杜甫ー63
悲陳陶 陳陶を悲しむ
孟冬十郡良家子 孟冬(もうとう) 十郡の良家(りょうか)の子(こ)
血作陳陶沢中水 血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作(な)る
野曠天清無戦声 野(の)曠(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し
四万義軍同日死 四万の義軍 同日に死す
群胡帰来血洗箭 群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭(や)を洗い
仍唱胡歌飲都市 仍(な)お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む
都人廻面向北啼 都人 面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き
日夜更望官軍至 日夜 更に官軍の至るを望む
⊂訳⊃
初冬の十月 十郡の良家の児らは
陳陶斜で戦い 沼沢は血の海となる
雄たけびの声は消え 野は虚しく空は澄み
四万の皇軍は その日のうちに全滅した
胡軍の兵は凱旋し 血の池で箭を洗い
胡歌を唱いつつ 長安の酒を飲む
都人は顔をそむけ 北に向かって泣きながら
官軍の来るのを いまかいまかと待ち望む
⊂ものがたり⊃ 杜甫が長安に軟禁されていた至徳元年(756)の八月ごろ、霊州の粛宗は事後承認のかたちで成都の玄宗を上皇天帝にまつりあげ、自分への譲位を求めます。その要請が成都に届くと玄宗はやむなく承認し、譲位の詔勅を起草して宰相の房琯(ぼうかん)を使者として粛宗のもとに届けさせました。
その間、粛宗は朔方郡に出陣していた朔方節度使郭子儀(かくしぎ)の軍を霊武に呼びもどし、霊州を出て東南に軍を進め、九月には順化(甘粛省慶陽県)に進出していました。房琯が粛宗のもとに着いたのは順化においてでした。粛宗は玄宗が上皇天帝になることを受け入れ、譲位の詔勅を送ってきたことを喜び、房琯をとどめて自分の政府の宰相に任じました。
粛宗の軍は南下して十月には彭原(甘粛省寧県)に到り、房琯に首都の奪還を命じます。房琯は十郡の兵六万余を率いて南下し、西から長安に迫ります。安禄山の軍との戦闘は十月二十一日に咸陽(長安の西北)の西の陳陶斜で行われ、政府軍は一日の戦闘で大敗してしまいました。
杜甫は長安にあって政府軍の勝利を期待していましたが、敗れたのを知って詩を作りました。戦場のようすは想像でしょうが、長安に凱旋してきた安禄山軍のようすは実際に見たものでしょう。
杜甫ー64
悲青坂 青坂を悲しむ
我軍青坂在東門 我れ青坂(せいはん)に軍(ぐん)して東に門在り
天寒飲馬太白窟 天寒くして馬に飲(みずか)う太白の窟(いわや)
黄頭奚児日向西 黄頭(こうとう)の奚児(けいじ) 日に西に向かう
数騎彎弓敢馳突 数騎 弓を彎(ひ)いて敢(あえ)て馳突(ちとつ)す
山雪河冰野蕭瑟 山雪 河冰(かひょう) 野に蕭瑟(しょうしつ)たり
青是烽煙白人骨 青(せい)は是れ烽煙(ほうえん) 白は人骨(じんこつ)
焉得付書与我軍 焉(いずくん)ぞ書を付して我が軍に与え
忍待明年莫倉卒 忍んで明年を待って倉卒(そうそつ)なる莫かれと言い得む
⊂訳⊃
わが軍は青坂に陣し 東に門に対している
寒空の下 太白の岩屋で馬に水を飲ませたのだ
黄色い頭巾の敵兵は 日に日に西へ寄せてくる
味方の数騎が 弓をひきしぼって突出する
山には雪 川には氷 野原に風は吹きすさび
青くたなびく烽火の煙 白いのは死者の骨だ
どうにかしてわが軍に書を届け
我慢して明年を待て あわてるなと言ってやりたい
⊂ものがたり⊃ 陳陶斜の敗戦は彼我の戦闘方法に違いがあったからだと思われます。幽州の兵はこれまで北の胡賊と戦い、胡の降兵を自軍に取り込んでいますので、騎兵を中心とした突撃力の高い兵でした。それに対して房琯は伝統的な兵法を重んずる指揮官で、兵車を並べ歩兵で進撃しようとします。賊将の安守忠(あんしゅちゅう)は風上から草に火を放って視界をさえぎり、官軍の混乱に乗じて騎馬で突撃してきたといいます。
敗れた房琯は敗兵を太白山(陝西省武功県)の麓に集めると、兵をととのえて二日後の十一月二十三日に青坂に陣を構えます。詩中の「東門」を咸陽の東門と解する説もありますが、官軍は西から攻めていますので、東向きに門に対して布陣したと解しました。「黄頭の奚児」というのは黄色の狐の皮のかぶり物で頭を包んだ胡族の兵で、門を出て西へ前進してきました。たまりかねた味方の兵数騎が胡兵の挑発に乗って突出し、またも大敗を喫してしまいます。
杜甫はここは忍耐して明年を待てと言ってやりたいがどうすることもできないと、官軍の二度もの敗戦に心を痛めます。
杜甫ー65
対雪 雪に対す
戦哭多新鬼 戦哭(せんこく) 新鬼(しんき)多く
愁吟独老翁 愁吟(しゅうぎん) 独り老翁
乱雲低薄暮 乱雲(らんうん) 薄暮(はくぼ)に低(た)れ
急雪舞廻風 急雪(きゅうせつ) 廻風(かいふう)に舞う
瓢棄樽無淥 瓢(ひょう)棄てられて 樽(たる)に淥(ろく)無く
炉存火似紅 炉(ろ)存して 火は紅(くれない)に似たり
数州消息断 数州 消息(しょうそく)断たれ
愁坐正書空 愁え坐して 正(まさ)に空(くう)に書す
⊂訳⊃
戦場で泣き叫ぶ声 それは戦死者の霊魂だ
詩を吟ずる声もある それはひとりの老翁だ
夕闇のなかで 乱雲は低くたれこめ
つむじ風のなか 雪は激しく舞っている
柄杓は打ち捨てられ 樽に酒はなく
煖炉に火はあっても ほんのりと赤い程度だ
幾つかの州の 消息は途絶え
愁えて坐し 虚空にひたすら字を書きつけている
⊂ものがたり⊃ この詩は陳陶斜・青坂の敗戦後ほどなく書かれたものと思われます。中四句を前後からはさむ形式の五言律詩で、はじめの二句で戦場の死者を悼み、自分は詩を吟ずるくらいしかできない老翁であると自分の無力を嘆きます。
中の四句は杜甫が坐している堂房から見える外の景色と室内のようすを描いていますが、わびしい無力感が色濃くただよっています。最後の二句で幾つかの州が賊の手に落ちたことをいい、「愁え坐して 正に空に書す」と言っていますが、これには故事があります。
晋末に殷浩(いんこう)という人が時の政事を愁えて、毎日空中に「咄咄怪事」の四文字を書いていたそうです。その意味は「ちくしょう おかしなことだ」といったつぶやきで、杜甫も同じような憤懣の文字を虚空に書きつけていると言っているのです。
杜甫ー66
春望 春望
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木(そうもく)深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり
家書抵万金 家書(かしょ) 万金(ばんきん)に抵(あた)る
白頭掻更短 白頭(はくとう) 掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
⊂訳⊃
国は破れて 山河は残り
春は廻って 城内に草木は茂る
時世を憂えて 花を見ても涙をながし
別離を恨んで 鳥の声にも心がいたむ
烽火は 三月にわたってやまず
家族の便りは 万金よりもとうとい
頭を掻けば 白髪はさらに抜け落ち
冠ももはや 留めておけなくなりそうだ
⊂ものがたり⊃ 戦局は官軍不利のまま冬が過ぎ、明けて至徳二年(757)の春になります。囚われの身にも春はかわりなくやってきますが、杜甫は城内にあって亡国の悲哀に沈んでいます。
五言律詩「春望」(しゅんぼう)は杜甫の詩のなかで、もっともよく知られた名作です。日本人の知っている漢詩の第一位が、この詩という統計もあるそうです。詩中の「簪」は冠(かんむり)をとめるピンのことで、冠は成人男子であることを示す被り物です。「渾て簪に勝えざらんと欲す」は心配で髪が薄くなり、冠も留めて置けなくなったと解されますが、裏の気持ちとしては、こんな国難の時に囚われの身では、冠をつけて人前に出ることもできなくなったという自責の念も含まれていると思われます。
杜甫ー67
遣興 興を遣る
驥子好男児 驥子(きし)は好男児
前年学語時 前年 語(ご)を学びし時
問知人客姓 人客(じんかく)の姓を問知(もんち)し
誦得老夫詩 老夫の詩を誦(しょう)し得たり
世乱憐渠小 世(よ)乱れて渠(かれ)が小なるを憐み
家貧仰母慈 家(いえ)貧にして母の慈しみを仰ぐ
鹿門携不遂 鹿門(ろくもん) 携うること遂げず
雁足繋難期 雁足(がんそく) 繋(か)くること期し難し
天地軍麾満 天地 軍麾(ぐんき)満ち
山河戦角悲 山河 戦角(せんかく)悲しむ
儻帰免相失 儻(も)し帰って相(あい)失うことを免るれば
見日敢辞遅 見る日 敢(あえ)て遅きを辞せんや
⊂訳⊃
宗武は かわいい男の子だ
去年は おしゃべりを始めるころだった
家にいる人の姓を尋ねたり
父親の詩を暗誦したりした
世が乱れて あの児が小さいのを哀れに思い
家が貧しく 母親の愛情だけが頼りであろう
お前たちを連れて 鹿門山に隠居することもできず
近況を 書信で伝えることもままならない
天地には 戦の旗が満ちあふれ
山河には 戦の角笛が悲しく響く
もしも私が帰りえて 再会できるならば
遅くなっても構わない あの児が無事でいてくれるなら
⊂ものがたり⊃ 杜甫は国のゆくすえを心配すると同時に、羌村に残したまま音信不通になっている家族のことも気になります。詩題の「遣興」というのは湧き出る思いを吐き出すという意味で、即興的な詩ですが感情がこもっています。
「驥子」というのは次男宗武の幼名で、このとき五歳でした。五歳で父親の詩を暗誦したりして賢いところのある次男に杜甫は注目しており、言葉を覚え始めるくらいの幼さで戦乱の世に遭遇した幼児に同情を寄せています。そして占領下、囚われの身では家族に便りを出すこともできないと嘆くのです。
杜甫ー68
哀江頭 江頭を哀しむ
少陵野老呑声哭 少陵(しょうりょう)の野老(やろう) 声を呑んで哭(こく)し
春日潜行曲江曲 春日(しゅんじつ) 潜行す 曲江(きょくこう)の曲(くま)
江頭宮殿鎖千門 江頭(こうとう)の宮殿 千門(せんもん)を鎖(とざ)し
細柳新蒲為誰緑 細柳(さいりゅう) 新蒲(しんぽ) 誰(た)が為に緑なる
憶昔霓旌下南苑 憶(おも)う昔 霓旌(げいせい)の南苑(なんえん)に下り
苑中万物生願色 苑中の万物(ばんぶつ) 顔色(がんしょく)を生ぜしを
昭陽殿裏第一人 昭陽殿裏(しょうようでんり) 第一の人
同輦随君侍君側 輦(れん)を同じくして君に随って君側(くんそく)に侍る
輦前才人帯弓箭 輦前(れんぜん)の才人 弓箭(きゅうせん)を帯(お)び
白馬嚼齧黄金勒 白馬 嚼齧(しゃくけつ)す 黄金の勒(くつわ)
翻身向天仰射雲 身を翻(ひるが)えし 天に向かって仰いで雲を射る
一笑正墜双飛翼 一笑 正(まさ)に墜(おと)す 双飛翼(そうひよく)
明眸皓歯今何在 明眸皓歯(めいぼうこうし) 今(いま)何(いずく)にか在る
血汙遊魂帰不得 血に汙(よご)れたる遊魂(ゆうこん) 帰り得ず
清渭東流剣閣深 清渭(せいい)は東流し 剣閣(けんかく)深し
去住彼此無消息 去住彼此(きょじゅうひし) 消息(しょうそく)無し
人生有情涙沾臆 人生 情(じょう)有り 涙 臆(むね)を沾(うるお)す
江水江花豈終極 江水江花(こうすいこうか) 豈に終(つい)に極まらんや
黄昏胡騎塵満城 黄昏(こうこん) 胡騎(こき) 塵 城に満つ
欲往城南望城北 城南に往(ゆ)かんと欲して 城北を望む
⊂訳⊃
少陵の野老(おやじ)は 声を殺して泣きながら
春の日に 曲江のほとりを忍んで歩く
岸辺の宮殿は あまたの門を鎖し
しだれ柳やかわ柳は 誰のために芽吹くのか
想えば昔 天子が芙蓉苑に御幸(みゆき)すると
苑中の万物は 喜びで顔を輝かせた
昭陽殿中 第一のお方は
鳳輦に席を同じくして 天子に侍る
輦輿に侍する官女らは 弓箭をたばさみ
白馬は黄金の勒をかんで先駆する
身をよじって天を仰ぎ 箭を雲に放つと
つがいの鳥が落ちてきて あのお方は一笑なさる
明眸皓歯 いまいずくにかある
血にまみれた魂は まださまよいつづけている
渭水は清らかに東に流れ 剣閣の山は深く
行く人と留まる人 消息は彼我に乱れて届かない
人に情がある限り 胸に涙はあふれるが
曲江の水よ 岸辺の花よ 憶いに極みはないというのか
日が暮れて 胡騎が城内に塵を巻き上げ
城南に行こうと思いつつ 目は城北にさまよった
⊂ものがたり⊃ 杜甫は長安に軟禁されているといっても、城内での行動はかなり自由であったようです。春も盛りのころ、杜甫は曲江に行ってみます。「潜行す」と言っているので隠れて行ったのでしょう。曲江の数ある宮殿は門を閉ざしていますが、しだれ柳やかわ柳はいつものように新芽を出していました。
杜甫は江頭に佇みながら、玄宗と楊貴妃の遊宴の華やかであったころを回想します。楊貴妃の事件は起きたばかりですので、同時代に生きた杜甫が事件をどのように見ていたかがわかる貴重な作品です。
詩でみる限り、杜甫は楊貴妃の豪奢に批判の目を送っていますが、馬嵬での悲劇については同情の気持ちを持っていたようです。当時はまだ皇帝は特別な存在で、皇帝が追い詰められて愛妃に死を与えるということは、悲劇的なこととして受け止められていたようです。
結びの二句は、杜甫が詩のなかの長い思いから現実に立ち返っている姿が出ていて、とても印象的です。杜甫の居所は城内の南にあったらしく、家に帰ろうとするが、目は城北のほうをさまよったと詠っています。現実の杜甫の迷える姿が目に見えるような結びです。
城北は宮殿のある北であり、さらに城外の北には官軍がいます。宮殿には賊軍がたむろしていたでしょうし、城外の官軍には首都奪回の期待を寄せていたでしょう。目はその両方をさまようのです。なお、長安城内の南部は盛唐の時代でも家は少なく、農地や高官の別荘が点在していたようです。
悲陳陶 陳陶を悲しむ
孟冬十郡良家子 孟冬(もうとう) 十郡の良家(りょうか)の子(こ)
血作陳陶沢中水 血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作(な)る
野曠天清無戦声 野(の)曠(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し
四万義軍同日死 四万の義軍 同日に死す
群胡帰来血洗箭 群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭(や)を洗い
仍唱胡歌飲都市 仍(な)お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む
都人廻面向北啼 都人 面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き
日夜更望官軍至 日夜 更に官軍の至るを望む
⊂訳⊃
初冬の十月 十郡の良家の児らは
陳陶斜で戦い 沼沢は血の海となる
雄たけびの声は消え 野は虚しく空は澄み
四万の皇軍は その日のうちに全滅した
胡軍の兵は凱旋し 血の池で箭を洗い
胡歌を唱いつつ 長安の酒を飲む
都人は顔をそむけ 北に向かって泣きながら
官軍の来るのを いまかいまかと待ち望む
⊂ものがたり⊃ 杜甫が長安に軟禁されていた至徳元年(756)の八月ごろ、霊州の粛宗は事後承認のかたちで成都の玄宗を上皇天帝にまつりあげ、自分への譲位を求めます。その要請が成都に届くと玄宗はやむなく承認し、譲位の詔勅を起草して宰相の房琯(ぼうかん)を使者として粛宗のもとに届けさせました。
その間、粛宗は朔方郡に出陣していた朔方節度使郭子儀(かくしぎ)の軍を霊武に呼びもどし、霊州を出て東南に軍を進め、九月には順化(甘粛省慶陽県)に進出していました。房琯が粛宗のもとに着いたのは順化においてでした。粛宗は玄宗が上皇天帝になることを受け入れ、譲位の詔勅を送ってきたことを喜び、房琯をとどめて自分の政府の宰相に任じました。
粛宗の軍は南下して十月には彭原(甘粛省寧県)に到り、房琯に首都の奪還を命じます。房琯は十郡の兵六万余を率いて南下し、西から長安に迫ります。安禄山の軍との戦闘は十月二十一日に咸陽(長安の西北)の西の陳陶斜で行われ、政府軍は一日の戦闘で大敗してしまいました。
杜甫は長安にあって政府軍の勝利を期待していましたが、敗れたのを知って詩を作りました。戦場のようすは想像でしょうが、長安に凱旋してきた安禄山軍のようすは実際に見たものでしょう。
杜甫ー64
悲青坂 青坂を悲しむ
我軍青坂在東門 我れ青坂(せいはん)に軍(ぐん)して東に門在り
天寒飲馬太白窟 天寒くして馬に飲(みずか)う太白の窟(いわや)
黄頭奚児日向西 黄頭(こうとう)の奚児(けいじ) 日に西に向かう
数騎彎弓敢馳突 数騎 弓を彎(ひ)いて敢(あえ)て馳突(ちとつ)す
山雪河冰野蕭瑟 山雪 河冰(かひょう) 野に蕭瑟(しょうしつ)たり
青是烽煙白人骨 青(せい)は是れ烽煙(ほうえん) 白は人骨(じんこつ)
焉得付書与我軍 焉(いずくん)ぞ書を付して我が軍に与え
忍待明年莫倉卒 忍んで明年を待って倉卒(そうそつ)なる莫かれと言い得む
⊂訳⊃
わが軍は青坂に陣し 東に門に対している
寒空の下 太白の岩屋で馬に水を飲ませたのだ
黄色い頭巾の敵兵は 日に日に西へ寄せてくる
味方の数騎が 弓をひきしぼって突出する
山には雪 川には氷 野原に風は吹きすさび
青くたなびく烽火の煙 白いのは死者の骨だ
どうにかしてわが軍に書を届け
我慢して明年を待て あわてるなと言ってやりたい
⊂ものがたり⊃ 陳陶斜の敗戦は彼我の戦闘方法に違いがあったからだと思われます。幽州の兵はこれまで北の胡賊と戦い、胡の降兵を自軍に取り込んでいますので、騎兵を中心とした突撃力の高い兵でした。それに対して房琯は伝統的な兵法を重んずる指揮官で、兵車を並べ歩兵で進撃しようとします。賊将の安守忠(あんしゅちゅう)は風上から草に火を放って視界をさえぎり、官軍の混乱に乗じて騎馬で突撃してきたといいます。
敗れた房琯は敗兵を太白山(陝西省武功県)の麓に集めると、兵をととのえて二日後の十一月二十三日に青坂に陣を構えます。詩中の「東門」を咸陽の東門と解する説もありますが、官軍は西から攻めていますので、東向きに門に対して布陣したと解しました。「黄頭の奚児」というのは黄色の狐の皮のかぶり物で頭を包んだ胡族の兵で、門を出て西へ前進してきました。たまりかねた味方の兵数騎が胡兵の挑発に乗って突出し、またも大敗を喫してしまいます。
杜甫はここは忍耐して明年を待てと言ってやりたいがどうすることもできないと、官軍の二度もの敗戦に心を痛めます。
杜甫ー65
対雪 雪に対す
戦哭多新鬼 戦哭(せんこく) 新鬼(しんき)多く
愁吟独老翁 愁吟(しゅうぎん) 独り老翁
乱雲低薄暮 乱雲(らんうん) 薄暮(はくぼ)に低(た)れ
急雪舞廻風 急雪(きゅうせつ) 廻風(かいふう)に舞う
瓢棄樽無淥 瓢(ひょう)棄てられて 樽(たる)に淥(ろく)無く
炉存火似紅 炉(ろ)存して 火は紅(くれない)に似たり
数州消息断 数州 消息(しょうそく)断たれ
愁坐正書空 愁え坐して 正(まさ)に空(くう)に書す
⊂訳⊃
戦場で泣き叫ぶ声 それは戦死者の霊魂だ
詩を吟ずる声もある それはひとりの老翁だ
夕闇のなかで 乱雲は低くたれこめ
つむじ風のなか 雪は激しく舞っている
柄杓は打ち捨てられ 樽に酒はなく
煖炉に火はあっても ほんのりと赤い程度だ
幾つかの州の 消息は途絶え
愁えて坐し 虚空にひたすら字を書きつけている
⊂ものがたり⊃ この詩は陳陶斜・青坂の敗戦後ほどなく書かれたものと思われます。中四句を前後からはさむ形式の五言律詩で、はじめの二句で戦場の死者を悼み、自分は詩を吟ずるくらいしかできない老翁であると自分の無力を嘆きます。
中の四句は杜甫が坐している堂房から見える外の景色と室内のようすを描いていますが、わびしい無力感が色濃くただよっています。最後の二句で幾つかの州が賊の手に落ちたことをいい、「愁え坐して 正に空に書す」と言っていますが、これには故事があります。
晋末に殷浩(いんこう)という人が時の政事を愁えて、毎日空中に「咄咄怪事」の四文字を書いていたそうです。その意味は「ちくしょう おかしなことだ」といったつぶやきで、杜甫も同じような憤懣の文字を虚空に書きつけていると言っているのです。
杜甫ー66
春望 春望
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木(そうもく)深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火(ほうか) 三月(さんげつ)に連なり
家書抵万金 家書(かしょ) 万金(ばんきん)に抵(あた)る
白頭掻更短 白頭(はくとう) 掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
⊂訳⊃
国は破れて 山河は残り
春は廻って 城内に草木は茂る
時世を憂えて 花を見ても涙をながし
別離を恨んで 鳥の声にも心がいたむ
烽火は 三月にわたってやまず
家族の便りは 万金よりもとうとい
頭を掻けば 白髪はさらに抜け落ち
冠ももはや 留めておけなくなりそうだ
⊂ものがたり⊃ 戦局は官軍不利のまま冬が過ぎ、明けて至徳二年(757)の春になります。囚われの身にも春はかわりなくやってきますが、杜甫は城内にあって亡国の悲哀に沈んでいます。
五言律詩「春望」(しゅんぼう)は杜甫の詩のなかで、もっともよく知られた名作です。日本人の知っている漢詩の第一位が、この詩という統計もあるそうです。詩中の「簪」は冠(かんむり)をとめるピンのことで、冠は成人男子であることを示す被り物です。「渾て簪に勝えざらんと欲す」は心配で髪が薄くなり、冠も留めて置けなくなったと解されますが、裏の気持ちとしては、こんな国難の時に囚われの身では、冠をつけて人前に出ることもできなくなったという自責の念も含まれていると思われます。
杜甫ー67
遣興 興を遣る
驥子好男児 驥子(きし)は好男児
前年学語時 前年 語(ご)を学びし時
問知人客姓 人客(じんかく)の姓を問知(もんち)し
誦得老夫詩 老夫の詩を誦(しょう)し得たり
世乱憐渠小 世(よ)乱れて渠(かれ)が小なるを憐み
家貧仰母慈 家(いえ)貧にして母の慈しみを仰ぐ
鹿門携不遂 鹿門(ろくもん) 携うること遂げず
雁足繋難期 雁足(がんそく) 繋(か)くること期し難し
天地軍麾満 天地 軍麾(ぐんき)満ち
山河戦角悲 山河 戦角(せんかく)悲しむ
儻帰免相失 儻(も)し帰って相(あい)失うことを免るれば
見日敢辞遅 見る日 敢(あえ)て遅きを辞せんや
⊂訳⊃
宗武は かわいい男の子だ
去年は おしゃべりを始めるころだった
家にいる人の姓を尋ねたり
父親の詩を暗誦したりした
世が乱れて あの児が小さいのを哀れに思い
家が貧しく 母親の愛情だけが頼りであろう
お前たちを連れて 鹿門山に隠居することもできず
近況を 書信で伝えることもままならない
天地には 戦の旗が満ちあふれ
山河には 戦の角笛が悲しく響く
もしも私が帰りえて 再会できるならば
遅くなっても構わない あの児が無事でいてくれるなら
⊂ものがたり⊃ 杜甫は国のゆくすえを心配すると同時に、羌村に残したまま音信不通になっている家族のことも気になります。詩題の「遣興」というのは湧き出る思いを吐き出すという意味で、即興的な詩ですが感情がこもっています。
「驥子」というのは次男宗武の幼名で、このとき五歳でした。五歳で父親の詩を暗誦したりして賢いところのある次男に杜甫は注目しており、言葉を覚え始めるくらいの幼さで戦乱の世に遭遇した幼児に同情を寄せています。そして占領下、囚われの身では家族に便りを出すこともできないと嘆くのです。
杜甫ー68
哀江頭 江頭を哀しむ
少陵野老呑声哭 少陵(しょうりょう)の野老(やろう) 声を呑んで哭(こく)し
春日潜行曲江曲 春日(しゅんじつ) 潜行す 曲江(きょくこう)の曲(くま)
江頭宮殿鎖千門 江頭(こうとう)の宮殿 千門(せんもん)を鎖(とざ)し
細柳新蒲為誰緑 細柳(さいりゅう) 新蒲(しんぽ) 誰(た)が為に緑なる
憶昔霓旌下南苑 憶(おも)う昔 霓旌(げいせい)の南苑(なんえん)に下り
苑中万物生願色 苑中の万物(ばんぶつ) 顔色(がんしょく)を生ぜしを
昭陽殿裏第一人 昭陽殿裏(しょうようでんり) 第一の人
同輦随君侍君側 輦(れん)を同じくして君に随って君側(くんそく)に侍る
輦前才人帯弓箭 輦前(れんぜん)の才人 弓箭(きゅうせん)を帯(お)び
白馬嚼齧黄金勒 白馬 嚼齧(しゃくけつ)す 黄金の勒(くつわ)
翻身向天仰射雲 身を翻(ひるが)えし 天に向かって仰いで雲を射る
一笑正墜双飛翼 一笑 正(まさ)に墜(おと)す 双飛翼(そうひよく)
明眸皓歯今何在 明眸皓歯(めいぼうこうし) 今(いま)何(いずく)にか在る
血汙遊魂帰不得 血に汙(よご)れたる遊魂(ゆうこん) 帰り得ず
清渭東流剣閣深 清渭(せいい)は東流し 剣閣(けんかく)深し
去住彼此無消息 去住彼此(きょじゅうひし) 消息(しょうそく)無し
人生有情涙沾臆 人生 情(じょう)有り 涙 臆(むね)を沾(うるお)す
江水江花豈終極 江水江花(こうすいこうか) 豈に終(つい)に極まらんや
黄昏胡騎塵満城 黄昏(こうこん) 胡騎(こき) 塵 城に満つ
欲往城南望城北 城南に往(ゆ)かんと欲して 城北を望む
⊂訳⊃
少陵の野老(おやじ)は 声を殺して泣きながら
春の日に 曲江のほとりを忍んで歩く
岸辺の宮殿は あまたの門を鎖し
しだれ柳やかわ柳は 誰のために芽吹くのか
想えば昔 天子が芙蓉苑に御幸(みゆき)すると
苑中の万物は 喜びで顔を輝かせた
昭陽殿中 第一のお方は
鳳輦に席を同じくして 天子に侍る
輦輿に侍する官女らは 弓箭をたばさみ
白馬は黄金の勒をかんで先駆する
身をよじって天を仰ぎ 箭を雲に放つと
つがいの鳥が落ちてきて あのお方は一笑なさる
明眸皓歯 いまいずくにかある
血にまみれた魂は まださまよいつづけている
渭水は清らかに東に流れ 剣閣の山は深く
行く人と留まる人 消息は彼我に乱れて届かない
人に情がある限り 胸に涙はあふれるが
曲江の水よ 岸辺の花よ 憶いに極みはないというのか
日が暮れて 胡騎が城内に塵を巻き上げ
城南に行こうと思いつつ 目は城北にさまよった
⊂ものがたり⊃ 杜甫は長安に軟禁されているといっても、城内での行動はかなり自由であったようです。春も盛りのころ、杜甫は曲江に行ってみます。「潜行す」と言っているので隠れて行ったのでしょう。曲江の数ある宮殿は門を閉ざしていますが、しだれ柳やかわ柳はいつものように新芽を出していました。
杜甫は江頭に佇みながら、玄宗と楊貴妃の遊宴の華やかであったころを回想します。楊貴妃の事件は起きたばかりですので、同時代に生きた杜甫が事件をどのように見ていたかがわかる貴重な作品です。
詩でみる限り、杜甫は楊貴妃の豪奢に批判の目を送っていますが、馬嵬での悲劇については同情の気持ちを持っていたようです。当時はまだ皇帝は特別な存在で、皇帝が追い詰められて愛妃に死を与えるということは、悲劇的なこととして受け止められていたようです。
結びの二句は、杜甫が詩のなかの長い思いから現実に立ち返っている姿が出ていて、とても印象的です。杜甫の居所は城内の南にあったらしく、家に帰ろうとするが、目は城北のほうをさまよったと詠っています。現実の杜甫の迷える姿が目に見えるような結びです。
城北は宮殿のある北であり、さらに城外の北には官軍がいます。宮殿には賊軍がたむろしていたでしょうし、城外の官軍には首都奪回の期待を寄せていたでしょう。目はその両方をさまようのです。なお、長安城内の南部は盛唐の時代でも家は少なく、農地や高官の別荘が点在していたようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます