王維ー73
別弟縉後登青龍 弟縉に別れて後に青龍寺
寺望藍田山 に登り藍田山を望む
陌上新別離 陌上(はくじょう) 新たに別離(べつり)し
蒼茫四郊晦 蒼茫(そうぼう) 四郊(しこう)晦(くら)し
登高不見君 登高(とうこう)するも君を見ず
故山復雲外 故山(こざん)は復(ま)た雲外(うんがい)にあり
遠樹蔽行人 遠樹(えんじゅ) 行人(こうじん)を蔽い
長天隠秋塞 長天(ちょうてん) 秋塞(しゅうさい)を隠す
心悲宦遊子 心に悲しむ 宦遊(かんゆう)の子(し)
何処飛征蓋 何処(いずく)にか 征蓋(せいがい)を飛ばすや
⊂訳⊃
あぜ道で いま君と別れたばかり
あたりは無限のかなた 暗く沈んでいるようだ
高いところに登るが 君の姿は見えず
故郷の山も 雲の向こうにある
遠い林の陰に 旅人の姿は消え
秋空の遥かかなたに 塞(とりで)がある
地方勤めにゆく君よ 心は悲しみに沈み
車の幌をなびかせて いまごろ何処を走っているのか
⊂ものがたり⊃ 旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。王縉(おうしん)は王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。
詩題によると、王縉は藍田の谷を通って南へ山を越え、南陽か江南のほうへ赴任してゆくようです。唐代の長安城の東壁にある延興門は新昌坊のすぐ近くにあり、新昌坊のあたりは高台になっています。青龍寺は新昌坊の東南隅にあって、日本僧空海が学んだ寺として有名です。いまは寺の跡地に空海の記念碑と小さな堂が建っているだけですが、敷地の東端に立つと、ここが黄土台地の高台であることがよくわかります。このあたりは唐代は城内にあって楽遊原と呼ばれ、都人の遊楽の地でした。いまは一面の畑になっています。
延興門は長安城の東の正門ではありませんので、王縉はこの門から出ていったのではないと思われます。王維は弟を見送った後、新昌坊の高台に登って弟の去っていった方角を眺め、この詩を作ったものと思われます。
王維ー74
帰輞川作 輞川に帰る作
谷口踈鐘動 谷口(こくこう)に踈鐘(そしょう)動き
漁樵稍欲稀 漁樵(ぎょしょう) 稍(ようや)く稀ならんと欲す
悠然遠山暮 悠然たり 遠山(えんざん)の暮れ
独向白雲帰 独り白雲に向かって帰る
菱蔓弱難定 菱蔓(りょうまん)は弱くして定め難く
楊花軽易飛 楊花(ようか)は軽くして飛び易し
東皐春草色 東皐(とうこう) 春草(しゅんそう)の色
惆悵掩柴門 惆悵(ちゅうちょう)して柴門を掩(おお)う
⊂訳⊃
谷口まで来ると 入相の鐘がかすかに聞こえ
樵や川漁の姿も ようやく疎らになる
遠くの山は 悠然として暮れゆき
白雲に向かって ひとり歩いてゆく
菱の蔓は いまだか弱く不安定で
柳の花は 軽くて飛びやすい
東の丘の 春草の色を思いつつ
うなだれて 柴門の扉を閉じる
⊂ものがたり⊃ 年を載(さい)と呼ぶようになった天宝三載(744)ころから八年間ほどの王維の伝記はほとんどわかっていません。四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたと思われますが、ほとんどが制作年次を確定できないものばかりです。
そのころの作品のひとつに「時に庫部員外たり」と題注のある詩がありますので、尚書省兵部の庫部員外郎(従六品上)になったことが知られますが、正確な時期は不明です。しかし、このころから王維は勤めに熱意を欠くようになります。理由のひとつは天宝四載(745)に楊太真が貴妃になり、玄宗はますます寵妃にのめり込み、政事の実権は宰相の李林甫に移っていったことにあるでしょう。朝廷の現状に失望した王維は、再び輞川の山荘に通うことが多くなります。詩中の「楊花」は柳絮(りゅうじょ)のことで、春に純白の綿を散らすように空中に飛び散ります。
王維ー75
別輞川別業 輞川の別業に別る
依遅動車馬 依遅(いち)として車馬(しゃば)を動かし
惆悵出松蘿 惆悵(ちゅうちょう)として松蘿(しょうら)を出ず
忍別青山去 忍(しの)んで青山(せいざん)に別れ去るとも
其如緑水何 其(そ)れ緑水(りょくすい)を如何(いかん)せん
⊂訳⊃
のろのろと 馬車を動かし
うなだれて 松かずらの茂る林を出る
たとえ青山との別れを耐え忍ぶとも
流れ去る緑の水はどうしようもない
⊂ものがたり⊃ 「別業」(べつぎょう)というのは別荘のことです。泰平の世ですので、武器庫を管理する庫部員外郎は閑職であったと思われますが、勤めを持つ身であれば、いつまでも輞川にとどまっていることはできません。いやでも都にもどる必要があり、王維はのろのろと馬車を動かし、「松蘿」(松にまといつく蔓)の茂る林を抜けて都への道をたどってゆきます。五言絶句は王維の特色となる詩形ですので、それがこのような形で現れはじめたことに留意してください。
王維ー77
積雨輞川荘作 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
⊂訳⊃
降りつづく雨 人けのない林 煙は緩やかに流れ
藜を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
⊂ものがたり⊃ 王維は華清宮での玄宗の華やかな宮廷生活に背を向けるように、しばしば輞川の家に通って閑雅を愛するようになりました。輞川の別荘を「輞川荘」と呼ぶようになったのもこのころのことでしょう。詩の最後で、王維はもはや宮廷での席次を争う気もなくなったと詠っています。
別弟縉後登青龍 弟縉に別れて後に青龍寺
寺望藍田山 に登り藍田山を望む
陌上新別離 陌上(はくじょう) 新たに別離(べつり)し
蒼茫四郊晦 蒼茫(そうぼう) 四郊(しこう)晦(くら)し
登高不見君 登高(とうこう)するも君を見ず
故山復雲外 故山(こざん)は復(ま)た雲外(うんがい)にあり
遠樹蔽行人 遠樹(えんじゅ) 行人(こうじん)を蔽い
長天隠秋塞 長天(ちょうてん) 秋塞(しゅうさい)を隠す
心悲宦遊子 心に悲しむ 宦遊(かんゆう)の子(し)
何処飛征蓋 何処(いずく)にか 征蓋(せいがい)を飛ばすや
⊂訳⊃
あぜ道で いま君と別れたばかり
あたりは無限のかなた 暗く沈んでいるようだ
高いところに登るが 君の姿は見えず
故郷の山も 雲の向こうにある
遠い林の陰に 旅人の姿は消え
秋空の遥かかなたに 塞(とりで)がある
地方勤めにゆく君よ 心は悲しみに沈み
車の幌をなびかせて いまごろ何処を走っているのか
⊂ものがたり⊃ 旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。王縉(おうしん)は王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。
詩題によると、王縉は藍田の谷を通って南へ山を越え、南陽か江南のほうへ赴任してゆくようです。唐代の長安城の東壁にある延興門は新昌坊のすぐ近くにあり、新昌坊のあたりは高台になっています。青龍寺は新昌坊の東南隅にあって、日本僧空海が学んだ寺として有名です。いまは寺の跡地に空海の記念碑と小さな堂が建っているだけですが、敷地の東端に立つと、ここが黄土台地の高台であることがよくわかります。このあたりは唐代は城内にあって楽遊原と呼ばれ、都人の遊楽の地でした。いまは一面の畑になっています。
延興門は長安城の東の正門ではありませんので、王縉はこの門から出ていったのではないと思われます。王維は弟を見送った後、新昌坊の高台に登って弟の去っていった方角を眺め、この詩を作ったものと思われます。
王維ー74
帰輞川作 輞川に帰る作
谷口踈鐘動 谷口(こくこう)に踈鐘(そしょう)動き
漁樵稍欲稀 漁樵(ぎょしょう) 稍(ようや)く稀ならんと欲す
悠然遠山暮 悠然たり 遠山(えんざん)の暮れ
独向白雲帰 独り白雲に向かって帰る
菱蔓弱難定 菱蔓(りょうまん)は弱くして定め難く
楊花軽易飛 楊花(ようか)は軽くして飛び易し
東皐春草色 東皐(とうこう) 春草(しゅんそう)の色
惆悵掩柴門 惆悵(ちゅうちょう)して柴門を掩(おお)う
⊂訳⊃
谷口まで来ると 入相の鐘がかすかに聞こえ
樵や川漁の姿も ようやく疎らになる
遠くの山は 悠然として暮れゆき
白雲に向かって ひとり歩いてゆく
菱の蔓は いまだか弱く不安定で
柳の花は 軽くて飛びやすい
東の丘の 春草の色を思いつつ
うなだれて 柴門の扉を閉じる
⊂ものがたり⊃ 年を載(さい)と呼ぶようになった天宝三載(744)ころから八年間ほどの王維の伝記はほとんどわかっていません。四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたと思われますが、ほとんどが制作年次を確定できないものばかりです。
そのころの作品のひとつに「時に庫部員外たり」と題注のある詩がありますので、尚書省兵部の庫部員外郎(従六品上)になったことが知られますが、正確な時期は不明です。しかし、このころから王維は勤めに熱意を欠くようになります。理由のひとつは天宝四載(745)に楊太真が貴妃になり、玄宗はますます寵妃にのめり込み、政事の実権は宰相の李林甫に移っていったことにあるでしょう。朝廷の現状に失望した王維は、再び輞川の山荘に通うことが多くなります。詩中の「楊花」は柳絮(りゅうじょ)のことで、春に純白の綿を散らすように空中に飛び散ります。
王維ー75
別輞川別業 輞川の別業に別る
依遅動車馬 依遅(いち)として車馬(しゃば)を動かし
惆悵出松蘿 惆悵(ちゅうちょう)として松蘿(しょうら)を出ず
忍別青山去 忍(しの)んで青山(せいざん)に別れ去るとも
其如緑水何 其(そ)れ緑水(りょくすい)を如何(いかん)せん
⊂訳⊃
のろのろと 馬車を動かし
うなだれて 松かずらの茂る林を出る
たとえ青山との別れを耐え忍ぶとも
流れ去る緑の水はどうしようもない
⊂ものがたり⊃ 「別業」(べつぎょう)というのは別荘のことです。泰平の世ですので、武器庫を管理する庫部員外郎は閑職であったと思われますが、勤めを持つ身であれば、いつまでも輞川にとどまっていることはできません。いやでも都にもどる必要があり、王維はのろのろと馬車を動かし、「松蘿」(松にまといつく蔓)の茂る林を抜けて都への道をたどってゆきます。五言絶句は王維の特色となる詩形ですので、それがこのような形で現れはじめたことに留意してください。
王維ー77
積雨輞川荘作 積雨 輞川荘の作
積雨空林烟火遅 積雨(せきう) 空林 烟火(えんか)遅し
蒸藜炊黍餉東菑 藜(あかざ)を蒸し黍を炊いで東菑(とうし)に餉す
漠漠水田飛白鷺 漠漠(ばくばく)たる水田に白鷺(はくろ)飛び
陰陰夏木囀黄鸝 陰陰たる夏木(かぼく)に黄鸝(こうり)囀る
山中習静観朝槿 山中に習静して朝槿(ちょうきん)を観(かん)じ
松下清斎折露葵 松下(しょうか)に清斎して露葵(ろき)を折る
野老与人争席罷 野老(やろう)は人と席を争うことを罷(や)む
海鷗何事更相疑 海鷗(かいおう) 何事ぞ 更に相(あい)疑う
⊂訳⊃
降りつづく雨 人けのない林 煙は緩やかに流れ
藜を蒸し黍を炊いて 畑での食事をつくる
靄のかかる水田で 白鷺は舞い
小暗い夏の木立で 鶯は鳴く
山中で座禅を組み 槿(むくげ)の花を見て無常を悟り
松の木蔭で斎戒し 清らかな葵(あおい)を食とする
田舎住まいの老人は 席次を争う気もなくなり
海の鷗よ どうしたことか まだ私を疑っているのか
⊂ものがたり⊃ 王維は華清宮での玄宗の華やかな宮廷生活に背を向けるように、しばしば輞川の家に通って閑雅を愛するようになりました。輞川の別荘を「輞川荘」と呼ぶようになったのもこのころのことでしょう。詩の最後で、王維はもはや宮廷での席次を争う気もなくなったと詠っています。
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