白居易ー135
寒食夜 寒食の夜
四十九年身老日 四十九年 身(み)老ゆる日
一百五夜月明天 一百五夜 月明らかなる天
抱膝思量何事在 膝を抱きて思量(しりょう)するも何事(なにごと)か在る
癡男騃女喚鞦韆 癡男騃女(ちだんがいじょ) 鞦韆(しゅうせん)を喚(よ)ぶ
⊂訳⊃
老いてはや 歳は四十九
天には明るい一百五夜の月
膝を抱いて考えるが どうしようもなく
息子や娘は ぶらんこ遊びに夢中である
⊂ものがたり⊃ 白居易はこの詩で「四十九」歳といっていますので、元和十五年の寒食節(かんしょくせつ)の夜に作った詩でしょう。この年は正月に憲宗が急死していますので、冬至から数えて「一百五」(いっぴゃくご)日目のこのころは大喪中になります。
大喪中にもかかわらず「癡男騃女」、つまり一家の子供たちは大喪を気にすることもなく、ぶらんこ遊びに夢中であると、白居易は子供たちの屈託のなさがうらやましそうです。膝をかかえて考え込んでいるのは、都の情勢かもしれません。
白居易ー136
春 江 春 江
炎涼昏暁苦推遷 炎涼 昏暁(こんぎょう) 苦(はなは)だ推遷(すいせん)し
不覚忠州已二年 覚(おぼ)えず 忠州 已に二年なり
閉閤只聴朝暮鼓 閤(こう)を閉じて只だ聴く 朝暮(ちょうぼ)の鼓(つづみ)
上楼空望往来船 楼に上りて空しく望む 往来の船
鶯声誘引来花下 鶯声(おうせい)に誘引せられて 花下(かか)に来たり
草色匂留坐水辺 草色(そうしょく)に匂留せられて 水辺(すいへん)に坐す
唯有春江看未厭 唯だ春江(しゅんこう)の看れども 未だ厭(あ)かざる有り
縈砂遶石緑潺湲 砂を縈(めぐ)り 石を遶(めぐ)りて 緑潺湲(せんかん)たり
⊂訳⊃
夏冬の寒暑 昼夜が激しく移りゆき
忠州にきてから はや二年になる
小部屋を閉じて 朝夕の太鼓に耳を傾け
楼に上って ゆきかう船をぼんやり眺める
鶯の声に誘われて 花の下に来てみたり
草の色に魅せられて 水辺に腰をおろす
春の長江は 見飽きることがなく
砂をめぐり 石をめぐって 清らかに水は流れる
⊂ものがたり⊃ 同じ年の春のさなか、白居易は長江の岸辺の草むらに腰をおろして、ぼんやりと流れを見詰めながら一日を過ごしました。忠州に着任してからまだ一年しか経っていないのに、白居易は「忠州 已に二年なり」と退屈し切っています。
その白居易のもとに、夏になると都からの召喚命令が届きました。待っていたものがやっと届いたのです。白居易は東坡に植えた野桃(やとう)、山杏(さんきょう)、水林檎(すいりんきん)の樹に別れを告げ、忠州を去ってゆきました。
白居易ー137
立秋日登楽遊園 立秋の日 楽遊園に登る
独行独語曲江頭 独り行き 独り語(かた)る 曲江の頭(ほとり)
迴馬遅遅上楽遊 馬を迴(めぐ)らし 遅遅として楽遊(らくゆう)に上る
蕭颯涼風与衰鬢 蕭颯(しょうさつ)たり 涼風と衰鬢(すいびん)と
誰教計会一時秋 誰か計会(けいかい)して 一時に秋ならしむ
⊂訳⊃
独言を呟きつつ 曲江のほとりをひとりでゆき
馬をめぐらして ゆっくりと楽遊園に登る
もの寂しく冷ややかな風 衰えた鬢毛
誰が画策して 同時に秋となしたのか
⊂ものがたり⊃ 白居易が都に着いたとき、元稹は前年の冬に尚書省膳部員外郎(従六品上)になって中央に復帰していました。さらに十五年八月には新帝穆宗にも拝謁の栄を得て、尚書省礼部の祠部郎中(従五品上)知制誥(ちせいこう)に任ぜられました。制誥の起案は中書省の中書舎人や翰林学士の役目ですので、元稹が知制誥を兼務させられたというのは、中書舎人の代役を務めることを意味します。
白居易は冬のはじめに尚書省刑部の司門員外郎(従六品上)に任ぜられ、元稹との間に差が生じています。しかし、十二月二十八日には礼部の主客郎中(従五品上)知制誥に昇進し、いよいよ政府の中枢で活躍できる立場になります。このとき牛党の指導的人物であった李宗閔は中書舎人でしたので、憲宗時代に抑圧されていた貢挙系の官吏を穆宗が重く用いはじめたことを意味するでしょう。
元和十五年は慌ただしく暮れ、新春は長慶元年(821)です。白居易は五十歳になり、新昌坊の青龍岡の北に小さな家を買って、早朝から参内する忙しい毎日を送っていました。同じ二月に元稹は中書舎人(正五品上)に任命され、さらに頭角を現わします。中書舎人は門下省の給事中と並んで将来宰相の地位も期待できる要職です。
白居易は親友の出世を羨むような人物ではありませんので、元稹の出世を共に喜びます。白家でも弟の白行簡が門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられましたので、白居易は久しぶりに前途に希望を感じる毎日を送っていました。ところが三月になって、白居易は微妙な事件に巻き込まれます。それは長慶元年の貢挙にまつわる不正事件で、牛党の李宗閔らが罪に問われて左遷されます。
この事件の背後には、李吉甫の息子で、このとき翰林学士になっていた李徳裕がいたという推測があり、恩蔭系の李徳裕は政敵の李宗閔を罪に落して剣州(四川省剣閣県)の刺史に左遷することに成功したというのです。この年の貢挙に情実があったという告発があり、白居易は重試(再試験)の試験官を命ぜられ、公正に判定を行った結果、李宗閔らの不正が発覚したのでした。
陰暦の立秋は七月一日です。休日であったのか、白居易はこの日、自宅の南の曲江のほとりを騎馬で散策し、それから楽遊原の台地に登って、ひとり何事か呟きます。まさか衰鬢と秋の悩みだけではないでしょう。白居易は江州流謫から都へ復帰して主客郎中知制誥の地位を得ましたが、中央政界の党争は内に入りこめば入りこむほど深刻になっており、公正に政務を執行しても、それが思いがけない結果を生んでしまうのです。
白居易は自分の拠るべき立場について、いろいろと思い悩むことが多くなっていました。
白居易ー138
聞夜砧 夜の砧を聞く
誰家思婦秋擣帛 誰(た)が家の思婦(しふ)か 秋に帛(きぬ)を擣(う)つ
月苦風淒砧杵悲 月苦(さ)え 風淒(すさま)じくして砧杵(ちんしょ)悲し
八月九月正長夜 八月 九月 正(まさ)に長き夜
千声万声無了時 千声 万声 了(お)わる時(とき)無し
応到天明頭尽白 応(まさ)に天明に到らば 頭(かしら)尽く白かるべし
一声添得一茎糸 一声(いっせい)添え得たり 一茎(いっけい)の糸
⊂訳⊃
どの家の主婦であろうか 秋の夜に帛を打つ
月は冴え 風は荒れ 砧の音はもの悲しい
おりしも 八月九月は夜長のころ
千声万声 砧の音は終わるときがない
夜明けまで続いたら 頭はすっかり白くなるだろう
砧の音の一音で 白髪が一本増えるのだから
⊂ものがたり⊃ 白居易が朝廷内の政争に悩んでいた七月二十八日、恒州の成徳節度使の軍に内紛が起こり、都知兵馬使王庭湊が節度使の田弘正を殺してみずから留後を称しました。政府は八月に斐度らを指揮官に任じて成徳軍の討伐に向かわせます。同時に深州(河北省深県)刺史の牛元翼を深冀節度使に任じて現地の対策にあたらせました。
ところが王庭湊は幽州の兵を率いて深州の城を包囲し、河朔地方は再び兵乱の地と化しました。詩中の「思婦」は本来もの思う妻の意味で、出征している夫のために冬着を搗いて柔らかくしているのでしょう。白居易は李白の「子夜呉歌」其の三の詩を意識していると思われますので、この白髪は思婦の頭に生ずる白髪でなければなりません。
この年の冬、白居易は朝散大夫を授けられ宮中で緋衣を着る栄誉を与えられます。ついで上国柱(じょうこくちゅう)の勲位を授けられ、十月十九日には中書舎人知制誥に任じられました。同じ十月には妻の楊氏が弘農県君に封ぜられます。これは名誉の称号に過ぎませんが、この時期に妻にまで叙爵の栄誉があったのは、李党の側が白居易を自己の陣営に取り込もうと意図していた疑いがあります。
白居易は寒門の出自や貢挙による流入という経歴からすると牛党に近く、妻楊氏の親族も牛党に属していました。しかし、親しい友人の元愼や李紳は李党に属しており、恩蔭系、貢挙系といっても、その色分けは単純ではありませんでした。したがって白居易は、自己の政事的信条は別として、党派においては旗色を鮮明にしていませんでした。そこに、すでに有名詩人であった白居易を自派に取り込もうとする働きかけが露骨に行われるようになった理由があるのです。
寒食夜 寒食の夜
四十九年身老日 四十九年 身(み)老ゆる日
一百五夜月明天 一百五夜 月明らかなる天
抱膝思量何事在 膝を抱きて思量(しりょう)するも何事(なにごと)か在る
癡男騃女喚鞦韆 癡男騃女(ちだんがいじょ) 鞦韆(しゅうせん)を喚(よ)ぶ
⊂訳⊃
老いてはや 歳は四十九
天には明るい一百五夜の月
膝を抱いて考えるが どうしようもなく
息子や娘は ぶらんこ遊びに夢中である
⊂ものがたり⊃ 白居易はこの詩で「四十九」歳といっていますので、元和十五年の寒食節(かんしょくせつ)の夜に作った詩でしょう。この年は正月に憲宗が急死していますので、冬至から数えて「一百五」(いっぴゃくご)日目のこのころは大喪中になります。
大喪中にもかかわらず「癡男騃女」、つまり一家の子供たちは大喪を気にすることもなく、ぶらんこ遊びに夢中であると、白居易は子供たちの屈託のなさがうらやましそうです。膝をかかえて考え込んでいるのは、都の情勢かもしれません。
白居易ー136
春 江 春 江
炎涼昏暁苦推遷 炎涼 昏暁(こんぎょう) 苦(はなは)だ推遷(すいせん)し
不覚忠州已二年 覚(おぼ)えず 忠州 已に二年なり
閉閤只聴朝暮鼓 閤(こう)を閉じて只だ聴く 朝暮(ちょうぼ)の鼓(つづみ)
上楼空望往来船 楼に上りて空しく望む 往来の船
鶯声誘引来花下 鶯声(おうせい)に誘引せられて 花下(かか)に来たり
草色匂留坐水辺 草色(そうしょく)に匂留せられて 水辺(すいへん)に坐す
唯有春江看未厭 唯だ春江(しゅんこう)の看れども 未だ厭(あ)かざる有り
縈砂遶石緑潺湲 砂を縈(めぐ)り 石を遶(めぐ)りて 緑潺湲(せんかん)たり
⊂訳⊃
夏冬の寒暑 昼夜が激しく移りゆき
忠州にきてから はや二年になる
小部屋を閉じて 朝夕の太鼓に耳を傾け
楼に上って ゆきかう船をぼんやり眺める
鶯の声に誘われて 花の下に来てみたり
草の色に魅せられて 水辺に腰をおろす
春の長江は 見飽きることがなく
砂をめぐり 石をめぐって 清らかに水は流れる
⊂ものがたり⊃ 同じ年の春のさなか、白居易は長江の岸辺の草むらに腰をおろして、ぼんやりと流れを見詰めながら一日を過ごしました。忠州に着任してからまだ一年しか経っていないのに、白居易は「忠州 已に二年なり」と退屈し切っています。
その白居易のもとに、夏になると都からの召喚命令が届きました。待っていたものがやっと届いたのです。白居易は東坡に植えた野桃(やとう)、山杏(さんきょう)、水林檎(すいりんきん)の樹に別れを告げ、忠州を去ってゆきました。
白居易ー137
立秋日登楽遊園 立秋の日 楽遊園に登る
独行独語曲江頭 独り行き 独り語(かた)る 曲江の頭(ほとり)
迴馬遅遅上楽遊 馬を迴(めぐ)らし 遅遅として楽遊(らくゆう)に上る
蕭颯涼風与衰鬢 蕭颯(しょうさつ)たり 涼風と衰鬢(すいびん)と
誰教計会一時秋 誰か計会(けいかい)して 一時に秋ならしむ
⊂訳⊃
独言を呟きつつ 曲江のほとりをひとりでゆき
馬をめぐらして ゆっくりと楽遊園に登る
もの寂しく冷ややかな風 衰えた鬢毛
誰が画策して 同時に秋となしたのか
⊂ものがたり⊃ 白居易が都に着いたとき、元稹は前年の冬に尚書省膳部員外郎(従六品上)になって中央に復帰していました。さらに十五年八月には新帝穆宗にも拝謁の栄を得て、尚書省礼部の祠部郎中(従五品上)知制誥(ちせいこう)に任ぜられました。制誥の起案は中書省の中書舎人や翰林学士の役目ですので、元稹が知制誥を兼務させられたというのは、中書舎人の代役を務めることを意味します。
白居易は冬のはじめに尚書省刑部の司門員外郎(従六品上)に任ぜられ、元稹との間に差が生じています。しかし、十二月二十八日には礼部の主客郎中(従五品上)知制誥に昇進し、いよいよ政府の中枢で活躍できる立場になります。このとき牛党の指導的人物であった李宗閔は中書舎人でしたので、憲宗時代に抑圧されていた貢挙系の官吏を穆宗が重く用いはじめたことを意味するでしょう。
元和十五年は慌ただしく暮れ、新春は長慶元年(821)です。白居易は五十歳になり、新昌坊の青龍岡の北に小さな家を買って、早朝から参内する忙しい毎日を送っていました。同じ二月に元稹は中書舎人(正五品上)に任命され、さらに頭角を現わします。中書舎人は門下省の給事中と並んで将来宰相の地位も期待できる要職です。
白居易は親友の出世を羨むような人物ではありませんので、元稹の出世を共に喜びます。白家でも弟の白行簡が門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられましたので、白居易は久しぶりに前途に希望を感じる毎日を送っていました。ところが三月になって、白居易は微妙な事件に巻き込まれます。それは長慶元年の貢挙にまつわる不正事件で、牛党の李宗閔らが罪に問われて左遷されます。
この事件の背後には、李吉甫の息子で、このとき翰林学士になっていた李徳裕がいたという推測があり、恩蔭系の李徳裕は政敵の李宗閔を罪に落して剣州(四川省剣閣県)の刺史に左遷することに成功したというのです。この年の貢挙に情実があったという告発があり、白居易は重試(再試験)の試験官を命ぜられ、公正に判定を行った結果、李宗閔らの不正が発覚したのでした。
陰暦の立秋は七月一日です。休日であったのか、白居易はこの日、自宅の南の曲江のほとりを騎馬で散策し、それから楽遊原の台地に登って、ひとり何事か呟きます。まさか衰鬢と秋の悩みだけではないでしょう。白居易は江州流謫から都へ復帰して主客郎中知制誥の地位を得ましたが、中央政界の党争は内に入りこめば入りこむほど深刻になっており、公正に政務を執行しても、それが思いがけない結果を生んでしまうのです。
白居易は自分の拠るべき立場について、いろいろと思い悩むことが多くなっていました。
白居易ー138
聞夜砧 夜の砧を聞く
誰家思婦秋擣帛 誰(た)が家の思婦(しふ)か 秋に帛(きぬ)を擣(う)つ
月苦風淒砧杵悲 月苦(さ)え 風淒(すさま)じくして砧杵(ちんしょ)悲し
八月九月正長夜 八月 九月 正(まさ)に長き夜
千声万声無了時 千声 万声 了(お)わる時(とき)無し
応到天明頭尽白 応(まさ)に天明に到らば 頭(かしら)尽く白かるべし
一声添得一茎糸 一声(いっせい)添え得たり 一茎(いっけい)の糸
⊂訳⊃
どの家の主婦であろうか 秋の夜に帛を打つ
月は冴え 風は荒れ 砧の音はもの悲しい
おりしも 八月九月は夜長のころ
千声万声 砧の音は終わるときがない
夜明けまで続いたら 頭はすっかり白くなるだろう
砧の音の一音で 白髪が一本増えるのだから
⊂ものがたり⊃ 白居易が朝廷内の政争に悩んでいた七月二十八日、恒州の成徳節度使の軍に内紛が起こり、都知兵馬使王庭湊が節度使の田弘正を殺してみずから留後を称しました。政府は八月に斐度らを指揮官に任じて成徳軍の討伐に向かわせます。同時に深州(河北省深県)刺史の牛元翼を深冀節度使に任じて現地の対策にあたらせました。
ところが王庭湊は幽州の兵を率いて深州の城を包囲し、河朔地方は再び兵乱の地と化しました。詩中の「思婦」は本来もの思う妻の意味で、出征している夫のために冬着を搗いて柔らかくしているのでしょう。白居易は李白の「子夜呉歌」其の三の詩を意識していると思われますので、この白髪は思婦の頭に生ずる白髪でなければなりません。
この年の冬、白居易は朝散大夫を授けられ宮中で緋衣を着る栄誉を与えられます。ついで上国柱(じょうこくちゅう)の勲位を授けられ、十月十九日には中書舎人知制誥に任じられました。同じ十月には妻の楊氏が弘農県君に封ぜられます。これは名誉の称号に過ぎませんが、この時期に妻にまで叙爵の栄誉があったのは、李党の側が白居易を自己の陣営に取り込もうと意図していた疑いがあります。
白居易は寒門の出自や貢挙による流入という経歴からすると牛党に近く、妻楊氏の親族も牛党に属していました。しかし、親しい友人の元愼や李紳は李党に属しており、恩蔭系、貢挙系といっても、その色分けは単純ではありませんでした。したがって白居易は、自己の政事的信条は別として、党派においては旗色を鮮明にしていませんでした。そこに、すでに有名詩人であった白居易を自派に取り込もうとする働きかけが露骨に行われるようになった理由があるのです。
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