさすらい あちらこちらで苦しみ
右臂はひきつって 片耳は聞こえない
淋しい岸に舟を繋ぎ 涙は頬を流れ落ちる
転々と寝返りを打ち なにも書けない
十年たてば 子供は蹴鞠で遊ばなくなり
いずこの地でも 鞦韆遊びに変わりはない
帰雁は高く飛んで 長城のかなたへ去り
妻は火を熾すのに 生木の楓をつかう
長安の楼閣は 花霞のなかに消え
蜀漢の山河は 綾錦の織り目のようだ
春は去り春が来て 洞庭の湖(うみ)はひろく
浮草の花の白さに 白頭翁は打ちのめされる
⊂ものがたり⊃ 清明節の日の詩というのに、其の二の詩はあまりにも悲痛で家族にも見せられなかったであろうと思われます。「右臂は偏枯し 半耳は聾す」と杜甫は体の不調を記録しています。そして、岸に繋いだ舟のなかで涙を流すのです。「悠悠たる伏枕 左書空し」は『詩経』関雎(かんしょ)の詩を踏まえており、輾転反側して悩み夜も眠れないほどであり、字も上手に書けないという意味でしょう。
「蹴鞠」(けまり)や「鞦韆」(ぶらんこ)は踏青(とうせい)の代表的な遊びですが、十年たてば子供も大きくなって蹴鞠で遊ばなくなり、鞦韆の遊びは何処に行っても変わらないと、歳月の過ぎ去ったことや、異郷へのさすらい人の悲哀をそれとなく描いています。 春になって雁は長城の北の故郷に帰ってしまい、妻は清明節のために新しい火を熾そうとしますが、生木の楓(ふう)をもちいるので煙にむせています。詩句からは漂泊者の淋しい風景が鮮明な映像となって浮かび上がってきます。
蜀に流亡してからすでに十年がたち、洞庭湖の湖畔にあって季節は変わりなく移っていきます。長安の都も蜀の山河も、いまは遠いものになってしまいました。杜甫はそうしたことを思いながら、浮き草の花の白さに打ちのめされると、漂泊の人生を嘆くのです。人々が楽しむ清明節は、哀しみの言葉でむすばれます。
「清明二首」其の二の詩は、杜甫の苦悩が生々しく描かれており、佳作といえるでしょう。
登岳陽楼 岳陽楼に登る
昔聞洞庭水 昔聞く 洞庭(どうてい)の水
今上岳陽楼 今上る 岳陽楼(がくようろう)
呉楚東南坼 呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け
乾坤日夜浮 乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮かぶ
親朋無一字 親朋(しんぽう) 一字(いちじ)無く
老病有孤舟 老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有り
戎馬関山北 戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北
慿軒涕泗流 軒(けん)に慿(よ)れば涕泗(ていし)流る
⊂訳⊃
かねて名高い洞庭湖を
いま 岳陽楼に上ってみはるかす
呉楚の地は 東と南に引き裂かれ
太陽と月は 昼夜湖上に浮かび時は流れる
親しい者から 一通のたよりもなく
老いた身に 小舟がひとつ
勾欄に慿りかかって関山の北
戎馬を思えば とめどなく涙は流れる
⊂ものがたり⊃ 岳州の渡津に舟をつけると、杜甫はすぐに岳陽楼に上ったようです。岳陽城は洞庭湖の湖口東岸にあって、岳陽楼は城壁の西門上に聳える三層楼でした。西南の眼下に洞庭湖を見渡すことができます。
この五言律詩は、杜甫の名作のひとつに数えられています。首聯から対句を用い、前半四句は岳陽楼からの眺め、というよりも位置づけを雄大に詠います。「呉楚 東南に坼け」は方角的に難解ですが、洞庭湖が古代の呉と楚の国を東と南に分けていたと、大きく言うものでしょう。「乾坤 日夜浮かぶ」の乾坤は太陽と月のことで、洞庭湖の湖上に太陽と月が交互に浮かんで時は流れてゆくと、悠久の天地のいとなみの大きさを詠います。
後半四句は感慨を述べるもので、前回の詩で「難危 気益々増す」と自分を鼓舞してみても、家族をひきつれての漂泊の旅はこころもとなく、戦乱の世を哀しむのでした。すでに安史の乱は終わっていましたが、この年の八月に吐蕃の兵が鳳翔(長安の西)に侵入し、関門の北の「戎馬」(兵乱)は収まっていませんでした。
杜甫ー252
宿白沙駅 白沙駅に宿す
水宿仍余照 水宿(すいしゅく) 仍(な)お余照(よしょう)
人煙復此亭 人煙(じんえん) 復(ま)た此の亭
駅辺沙旧白 駅辺(えきへん) 沙 旧(もと)白く
湖外草新青 湖外(こがい) 草 新たに青し
万象皆春気 万象(ばんしょう) 皆 春気(しゅんき)
孤槎自客星 孤槎(こさ) 自(おのずから)ら客星(かくせい)
随波無限月 波に随う 無限の月
的的近南溟 的的(てきてき)として南溟(なんめい)に近づく
⊂訳⊃
消え残る夕陽 水辺に舟を泊め
今宵も水煙が 宿場の家から立ち昇る
駅亭の辺りは 白い砂浜がひろがり
岸辺には 青い若草が芽吹いている
すべては 春の気配を帯びはじめたが
一艘の筏に乗る私は さすらいの星なのだ
波に揺られて どこまでもつづく月の影
煌々と輝く中を 南の果てへ近づいてゆく
⊂ものがたり⊃ 杜甫の一家は岳陽で年を越し、翌大暦四年(769)の正月、洞庭湖を南へ下って潭州(湖南省長沙市)に向かいました。北の故郷ではなく、南の瀟湘の地へ向かった理由については、いろいろな説がありますが、乱後の北へ帰っても生活できないというのが隠された理由だったのではないでしょうか。
当時の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあり、湖の南岸は現在よりも50kmほど南へ拡がっていたとみられています。洞庭湖の東南隅に青草湖と称する一角があり、白沙駅という宿駅がありました。杜甫は日暮れになって白沙駅の渡津に舟をつなぎました。
この詩も前半四句は叙景、後半四句は感慨になっています。頷聯(三、四句)の各句を後ろから一字飛びに読むと、「白沙駅」「青草湖」の名前が詠み込まれています。杜甫は本来、詩中で言葉遊びをするような詩人ではないのですが、こうした隠し味は地もとの人を喜ばせる効果があったと思います。杜甫には地もとの人士に受ける詩を書く必要があったのです。
しかし、後半四句の感慨には深刻なものがあり、杜甫は遊びを含む詩のなかにも本心を詠いこんでいるのです。
杜甫ー253
清明二首 其一 清明 二首 其の一
朝来新火起新煙 朝来(ちょうらい) 新火(しんか) 新煙(しんえん)を起こす
湖色春光浄客船 湖色(こしょく) 春光(しゅんこう) 客船に浄(きよ)し
繍羽銜花他自得 繍羽(しゅうう) 花を銜(ふく)みて他(か)れ自得(じとく)し
紅顔騎竹我無縁 紅顔(こうがん) 竹に騎(の)る 我れ縁(えん)無し
胡童結束還難有 胡童(こどう)の結束(けつそく) 還(ま)た有り難く
楚女腰肢亦可憐 楚女(そじょ)の腰肢(ようし) 亦(ま)た憐む可し
不見定王城旧処 見ず 定王城の旧処(きゅうしょ)
長懐賈傅井依然 長く懐(おも)う 賈傅(かふ)の井(い)依然たるを
虚霑周挙為寒食 虚しく霑(うるお)う 周挙(しゅうきょ)が寒食を為(な)すに
実藉君平売卜銭 実に藉(よ)る 君平(くんぺい)が売卜(ばいぼく)の銭
鐘鼎山林各天性 鐘鼎(しょうてい) 山林 各々(おのおの)天性
濁醪麤飯任吾年 濁醪(だくろう) 麤飯(そはん) 吾(わ)が年(とし)に任せん
⊂訳⊃
朝から火を起こし 新しい煙が流れる
水の色も春の光も 舟をめぐって清らかだ
美しい鳥が 花をくわえて得意げに飛び
子供らは竹馬に乗るが 私には縁がない
異族の子らの 細身の衣装もめずらしく
楚地の娘の 柳腰はかわいらしい
定王の城の旧址は いまはないが
賈誼の井戸が残っているのは なつかしい
周挙も楽しんだ寒食明けだが ご馳走はない
厳君平の売卜百銭の得に あやかりたいものである
鐘鼎の富貴 山林の隠棲 人それぞれだが
濁り酒に粗末な飯 歳月の過ぎるがままに任せている
⊂ものがたり⊃ 白沙駅を出ると、舟はすぐに湘水に入ります。潭州(湖南省長沙市)は湘水の河口に近い城市といってよく、陰暦三月のはじめ、清明節のころには潭州に着いていました。
清明節は同時に寒食明けでもあり、新しく火を起こして食事をつくり、墓参りや野遊びをします。陽暦では四月五日か六日にあたりますので、気候のよい季節です。子供が竹馬に乗るのも踏青(野遊び)の一種ですが、杜甫は故郷にいませんので墓参りはできません。土地に住む異族の子供の民族衣装や楚女の細い腰が杜甫の目にとまります。
後半六句のうち、はじめの二句は潭州にある史跡です。「定王城」は漢の長沙王呉発(定王)の城で、「不見」(見ず)というのは今はないという意味です。「賈傅の井」は長沙王の大傅になって潭州にきた賈誼(かぎ)の宅中の井戸のことで、これは残っていたようです。
「周挙」(しゅうきょ)は後漢の幷州(へいしゅう)刺史で、冬の寒食節を廃止したという言い伝えがあります。春の寒食節は周挙も楽しんだが、自分にはご馳走はないというのでしょう。「君平」は厳君平(げんくんぺい)のことで、占いをして銭を得ていました。末尾の四句は清明節になったが、杜甫は金銭に窮し、貧しい食事しかできないといい、富貴も隠棲も人の考え方次第だが、自分は濁り酒に粗末な飯でがまんをしていると強がりを言っているのか、嘆いているのか、判断に迷うような詠いぶりです。
杜甫ー255
清明二首 其二 清明 二首 其の二
此身漂泊苦西東 此の身(み)漂泊して西東(せいとう)に苦しみ
右臂偏枯半耳聾 右臂(うひ)は偏枯(へんこ)し 半耳(はんじ)は聾(ろう)す
寂寂繋舟双下涙 寂寂(せきせき)たる繋舟(けいしゅう) 双(なら)び下る涙
悠悠伏枕左書空 悠悠(ゆうゆう)たる伏枕(ふくちん) 左書(さしょ)空(むな)し
十年蹴鞠将雛遠 十年 蹴鞠(しゅうきく) 将雛(しょうすう)遠く
万里鞦韆習俗同 万里 鞦韆(しゅうせん) 習俗(しゅうぞく)同じ
旅雁上雲帰紫塞 旅雁(りょがん) 雲に上り紫塞(しさい)に帰り
家人鑽火用青楓 家人(かじん) 火を鑽(き)るに青楓(せいふう)を用う
秦城楼閣烟花裏 秦城(しんじょう)の楼閣は烟花(えんか)の裏(うち)
漢主山河錦繡中 漢主(かんしゅ)の山河は錦繡(きんしゅう)の中(なか)
春去春来洞庭闊 春去り春来たり 洞庭(どうてい)闊(ひろ)く
白蘋愁殺白頭翁 白蘋(はくひん) 愁殺(しゅうさつ)す白頭(はくとう)の翁を
⊂訳⊃
身は異郷にさすらい あちらこちらで苦しみ
右臂はひきつって 片耳は聞こえない
淋しい岸に舟を繋ぎ 涙は頬を流れ落ちる
転々と寝返りを打ち なにも書けない
十年たてば 子供は蹴鞠で遊ばなくなり
いずこの地でも 鞦韆遊びに変わりはない
帰雁は高く飛んで 長城のかなたへ去り
妻は火を熾すのに 生木の楓をつかう
長安の楼閣は 花霞のなかに消え
蜀漢の山河は 綾錦の織り目のようだ
春は去り春が来て 洞庭の湖(うみ)はひろく
浮草の花の白さに 白頭翁は打ちのめされる
⊂ものがたり⊃ 清明節の日の詩というのに、其の二の詩はあまりにも悲痛で家族にも見せられなかったであろうと思われます。「右臂は偏枯し 半耳は聾す」と杜甫は体の不調を記録しています。そして、岸に繋いだ舟のなかで涙を流すのです。「悠悠たる伏枕 左書空し」は『詩経』関雎(かんしょ)の詩を踏まえており、輾転反側して悩み夜も眠れないほどであり、字も上手に書けないという意味でしょう。
「蹴鞠」(けまり)や「鞦韆」(ぶらんこ)は踏青(とうせい)の代表的な遊びですが、十年たてば子供も大きくなって蹴鞠で遊ばなくなり、鞦韆の遊びは何処に行っても変わらないと、歳月の過ぎ去ったことや、異郷へのさすらい人の悲哀をそれとなく描いています。 春になって雁は長城の北の故郷に帰ってしまい、妻は清明節のために新しい火を熾そうとしますが、生木の楓(ふう)をもちいるので煙にむせています。詩句からは漂泊者の淋しい風景が鮮明な映像となって浮かび上がってきます。
蜀に流亡してからすでに十年がたち、洞庭湖の湖畔にあって季節は変わりなく移っていきます。長安の都も蜀の山河も、いまは遠いものになってしまいました。杜甫はそうしたことを思いながら、浮き草の花の白さに打ちのめされると、漂泊の人生を嘆くのです。人々が楽しむ清明節は、哀しみの言葉でむすばれます。
「清明二首」其の二の詩は、杜甫の苦悩が生々しく描かれており、佳作といえるでしょう。
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