李白ー92
秋猟孟諸夜帰置酒 秋 孟諸に猟し 夜帰りて単父の
単父東楼観妓 東楼に置酒して妓を観る
傾暉速短炬 傾暉(けいき)は短炬(たんきょ)よりも速(すみや)か
走海無停川 走海(そうかい) 停川(ていせん)無し
冀餐円邱草 冀(こいねが)わくは円邱(えんきゅう)の草を餐(くら)って
欲以還頽年 以て頽年(たいねん)を還(かえ)さんと欲す
此事不可得 此の事 得(う)可からず
微生若浮烟 微生(びせい)は浮烟(ふえん)の若(ごと)し
駿発跨名駒 駿発(しゅんはつ)して名駒(めいく)に跨(またが)り
雕弓控鳴弦 雕弓(しゅうきゅう)鳴弦(めいげん)を控(ひか)う
鷹豪魯草白 鷹(よう)は豪(ごう)にして魯草(ろそう)白く
狐兎多肥鮮 狐兎(こと) 肥鮮(ひせん)多し
邀遮相馳逐 邀遮(ようしゃ)して相(あい)馳逐(ちちく)し
遂出城東田 遂に城東(じょうとう)の田(でん)に出づ
一掃四野空 一掃して四野(しや)空(むな)しく
喧呼鞍馬前 喧呼(けんこ)す 鞍馬(あんば)の前(まえ)
帰来献所獲 帰り来たって獲(と)る所を献じ
炮炙宜霜天 炮炙(ほうしゃ) 霜天(そうてん)に宜(よろ)し
出舞両美人 出でて舞う両美人(りょうびじん)
飄颻若雲仙 飄颻(ひょうよう)として雲仙(うんせん)の若(ごと)し
留歓不知疲 留歓(りゅうかん)して疲れを知らず
清暁方来旋 清暁(せいぎょう) 方(まさ)に来旋(らいせん)す
⊂訳⊃
傾く夕陽は 燃えつきる炬火(たいまつ)よりも速く沈み
流れる川は 海へ向かって止まるを知らない
できれば 円邱の不老不死の草を食べ
老いる身を もとの若さにもどしたいものだ
だが そんなことは不可能である
人の一生は 流れる煙のようにはかない
だから 速やかに立って名馬にまたがり
飾り弓を引き絞って矢を放つ
鷹は猛々しく 草は白く枯れ
狐や兎は 肥えて元気がよい
勢子は 囲い込んで追い立て
城の東の狩り場に出る
野原の獲物を取りつくし
馬を降りて勝鬨の声を挙げる
城にもどって 獲物を差し出し
丸焼や串焼 寒さにむいた料理にする
やがて二人の美人が現れ 舞を舞う
軽やかな姿は 雲の中の仙人のようだ
疲れを忘れて楽しみ 居つづけて
ようやく 明け方になって家路についた
⊂ものがたり⊃ 李白は都から東へ向かう途中、洛陽にとどまります。洛陽は李白曾遊の地であり、今回は都で名を挙げた有名詩人としての滞在ですので、歓迎する貴顕は多かったでしょう。そんな四月のある日、杜子美(としび)と名乗る詩人が訪ねてきます。子美は杜甫の字(あざな)です。杜甫は李白よりも十一歳若く、このとき三十三歳でした。二十四歳のときに一度貢挙の試験を受けましたが及第せず、このころは洛陽の郊外に住んで勉強をしていました。
杜甫は洛陽ではいくらか名を知られた詩人でしたが、李白からみれば地方の無名詩人に過ぎません。詩名を慕ってきた若い詩人に、李白が抱負を語って聞かせたことは充分に考えられることです。杜甫は李白の強烈な個性に惹かれて、いっしょに旅をしたいと申し出ますが、おりあしく五月に杜甫の祖母(祖父杜審言の継室)が亡くなりましたので、秋になったら訪ねていく約束をして別れます。
秋八月になって杜甫は李白を追って東へ旅立ち、宋州(河南省商丘市)で李白と再会しました。宋州は李白曾遊の地であり、州治のある宋城の王県令の招待を受けて滞在していたようです。そのころ近くを旅していた高適(こうせき)も加わって、三人は宋州の酒場に出入りして文学を語り、宋州の名所旧跡を訪ねたりして、おおいに親交を深めます。
宋城の東北には孟諸沢(もうしょたく)という沼沢が広がっていましたが、そこは絶好の狩り場です。三人は秋の終わりから冬の初めにかけて孟諸沢の周辺で狩りをし、狩りが終わると孟諸沢の東北にあった単父(山東省単県)という街の東楼に上って酒宴に興じました。詩はそのときのものと考えられ、まず前半の八句では李白らしく狩りへ向かう理由を人生観と結びつけて詠っています。
つづく六句は狩りのようすです。馬に乗って鷹狩りをしたり、勢子(せこ)に獲物を追わせて囲いこみ弓矢で射たり、かなり大がかりな狩りをしたようです。獲物は妓楼に持ち込んで料理をしてもらい、それを肴に宴会を開きます。宴会には妓女も二人ほど呼んで、軽やかに舞を舞います。夜通し酒を飲んで明け方に家(といっても臨時の宿)に帰るありさまです。
李白ー94
上李邕 李邕に上る
大鵬一日同風起 大鵬(たいほう) 一日 風と同(とも)に起こり
扶揺直上九万里 扶揺(ふよう) 直ちに上る九万里
仮令風歇時下来 仮令(たとえ) 風歇(や)みて時に下り来るも
猶能簸却滄溟水 猶お能(よ)く 滄溟(そうめい)の水を簸却(はきゃく)す
時人見我恒殊調 時人(じじん) 我の恒に調(しらべ)を殊にするを見
聞余大言皆冷笑 余の大言(たいげん)を聞きて皆(ことごと)く冷笑す
宣父猶能畏后生 宣父(せんぷ)も猶お能く后生(こうせい)を畏(おそ)る
丈夫未可軽年少 丈夫(じょうふ) 未だ年少を軽んず可からず
⊂訳⊃
大鵬はある日 風と共に飛び立ち
旋風のように上昇して 九万里を飛ぶ
例え風がやみ ときに舞い降りたとしても
なおよく 大海の水を揺することができる
世の人は 私が並はずれているのを見て
大きな志を述べても 冷笑して取り合わない
孔子も「若者は畏るべし」と申された
年少だからといって 軽く扱わないでほしい
⊂ものがたり⊃ 孟諸沢での狩りの季節も過ぎると、高適はいったん二人と別れ、李白と杜甫は斉州(山東省済南市)に行くことになりました。その途中に任城(山東省清寧市)という街がありますが、李白はこの地に家のほか若干の田地を所有していました。その土地と家は、多分、玄宗からの御下賜金の一部で購入したものでしょう。
李白は任城に「魯の一婦人」という女性を置いており、この女性は李白の三人目の妻にまりますが、正式の結婚ではなく小婦(妾)でした。李白と杜甫は任城の家に立ち寄ってから斉州に行ったと思われますが、斉州に着くと李白は道士になる修行をはじめます。修行して道籙(どうろく)を受けるわけですが、これには大枚の謝礼を必要としたようです。その金も玄宗の御下賜金で賄われたのでしょう。
杜甫は道士になる気はありませんので、そのころ斉州の司馬として赴任してきていた李之芳(りしほう)のもとに身を寄せます。李之芳は太宗の玄孫にあたりますので宗室の一員です。州司馬のような微職に就く身分ではありませんが、なにかの事情で地方勤務になっていたのでしょう。李之芳のもとにいたとき、たまたま隣の青州(山東省益都県)の刺史李邕(りよう)が訪ねてきて、杜甫はこの著名な老文学者と知り合いになります。
道士になった李白は任城の「魯の一婦人」のもとにもどって冬から翌天宝四載(745)の春を過ごしていましたが、夏のはじめに杜甫が斉州から訪ねてきて、二人は連れ立って任城一帯で遊びます。それから青州に李邕を訪ねますが、そのとき李白が李邕に献じた詩が「上李邕」と思われます。
李邕は『文選』に注をほどこした李善(りぜん)の子で、文と書にすぐれた大家でした。このとき六十二、三歳であったと思われますが、左遷されて青州(北海郡)の太守になっていたのです。李白はこの大家に自分を『荘子』逍遥游篇の鵬に比してみせ、若いからといって軽く扱わないでほしいと言っています。大家の李邕に反発している感じです。連れて行った杜甫は困ったと思います。
李白ー95
魯郡東石門送杜二甫 魯郡の東 石門にて杜二甫を送る
酔別復幾日 酔別(すいべつ) 復(ま)た幾日(いくにち)ぞ
登臨徧池台 登臨(とうりん) 池台(ちだい)に徧(あまね)し
何言石門路 何ぞ言わん 石門(せきもん)の路(みち)
重有金樽開 重ねて金樽(きんそん)の開く有らんと
秋波落泗水 秋波(しゅうは) 泗水(しすい)に落ち
海色明徂徠 海色(かいしょく) 徂徠(そらい)に明かなり
飛蓬各自遠 飛蓬(ひほう) 各自(かくじ)遠し
且尽林中盃 且(しばら)く林中(りんちゅう)の盃(はい)を尽くさん
⊂訳⊃
別れの酒で 幾日になるであろうか
山に登り 苑池楼台もめぐりつくした
いつの日か この石門の路で
酒樽をあけ 再び飲み明かす時が来るであろうか
秋になれば 泗水の水かさは減り
海は 徂徠山の彼方で照り映えている
やがて二人は 飛蓬のように別れて遠ざかるであろう
さあもう一杯 この林中で飲みつくそうではないか
⊂ものがたり⊃ 李邕を訪ねたあと、李白は任城にもどり、杜甫は斉州にとどまっていますが、秋になると杜甫は任城に李白を訪ねて、しばらく一緒に過ごします。李白に連れられて魯郡の東の蒙山(もうざん)に董(とう)錬士を訪ねたり、魯城の北郭に住む范(はん)隠士と交流したりして、杜甫はこの時期、いくらか道教や隠士の生活に触れたようです。しかし、深入りはしませんでした。
このころ杜甫の父親は奉天(陝西省乾県)の県令になっていて、杜甫は父杜閑から長安に出てくるように促されていたようです。二度の秋を一緒に過ごした李白と杜甫に別れのときが迫っていました。二人は魯郡曲阜(山東省曲阜県)の東北にある石門山の麓で別れの杯をかわします。
李白の詩だけが残されていますが、杜甫も詩を作ったはずです。しかし、杜甫の詩は失われています。李白は杜甫の未来を祝福して、「海色 徂徠に明かなり」と詠います。海は見えないのですが、徂徠山の向こうで輝いているというのです。李白も杜甫も再会を期待したと思いますが、二人に二度と会う機会は訪れませんでした。
李白ー96
沙邱城下寄杜甫 沙邱城下 杜甫に寄す
我来竟何事 我(われ)来(きた)る 竟(つい)に何事ぞ
高臥沙邱城 高臥(こうが)す 沙邱城(さきゅうじょう)
城辺有古樹 城辺(じょうへん) 古樹有り
日夕連秋声 日夕(にっせき) 秋声(しゅうせい)を連(つら)ぬ
魯酒不可酔 魯酒(ろしゅ) 酔う可からず
斉歌空復情 斉歌(せいか) 空しく情を復(かさ)ぬ
思君若汶水 君を思うこと汶水(ぶんすい)の若(ごと)く
浩蕩寄南征 浩蕩(こうとう)として南征に寄(よ)す
⊂訳⊃
私がここへ来たのは 何のためであったのか
沙邱の城で ただ寝ているだけである
城壁のほとりに 古い樹があり
朝から晩まで 秋風に鳴っている
魯の酒は 薄くて酔えず
斉の歌は 心をゆるがすものがない
君を思えば 汶水の流れのように
広々と心は溢れ 南への思いがつのる
⊂ものがたり⊃ 李白は杜甫を見送ると、秋から冬にかけて魯郡の南に知友を訪ね、金郷(山東省金郷県)や単父(ぜんふ)の街で過ごしています。このころ李白は南陵の鄭氏に預けていた長女平陽と長男伯禽(はくきん)を東魯に引き取ったのではないかと思われます。李白自身が南陵に出かけたようすはありませんので、人を頼んで連れてきてもらったのでしょう。長安を辞したあと東魯にとどまって南陵にもどってこない李白に、鄭氏があいそをつかしたのかもしれません。
このころ李白には「魯の一婦人」とのあいだに次男頗黎(はれい)が生まれていますので、さすがの李白も江南の鄭氏までは手がまわりかねたのでしょう。天宝五載(746)の春、李白は病気になり、任城(にんじょう)の「魯の一婦人」のもとで秋まで療養をしていました。秋になって疾が癒えると、長安にいる杜甫に詩を送っています。このころ杜甫は都で官職を求めて活動をはじめていましたので、李白もじっとして居れない気持ちになっていたようです。
道士になってはみたものの、それですぐさま出世の機会がつかめるものでもなく、李白は空虚な気持になっていました。それを満たすのは旅しかありません。李白には春のころから「南征」(江南への遍歴)への思いがきざしていましたが、病気をしたためにそれが延び延びになっていたのです。
秋猟孟諸夜帰置酒 秋 孟諸に猟し 夜帰りて単父の
単父東楼観妓 東楼に置酒して妓を観る
傾暉速短炬 傾暉(けいき)は短炬(たんきょ)よりも速(すみや)か
走海無停川 走海(そうかい) 停川(ていせん)無し
冀餐円邱草 冀(こいねが)わくは円邱(えんきゅう)の草を餐(くら)って
欲以還頽年 以て頽年(たいねん)を還(かえ)さんと欲す
此事不可得 此の事 得(う)可からず
微生若浮烟 微生(びせい)は浮烟(ふえん)の若(ごと)し
駿発跨名駒 駿発(しゅんはつ)して名駒(めいく)に跨(またが)り
雕弓控鳴弦 雕弓(しゅうきゅう)鳴弦(めいげん)を控(ひか)う
鷹豪魯草白 鷹(よう)は豪(ごう)にして魯草(ろそう)白く
狐兎多肥鮮 狐兎(こと) 肥鮮(ひせん)多し
邀遮相馳逐 邀遮(ようしゃ)して相(あい)馳逐(ちちく)し
遂出城東田 遂に城東(じょうとう)の田(でん)に出づ
一掃四野空 一掃して四野(しや)空(むな)しく
喧呼鞍馬前 喧呼(けんこ)す 鞍馬(あんば)の前(まえ)
帰来献所獲 帰り来たって獲(と)る所を献じ
炮炙宜霜天 炮炙(ほうしゃ) 霜天(そうてん)に宜(よろ)し
出舞両美人 出でて舞う両美人(りょうびじん)
飄颻若雲仙 飄颻(ひょうよう)として雲仙(うんせん)の若(ごと)し
留歓不知疲 留歓(りゅうかん)して疲れを知らず
清暁方来旋 清暁(せいぎょう) 方(まさ)に来旋(らいせん)す
⊂訳⊃
傾く夕陽は 燃えつきる炬火(たいまつ)よりも速く沈み
流れる川は 海へ向かって止まるを知らない
できれば 円邱の不老不死の草を食べ
老いる身を もとの若さにもどしたいものだ
だが そんなことは不可能である
人の一生は 流れる煙のようにはかない
だから 速やかに立って名馬にまたがり
飾り弓を引き絞って矢を放つ
鷹は猛々しく 草は白く枯れ
狐や兎は 肥えて元気がよい
勢子は 囲い込んで追い立て
城の東の狩り場に出る
野原の獲物を取りつくし
馬を降りて勝鬨の声を挙げる
城にもどって 獲物を差し出し
丸焼や串焼 寒さにむいた料理にする
やがて二人の美人が現れ 舞を舞う
軽やかな姿は 雲の中の仙人のようだ
疲れを忘れて楽しみ 居つづけて
ようやく 明け方になって家路についた
⊂ものがたり⊃ 李白は都から東へ向かう途中、洛陽にとどまります。洛陽は李白曾遊の地であり、今回は都で名を挙げた有名詩人としての滞在ですので、歓迎する貴顕は多かったでしょう。そんな四月のある日、杜子美(としび)と名乗る詩人が訪ねてきます。子美は杜甫の字(あざな)です。杜甫は李白よりも十一歳若く、このとき三十三歳でした。二十四歳のときに一度貢挙の試験を受けましたが及第せず、このころは洛陽の郊外に住んで勉強をしていました。
杜甫は洛陽ではいくらか名を知られた詩人でしたが、李白からみれば地方の無名詩人に過ぎません。詩名を慕ってきた若い詩人に、李白が抱負を語って聞かせたことは充分に考えられることです。杜甫は李白の強烈な個性に惹かれて、いっしょに旅をしたいと申し出ますが、おりあしく五月に杜甫の祖母(祖父杜審言の継室)が亡くなりましたので、秋になったら訪ねていく約束をして別れます。
秋八月になって杜甫は李白を追って東へ旅立ち、宋州(河南省商丘市)で李白と再会しました。宋州は李白曾遊の地であり、州治のある宋城の王県令の招待を受けて滞在していたようです。そのころ近くを旅していた高適(こうせき)も加わって、三人は宋州の酒場に出入りして文学を語り、宋州の名所旧跡を訪ねたりして、おおいに親交を深めます。
宋城の東北には孟諸沢(もうしょたく)という沼沢が広がっていましたが、そこは絶好の狩り場です。三人は秋の終わりから冬の初めにかけて孟諸沢の周辺で狩りをし、狩りが終わると孟諸沢の東北にあった単父(山東省単県)という街の東楼に上って酒宴に興じました。詩はそのときのものと考えられ、まず前半の八句では李白らしく狩りへ向かう理由を人生観と結びつけて詠っています。
つづく六句は狩りのようすです。馬に乗って鷹狩りをしたり、勢子(せこ)に獲物を追わせて囲いこみ弓矢で射たり、かなり大がかりな狩りをしたようです。獲物は妓楼に持ち込んで料理をしてもらい、それを肴に宴会を開きます。宴会には妓女も二人ほど呼んで、軽やかに舞を舞います。夜通し酒を飲んで明け方に家(といっても臨時の宿)に帰るありさまです。
李白ー94
上李邕 李邕に上る
大鵬一日同風起 大鵬(たいほう) 一日 風と同(とも)に起こり
扶揺直上九万里 扶揺(ふよう) 直ちに上る九万里
仮令風歇時下来 仮令(たとえ) 風歇(や)みて時に下り来るも
猶能簸却滄溟水 猶お能(よ)く 滄溟(そうめい)の水を簸却(はきゃく)す
時人見我恒殊調 時人(じじん) 我の恒に調(しらべ)を殊にするを見
聞余大言皆冷笑 余の大言(たいげん)を聞きて皆(ことごと)く冷笑す
宣父猶能畏后生 宣父(せんぷ)も猶お能く后生(こうせい)を畏(おそ)る
丈夫未可軽年少 丈夫(じょうふ) 未だ年少を軽んず可からず
⊂訳⊃
大鵬はある日 風と共に飛び立ち
旋風のように上昇して 九万里を飛ぶ
例え風がやみ ときに舞い降りたとしても
なおよく 大海の水を揺することができる
世の人は 私が並はずれているのを見て
大きな志を述べても 冷笑して取り合わない
孔子も「若者は畏るべし」と申された
年少だからといって 軽く扱わないでほしい
⊂ものがたり⊃ 孟諸沢での狩りの季節も過ぎると、高適はいったん二人と別れ、李白と杜甫は斉州(山東省済南市)に行くことになりました。その途中に任城(山東省清寧市)という街がありますが、李白はこの地に家のほか若干の田地を所有していました。その土地と家は、多分、玄宗からの御下賜金の一部で購入したものでしょう。
李白は任城に「魯の一婦人」という女性を置いており、この女性は李白の三人目の妻にまりますが、正式の結婚ではなく小婦(妾)でした。李白と杜甫は任城の家に立ち寄ってから斉州に行ったと思われますが、斉州に着くと李白は道士になる修行をはじめます。修行して道籙(どうろく)を受けるわけですが、これには大枚の謝礼を必要としたようです。その金も玄宗の御下賜金で賄われたのでしょう。
杜甫は道士になる気はありませんので、そのころ斉州の司馬として赴任してきていた李之芳(りしほう)のもとに身を寄せます。李之芳は太宗の玄孫にあたりますので宗室の一員です。州司馬のような微職に就く身分ではありませんが、なにかの事情で地方勤務になっていたのでしょう。李之芳のもとにいたとき、たまたま隣の青州(山東省益都県)の刺史李邕(りよう)が訪ねてきて、杜甫はこの著名な老文学者と知り合いになります。
道士になった李白は任城の「魯の一婦人」のもとにもどって冬から翌天宝四載(745)の春を過ごしていましたが、夏のはじめに杜甫が斉州から訪ねてきて、二人は連れ立って任城一帯で遊びます。それから青州に李邕を訪ねますが、そのとき李白が李邕に献じた詩が「上李邕」と思われます。
李邕は『文選』に注をほどこした李善(りぜん)の子で、文と書にすぐれた大家でした。このとき六十二、三歳であったと思われますが、左遷されて青州(北海郡)の太守になっていたのです。李白はこの大家に自分を『荘子』逍遥游篇の鵬に比してみせ、若いからといって軽く扱わないでほしいと言っています。大家の李邕に反発している感じです。連れて行った杜甫は困ったと思います。
李白ー95
魯郡東石門送杜二甫 魯郡の東 石門にて杜二甫を送る
酔別復幾日 酔別(すいべつ) 復(ま)た幾日(いくにち)ぞ
登臨徧池台 登臨(とうりん) 池台(ちだい)に徧(あまね)し
何言石門路 何ぞ言わん 石門(せきもん)の路(みち)
重有金樽開 重ねて金樽(きんそん)の開く有らんと
秋波落泗水 秋波(しゅうは) 泗水(しすい)に落ち
海色明徂徠 海色(かいしょく) 徂徠(そらい)に明かなり
飛蓬各自遠 飛蓬(ひほう) 各自(かくじ)遠し
且尽林中盃 且(しばら)く林中(りんちゅう)の盃(はい)を尽くさん
⊂訳⊃
別れの酒で 幾日になるであろうか
山に登り 苑池楼台もめぐりつくした
いつの日か この石門の路で
酒樽をあけ 再び飲み明かす時が来るであろうか
秋になれば 泗水の水かさは減り
海は 徂徠山の彼方で照り映えている
やがて二人は 飛蓬のように別れて遠ざかるであろう
さあもう一杯 この林中で飲みつくそうではないか
⊂ものがたり⊃ 李邕を訪ねたあと、李白は任城にもどり、杜甫は斉州にとどまっていますが、秋になると杜甫は任城に李白を訪ねて、しばらく一緒に過ごします。李白に連れられて魯郡の東の蒙山(もうざん)に董(とう)錬士を訪ねたり、魯城の北郭に住む范(はん)隠士と交流したりして、杜甫はこの時期、いくらか道教や隠士の生活に触れたようです。しかし、深入りはしませんでした。
このころ杜甫の父親は奉天(陝西省乾県)の県令になっていて、杜甫は父杜閑から長安に出てくるように促されていたようです。二度の秋を一緒に過ごした李白と杜甫に別れのときが迫っていました。二人は魯郡曲阜(山東省曲阜県)の東北にある石門山の麓で別れの杯をかわします。
李白の詩だけが残されていますが、杜甫も詩を作ったはずです。しかし、杜甫の詩は失われています。李白は杜甫の未来を祝福して、「海色 徂徠に明かなり」と詠います。海は見えないのですが、徂徠山の向こうで輝いているというのです。李白も杜甫も再会を期待したと思いますが、二人に二度と会う機会は訪れませんでした。
李白ー96
沙邱城下寄杜甫 沙邱城下 杜甫に寄す
我来竟何事 我(われ)来(きた)る 竟(つい)に何事ぞ
高臥沙邱城 高臥(こうが)す 沙邱城(さきゅうじょう)
城辺有古樹 城辺(じょうへん) 古樹有り
日夕連秋声 日夕(にっせき) 秋声(しゅうせい)を連(つら)ぬ
魯酒不可酔 魯酒(ろしゅ) 酔う可からず
斉歌空復情 斉歌(せいか) 空しく情を復(かさ)ぬ
思君若汶水 君を思うこと汶水(ぶんすい)の若(ごと)く
浩蕩寄南征 浩蕩(こうとう)として南征に寄(よ)す
⊂訳⊃
私がここへ来たのは 何のためであったのか
沙邱の城で ただ寝ているだけである
城壁のほとりに 古い樹があり
朝から晩まで 秋風に鳴っている
魯の酒は 薄くて酔えず
斉の歌は 心をゆるがすものがない
君を思えば 汶水の流れのように
広々と心は溢れ 南への思いがつのる
⊂ものがたり⊃ 李白は杜甫を見送ると、秋から冬にかけて魯郡の南に知友を訪ね、金郷(山東省金郷県)や単父(ぜんふ)の街で過ごしています。このころ李白は南陵の鄭氏に預けていた長女平陽と長男伯禽(はくきん)を東魯に引き取ったのではないかと思われます。李白自身が南陵に出かけたようすはありませんので、人を頼んで連れてきてもらったのでしょう。長安を辞したあと東魯にとどまって南陵にもどってこない李白に、鄭氏があいそをつかしたのかもしれません。
このころ李白には「魯の一婦人」とのあいだに次男頗黎(はれい)が生まれていますので、さすがの李白も江南の鄭氏までは手がまわりかねたのでしょう。天宝五載(746)の春、李白は病気になり、任城(にんじょう)の「魯の一婦人」のもとで秋まで療養をしていました。秋になって疾が癒えると、長安にいる杜甫に詩を送っています。このころ杜甫は都で官職を求めて活動をはじめていましたので、李白もじっとして居れない気持ちになっていたようです。
道士になってはみたものの、それですぐさま出世の機会がつかめるものでもなく、李白は空虚な気持になっていました。それを満たすのは旅しかありません。李白には春のころから「南征」(江南への遍歴)への思いがきざしていましたが、病気をしたためにそれが延び延びになっていたのです。
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