李白181
流夜郎贈辛判官 夜郎に流され辛判官に贈る
昔在長安酔花柳 昔 長安に在りて花柳(かりゅう)に酔う
五侯七貴同杯酒 五侯 七貴(しちき) 杯酒(はいしゅ)を同じうす
気岸遥凌豪士前 気岸(きがん) 遥かに凌(しの)ぐ豪士(ごうし)の前
風流肯落他人後 風流 肯(あえ)て落ちんや 他人の後(あと)
夫子紅顔我少年 夫子(ふうし)は紅顔(こうがん) 我は少年
章台走馬著金鞭 章台に馬を走らせて金鞭(きんべん)を著(つ)く
文章献納麒麟殿 文章 献納(けんのう)す 麒麟殿(きりんでん)
歌舞淹留玳瑁筵 歌舞 淹留(えんりゅう)す 玳瑁筵(たいまいえん)
与君自謂長如此 君と与(とも)に自ら謂(おも)えらく 長えに此の如しと
寧知草動風塵起 寧(なん)ぞ知らん 草動いて風塵(ふうじん)の起こるを
函谷忽驚胡馬来 函谷(かんこく) 忽ち驚く 胡馬(こば)の来たるを
秦宮桃梨向胡開 秦宮(しんきゅう)の桃梨(とうり) 胡に向かって開く
我愁遠謫夜郎去 我は愁う 遠く謫(たく)せられて夜郎(やろう)に去るを
何日金鶏放赦廻 何れの日か 金鶏 放赦(ほうしゃ)して廻(かえ)らん
⊂訳⊃
昔 長安の都にいたころは 花や柳と酔いしれて
高貴な人々と対等に 酒を酌み交わす
気位の高さでは 豪快な人々を遥かに凌ぎ
風流を解する事では 他にひけは取らない
あなたは紅顔の若者 私もまだ若く
色街に馬を走らせ 黄金の鞭を鳴らした
文章を作っては 麒麟殿に献上し
豪華な宴席に列して 歌舞に飽きない
いつまでも 楽しい日がつづくと思っていたのに
ある日突然 草は揺れ風塵が巻き起こる
潼関の固い守りは 胡馬の襲来に驚き
宮廷の桃梨の花も 胡人のために花ひらく
流されて 遠く夜郎にゆく身を私は悲しむ
いつになったら恩赦となり 放免されて帰るのだろうか
⊂ものがたり⊃ 李白は尋陽の獄につながれ、いまは流刑に処せられる身ですが、多くの地元の官人に慕われていました。出発に際しては長江に臨む凌烟楼(りょうえんろう)で盛大な送別の宴が催されました。詩を贈られた辛判官(しんはんがん)は見送った役人のひとりです。「判官」は節度使などの使職の幕僚をいう一般的な呼称ですが、辛判官は李白の長安時代の遊び仲間であったらしく、特別に詩を贈られたようです。
はじめの八句では長安で大いに遊び、かつ仕事もしたことを懐かしんでいます。「章台」(しょうだい)は本来、宮殿の名前ですが、宮殿の近くに色街があったので、色街を雅して章台と呼ぶようになったものと言われています。
後半の六句では、長安での華やかな生活がいつまでもつづくと思っていたのに、予想もしなかった安禄山の乱が起き、自分は夜郎に流謫される身になったと、李白はそのことを悲しみます。そして、期待するのは恩赦になって放免されることです。
「金鶏」(きんけい)というのは恩赦を告げる使者が持っていた杖の頭飾りのことで、金色の鶏が赤い幟を口にくわえていたといいます。そのことから金鶏といえば恩赦の使者を意味するようになったのです。なお、「秦宮の桃梨 胡に向かって開く」というのは唐の宮廷の宮女たちが胡兵のために自由にされていることを指していると解されています。
李白ー183
流夜郎永華寺 夜郎に流され 永華寺にて
寄尋陽群官 尋陽の群官に寄す
朝別凌烟楼 朝(あした)に凌烟楼(りょうえんろう)に別れ
賢豪満行舟 賢豪(けんごう) 行舟(こうしゅう)に満つ
暝投永華寺 暝(くれ)に永華寺(えいかじ)に投じ
賓散余独酔 賓(ひん)は散じて余(よ)独り酔う
願結九江流 願わくは九江(きゅうこう)の流れを結び
添成万行涙 添えて 万行(ばんこう)の涙と成(な)し
写意寄廬岳 意(い)を写して廬岳(ろがく)に寄せん
何当来此地 何(いつ)か当(まさ)に此の地に来たるべきと
天命有所懸 天命は懸(かか)る所に有り
安得苦愁思 安(いずく)んぞ苦しんで愁思(しゅうし)せん
⊂訳⊃
朝に凌烟楼で別れ 出で立つときは
見送りの諸賢が 舟に満ちていた
日暮れに 永華寺に宿をとると
人々は去って ひとりで酒を飲んでいる
できたら 九江の流れを掬い取って
万行の詩句に添える涙とし
こころを写して廬山の霊に捧げよう
いつまた 帰って来れるであろうかと
しかし 天命には定めがあり
いまさら くよくよしても仕方がない
⊂ものがたり⊃ 尋陽の凌烟楼での宴後、人々は舟をつらねて李白を永華寺まで見送りました。永華寺の所在は不明ですが、舟で一日行程のところでしょう。尋陽から上流へ出てゆく人を、そこまで見送るのが当時の習慣であったと思われます。
人々が別れをい告げて去ってゆくと、急に周辺が淋しくなり、李白はひとりで酒を飲みながら、見送りの人々への謝礼の詩を書きます。「安んぞ苦しんで愁思せん」と結んでいますが、関心はいつまたここにもどってこれるかということでした。
李白ー184
南流夜郎寄内 南のかた夜郎に流されて内に寄す
夜郎天外怨離居 夜郎の天外 離居(りきょ)を怨み
明月楼中音信疎 明月の楼中 音信(おんしん)疎(そ)なり
北雁春帰看欲尽 北雁 春に帰って看々(みすみす)尽きんと欲す
南来不得豫章書 南来に得ず 豫章(よしょう)の書
⊂訳⊃
夜郎は天の彼方 離れ住むのが怨めしい
明月の高楼から 便りは久しくとだえている
北へ帰る雁も やがて見られなくなるというのに
南へ向かう日々 豫章からの書は届かない
⊂ものがたり⊃ 尋陽を発って夜郎へ向かう李白の足取りは、作られた詩の時期や場所をたどっていくと、極めてゆっくりしたものであったことがわかります。西塞駅(せいさいえき)は鄂城(湖北省鄂城市)の東40kmほどのところにあり、尋陽からだと110kmほどのところです。この宿駅には晩春のころ滞在しており、尋陽を出てから二か月以上をかけて移動していることになります。
詩は李白が豫章の「内」(妻)に送ったもので、詩の内容から晩春のころの作と推定され、西塞駅から送ったものと思われます。詩中の「明月の楼中」は夫と離れて暮らす女性の居所をいうときの慣用句ですので、妻からの音信が疎であることを歎いていることになります。
李白ー185
与史郎中欽聴 史郎中欽と黄鶴楼上に
黄鶴楼上吹笛 笛を吹くを聴く
一為遷客去長沙 一たび遷客(せんかく)と為(な)りて長沙に去る
西望長安不見家 西のかた長安を望めども家を見ず
黄鶴楼中吹玉笛 黄鶴楼中 玉笛(ぎょくてき)を吹けば
江城五月落梅花 江城(こうじょう) 五月 梅花(ばいか)落つ
⊂訳⊃
ひとたび配流の身となって長沙へ旅立つ
西に長安を望むが わが家は見えない
黄鶴楼上に鳴る笛は 梅花落の曲
五月というのに 江城に梅花が散るようだ
⊂ものがたり⊃ 李白は江夏(武漢市武昌区)、つまり鄂州城(がくしゅうじょう)には五月になってから着いたようです。西塞駅から江夏までの長江は大きく蛇行していますので、実質100kmほどでしょう。鄂州は李白曾遊の地ですので知友も多く、名所の黄鶴楼(こうかくろう)で郎中(ろうちゅう)の史欽(しきん)と遊んだ詩などが残されています。詩の起句に「遷客と為りて長沙に去る」とありますが、長沙(ちょうさ)は漢の賈誼(かぎ)が左遷された地で、自分の夜郎流謫を賈誼の長沙左遷になぞらえて言っているものです。
流夜郎贈辛判官 夜郎に流され辛判官に贈る
昔在長安酔花柳 昔 長安に在りて花柳(かりゅう)に酔う
五侯七貴同杯酒 五侯 七貴(しちき) 杯酒(はいしゅ)を同じうす
気岸遥凌豪士前 気岸(きがん) 遥かに凌(しの)ぐ豪士(ごうし)の前
風流肯落他人後 風流 肯(あえ)て落ちんや 他人の後(あと)
夫子紅顔我少年 夫子(ふうし)は紅顔(こうがん) 我は少年
章台走馬著金鞭 章台に馬を走らせて金鞭(きんべん)を著(つ)く
文章献納麒麟殿 文章 献納(けんのう)す 麒麟殿(きりんでん)
歌舞淹留玳瑁筵 歌舞 淹留(えんりゅう)す 玳瑁筵(たいまいえん)
与君自謂長如此 君と与(とも)に自ら謂(おも)えらく 長えに此の如しと
寧知草動風塵起 寧(なん)ぞ知らん 草動いて風塵(ふうじん)の起こるを
函谷忽驚胡馬来 函谷(かんこく) 忽ち驚く 胡馬(こば)の来たるを
秦宮桃梨向胡開 秦宮(しんきゅう)の桃梨(とうり) 胡に向かって開く
我愁遠謫夜郎去 我は愁う 遠く謫(たく)せられて夜郎(やろう)に去るを
何日金鶏放赦廻 何れの日か 金鶏 放赦(ほうしゃ)して廻(かえ)らん
⊂訳⊃
昔 長安の都にいたころは 花や柳と酔いしれて
高貴な人々と対等に 酒を酌み交わす
気位の高さでは 豪快な人々を遥かに凌ぎ
風流を解する事では 他にひけは取らない
あなたは紅顔の若者 私もまだ若く
色街に馬を走らせ 黄金の鞭を鳴らした
文章を作っては 麒麟殿に献上し
豪華な宴席に列して 歌舞に飽きない
いつまでも 楽しい日がつづくと思っていたのに
ある日突然 草は揺れ風塵が巻き起こる
潼関の固い守りは 胡馬の襲来に驚き
宮廷の桃梨の花も 胡人のために花ひらく
流されて 遠く夜郎にゆく身を私は悲しむ
いつになったら恩赦となり 放免されて帰るのだろうか
⊂ものがたり⊃ 李白は尋陽の獄につながれ、いまは流刑に処せられる身ですが、多くの地元の官人に慕われていました。出発に際しては長江に臨む凌烟楼(りょうえんろう)で盛大な送別の宴が催されました。詩を贈られた辛判官(しんはんがん)は見送った役人のひとりです。「判官」は節度使などの使職の幕僚をいう一般的な呼称ですが、辛判官は李白の長安時代の遊び仲間であったらしく、特別に詩を贈られたようです。
はじめの八句では長安で大いに遊び、かつ仕事もしたことを懐かしんでいます。「章台」(しょうだい)は本来、宮殿の名前ですが、宮殿の近くに色街があったので、色街を雅して章台と呼ぶようになったものと言われています。
後半の六句では、長安での華やかな生活がいつまでもつづくと思っていたのに、予想もしなかった安禄山の乱が起き、自分は夜郎に流謫される身になったと、李白はそのことを悲しみます。そして、期待するのは恩赦になって放免されることです。
「金鶏」(きんけい)というのは恩赦を告げる使者が持っていた杖の頭飾りのことで、金色の鶏が赤い幟を口にくわえていたといいます。そのことから金鶏といえば恩赦の使者を意味するようになったのです。なお、「秦宮の桃梨 胡に向かって開く」というのは唐の宮廷の宮女たちが胡兵のために自由にされていることを指していると解されています。
李白ー183
流夜郎永華寺 夜郎に流され 永華寺にて
寄尋陽群官 尋陽の群官に寄す
朝別凌烟楼 朝(あした)に凌烟楼(りょうえんろう)に別れ
賢豪満行舟 賢豪(けんごう) 行舟(こうしゅう)に満つ
暝投永華寺 暝(くれ)に永華寺(えいかじ)に投じ
賓散余独酔 賓(ひん)は散じて余(よ)独り酔う
願結九江流 願わくは九江(きゅうこう)の流れを結び
添成万行涙 添えて 万行(ばんこう)の涙と成(な)し
写意寄廬岳 意(い)を写して廬岳(ろがく)に寄せん
何当来此地 何(いつ)か当(まさ)に此の地に来たるべきと
天命有所懸 天命は懸(かか)る所に有り
安得苦愁思 安(いずく)んぞ苦しんで愁思(しゅうし)せん
⊂訳⊃
朝に凌烟楼で別れ 出で立つときは
見送りの諸賢が 舟に満ちていた
日暮れに 永華寺に宿をとると
人々は去って ひとりで酒を飲んでいる
できたら 九江の流れを掬い取って
万行の詩句に添える涙とし
こころを写して廬山の霊に捧げよう
いつまた 帰って来れるであろうかと
しかし 天命には定めがあり
いまさら くよくよしても仕方がない
⊂ものがたり⊃ 尋陽の凌烟楼での宴後、人々は舟をつらねて李白を永華寺まで見送りました。永華寺の所在は不明ですが、舟で一日行程のところでしょう。尋陽から上流へ出てゆく人を、そこまで見送るのが当時の習慣であったと思われます。
人々が別れをい告げて去ってゆくと、急に周辺が淋しくなり、李白はひとりで酒を飲みながら、見送りの人々への謝礼の詩を書きます。「安んぞ苦しんで愁思せん」と結んでいますが、関心はいつまたここにもどってこれるかということでした。
李白ー184
南流夜郎寄内 南のかた夜郎に流されて内に寄す
夜郎天外怨離居 夜郎の天外 離居(りきょ)を怨み
明月楼中音信疎 明月の楼中 音信(おんしん)疎(そ)なり
北雁春帰看欲尽 北雁 春に帰って看々(みすみす)尽きんと欲す
南来不得豫章書 南来に得ず 豫章(よしょう)の書
⊂訳⊃
夜郎は天の彼方 離れ住むのが怨めしい
明月の高楼から 便りは久しくとだえている
北へ帰る雁も やがて見られなくなるというのに
南へ向かう日々 豫章からの書は届かない
⊂ものがたり⊃ 尋陽を発って夜郎へ向かう李白の足取りは、作られた詩の時期や場所をたどっていくと、極めてゆっくりしたものであったことがわかります。西塞駅(せいさいえき)は鄂城(湖北省鄂城市)の東40kmほどのところにあり、尋陽からだと110kmほどのところです。この宿駅には晩春のころ滞在しており、尋陽を出てから二か月以上をかけて移動していることになります。
詩は李白が豫章の「内」(妻)に送ったもので、詩の内容から晩春のころの作と推定され、西塞駅から送ったものと思われます。詩中の「明月の楼中」は夫と離れて暮らす女性の居所をいうときの慣用句ですので、妻からの音信が疎であることを歎いていることになります。
李白ー185
与史郎中欽聴 史郎中欽と黄鶴楼上に
黄鶴楼上吹笛 笛を吹くを聴く
一為遷客去長沙 一たび遷客(せんかく)と為(な)りて長沙に去る
西望長安不見家 西のかた長安を望めども家を見ず
黄鶴楼中吹玉笛 黄鶴楼中 玉笛(ぎょくてき)を吹けば
江城五月落梅花 江城(こうじょう) 五月 梅花(ばいか)落つ
⊂訳⊃
ひとたび配流の身となって長沙へ旅立つ
西に長安を望むが わが家は見えない
黄鶴楼上に鳴る笛は 梅花落の曲
五月というのに 江城に梅花が散るようだ
⊂ものがたり⊃ 李白は江夏(武漢市武昌区)、つまり鄂州城(がくしゅうじょう)には五月になってから着いたようです。西塞駅から江夏までの長江は大きく蛇行していますので、実質100kmほどでしょう。鄂州は李白曾遊の地ですので知友も多く、名所の黄鶴楼(こうかくろう)で郎中(ろうちゅう)の史欽(しきん)と遊んだ詩などが残されています。詩の起句に「遷客と為りて長沙に去る」とありますが、長沙(ちょうさ)は漢の賈誼(かぎ)が左遷された地で、自分の夜郎流謫を賈誼の長沙左遷になぞらえて言っているものです。
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