杜甫ー153
卜居 卜居
浣花渓水水西頭 浣花渓水(かんかけいすい) 水の西頭(せいとう)
主人為卜林塘幽 主人 為に卜(ぼく)す林塘(りんとう)の幽なるを
已知出郭少塵事 已に知る 郭(かく)を出でて塵事(じんじ)の少(まれ)なるを
更有澄江銷客愁 更に澄江(ちょうこう)の客愁(かくしゅう)を銷(け)す有り
無数蜻蜓斉上下 無数の蜻蜓(せいてい) 斉(ひと)しく上下し
一双鸂鶒対沈浮 一双の鸂鶒(けいせき) 対して沈浮(ちんぷ)す
東行万里堪乗興 東行万里 興(きょう)に乗ずるに堪(た)えたり
須向山陰入小舟 須(すべから)く山陰に向かって小舟(しょうしゅう)に入るべし
⊂訳⊃
浣花渓の清い流れ 西のほとりに
静かな場所を選んで 居を定める
郊外だから 俗事の少ないことはわかっており
澄んだ川が 旅愁を癒してくれる
無数の蜻蛉が 揃って上下に跳び
番いの鴛鴦が 向かい合って浮き沈みする
東行万里 興に乗じて行くこともでき
小舟に乗って 山陰の方まで出かけるべきだ
⊂ものがたり⊃ 一家七人がいつまでも寺院の世話になっていることはできませんので、明けて上元元年(760)の春になると、浣花渓の一角に草堂を営むことになりました。敷地の広さは一畝(180坪)ほどで、世話をしてくれたのは西川節度使成都尹の裴冕(はいべん)でした。
このあたりは成都の中心から4kmほど離れた閑静な田園地帯で、草堂は浣花渓(錦江の一部であり、河岸の地名でもある)の西端、百花潭(ひゃっかたん)の北の岸辺にありました。
尾聯の二句「東行万里 興に乗ずるに堪えたり 須く山陰に向かって小舟に入るべし」は、山陰(浙江省紹興市)に住んでいた晋の王微之(おうびし)の故事を踏まえるもので、具体的にどこかへ行くということを意味しているのではありません。閑雅で拘束のない生活を送ることの詩的表現と見るべきです。
杜甫ー154
水檻遣心 水檻に心を遣る
去郭軒楹敞 郭(かく)を去って軒楹(けんえい)敞(ひろ)く
無村眺望賖 村無くして眺望(ちょうぼう)賖(はる)かなり
澄江平少岸 澄江(ちょうこう) 平らかにして岸少なく
幽樹晩多花 幽樹(ゆうじゅ) 晩(おそ)くして花多し
細雨魚児出 細雨(さいう) 魚児(ぎょじ)出で
微風燕子斜 微風(びふう) 燕子(えんし)斜めなり
城中十万戸 城中(じょうちゅう) 十万戸
此地両三家 此の地 両三家(りょうさんか)
⊂訳⊃
草堂は城外にあって 軒(のき)も柱もゆったり
付近に村はないので 見晴らしもよい
澄んだ川水は豊かで 岸すれすれに流れ
鬱蒼と茂る樹々には 季節はずれの花が咲いている
そぼ降る雨に 魚は顔をちょっと出し
そよふく風を 切って燕は斜かいに飛ぶ
城中には 十万戸の家がひしめくが
こちらは ほんの二三軒だけだ
⊂ものがたり⊃ 草堂の建築費用は、母方の従兄弟で成都尹の王十五や裴冕幕下の従侄(従兄弟の子)杜済が一部を援助してくれました。また友人の高適(こうせき)がたまたま成都の北40kmほどのところにある彭州(四川省彭県)の刺史をしていましたので、禄米をいくらかまわしてくれました。こうした親戚、友人の援助によって草堂は春のおわりまでにはできあがっていたようです。
詩題の「水檻(すいかん)に心を遣(や)る」は、川に臨んだ欄干に寄りかかってあたりを眺めやるという意味で、晩春の作でしょう。春になって雪解けの水で増水した川水が岸いっぱいになって流れています。新居のあたりのようすが心をこめて描かれており、五言律詩の佳作といえるでしょう。魚や燕の訳には、ひと工夫こらしておきました。
成都の戸数は、このころ三、四万戸ほどで、当時としては大都会ですが、一万余戸から十万余戸までは、まとめて十万戸というのが当時の詩的表現ですので、数字にこだわる必要はないでしょう。
杜甫ー155
江上値水如 江上 水の海勢の如くなる
海勢聊短述 に値(あ)い 聊か短述す
為人性僻耽佳句 人と為(な)り 性(せい) 僻(へき)にして佳句に耽(ふけ)り
語不驚人死不休 語(ご) 人を驚かさずんば 死すとも休(や)まず
老去詩篇渾漫与 老い去って詩篇 渾(すべ)て漫与(まんよ)
春来花鳥莫深愁 春来たって花鳥 深く愁うる莫(な)し
新添水檻供垂釣 新たに水檻(すいかん)を添えて垂釣(すいちょう)に供し
故著浮槎替入舟 故(もと)より浮槎(ふさ)を著けて入舟(にゅうしゅう)に替う
焉得思如陶謝手 焉(いずく)んぞ 思い陶謝(とうしゃ)の如くなるを手を得て
令梁述作与同遊 梁(かれ)をして述作して 与(とも)に同遊せしめん
⊂訳⊃
私の性質は偏っていて 詩句を作るのに熱中し
人を驚かせない様では 死んでもやめられない
だが老いるに従って すべてに詩がいい加減になり
春が来たというのに 花にも鳥にも感動することがない
新たに水檻を設けて 釣り糸を垂れる場所にし
岸辺に筏をつないで 舟のかわりにしている
できれば 陶淵明や謝霊運のような詩人を連れてきて
共に詩を作りながら 遊びたいものである
⊂ものがたり⊃ 住居が定まって落ち着いてきたのか、杜甫は自分の詩心について思うところがありました。川の増水するのを見て、自分の中に自然のいとなみに似たものがあるのを感じ、「語 人を驚かさずんば 死すとも休まず」と詩作への意気込みを示します。この句は杜甫の名句として、しばしば引用されるものです。
一方、老いるに従って詩が散漫になり、自然の美に心を動かされなくなったと嘆いてもいます。陶淵明や謝霊運のような詩友がいて、共に詩を作り合えれば楽しいだろうと、詩を語り合えるような人物がいないことも嘆きの種です。
杜甫ー156
蜀相 蜀相
丞相祠堂何処尋 丞相の祠堂(しどう) 何(いず)れの処にか尋ねん
錦官城外柏森森 錦官(きんかん)城外 柏(はく)森森(しんしん)たり
映階碧草自春色 階に映ずる碧草(へきそう)は 自ら春色(しゅんしょく)
隔葉黄鸝空好音 葉を隔(へだ)つる黄鸝(こうり)は 空しく好音(こういん)
三顧頻煩天下計 三顧(さんこ)頻煩(ひんぱん)なり 天下の計
両朝開済老臣心 両朝(りょうちょう)開済(かいさい)す 老臣の心
出師未捷身先死 師を出(い)だして未だ捷(か)たざるに 身先(ま)ず死し
長使英雄涙満襟 長(とこし)えに英雄をして 涙 襟(きん)に満(み)たしむ
⊂訳⊃
孔明の社は どのあたりだろうか
錦官城外 柏の杜(もり)はおごそか
階段から見える若草は 茂るにまかせた春の色
葉陰の向こうで鶯は 美しい声で鳴いている
劉備は 三顧の礼で天下平定の策を問い
老臣は 蜀漢の二主に仕えて誠実であった
軍を出して 勝利しないうちに病に倒れ
無念の念に 心ある人はいつまでも涙をながす
⊂ものがたり⊃ 成都には三国蜀漢の丞相諸葛孔明の祠堂があります。杜甫は身辺が落ち着くとさっそく、かねて尊敬する孔明の祠堂を訪ねました。孔明を祀る武侯祠は成都西南の郊外、柏(このてがしは)の杜(もり)の静かな緑陰のなかにありました。
「両朝」というのは先主劉備と後主劉禅のことで、「開済」とは事を開始しかつ成し遂げることをいいます。杜甫は孔明の誠実な生き方に感動し、唐朝がいま必要としているのは、孔明のような名臣であると思うのでした。
杜甫ー157
狂 夫 狂 夫
万里橋西一草堂 万里橋西(ばんりきょうせい) 一草堂
百花潭水即滄浪 百花潭水(ひゃくかたんすい) 即ち滄浪(そうろう)
風含翠篠娟娟浄 風は翠篠(すいしょう)を含んで娟娟(けんけん)として浄く
雨裛紅蕖冉冉香 雨は紅蕖(こうきょ)を裛(うるお)して冉冉(ぜんぜん)として香し
厚禄故人書断絶 厚禄(こうろく)の故人(こじん)は 書 断絶(だんぜつ)
恒飢稚子色凄涼 恒(つね)に飢うる稚子(ちし)は 色(しき) 凄涼(せいりょう)
欲填溝壑惟疎放 溝壑(こうがく)に填(てん)せんと欲して惟(た)だ疎放(そほう)
自笑狂夫老更狂 自ら笑う 狂夫(きょうふ) 老いて更に狂(きょう)するを
⊂訳⊃
万里橋の西に 一軒の草堂があり
百花潭の水は 私にとって滄浪の水
緑の篠竹は 風を含んでしなやかに清く
蓮の紅花は 雨に濡れてたおやかな香りを放つ
高禄の友人たちから 便りは来なくなり
いつも空腹の子供らは やつれて元気がない
溝や谷間に落ちて死にそうだが 齷齪することもあるまい
わが事ながら 老いてますます狂であるのを笑っている
⊂ものがたり⊃ 詩題の「狂夫」は狂った男という意味ではなく、物事を夢中になって行う男、もしくは理想に向かってまっしぐらに進む者という意味です。杜甫は自分を「狂夫」であると認識します。
詩は前半四句で草堂のたたずまいを描写します。「万里橋」は錦江にかかる橋です。その西に草堂があり、「百花潭」と称する淵があります。この淵が杜甫にとっての「滄浪」の水であり、楚辞にある詩句を踏まえて隠者の生活を示唆していることになります。
後半四句は生活の状況で、草堂に落ち着くことはできましたが、都の友人たちからは便りも来なくなり、子供たちはいつもお腹をすかせ、やつれていると生活の苦しさを詠います。杜甫は居直る口吻であり、老いてますます「狂」であると自分を笑うのです。
卜居 卜居
浣花渓水水西頭 浣花渓水(かんかけいすい) 水の西頭(せいとう)
主人為卜林塘幽 主人 為に卜(ぼく)す林塘(りんとう)の幽なるを
已知出郭少塵事 已に知る 郭(かく)を出でて塵事(じんじ)の少(まれ)なるを
更有澄江銷客愁 更に澄江(ちょうこう)の客愁(かくしゅう)を銷(け)す有り
無数蜻蜓斉上下 無数の蜻蜓(せいてい) 斉(ひと)しく上下し
一双鸂鶒対沈浮 一双の鸂鶒(けいせき) 対して沈浮(ちんぷ)す
東行万里堪乗興 東行万里 興(きょう)に乗ずるに堪(た)えたり
須向山陰入小舟 須(すべから)く山陰に向かって小舟(しょうしゅう)に入るべし
⊂訳⊃
浣花渓の清い流れ 西のほとりに
静かな場所を選んで 居を定める
郊外だから 俗事の少ないことはわかっており
澄んだ川が 旅愁を癒してくれる
無数の蜻蛉が 揃って上下に跳び
番いの鴛鴦が 向かい合って浮き沈みする
東行万里 興に乗じて行くこともでき
小舟に乗って 山陰の方まで出かけるべきだ
⊂ものがたり⊃ 一家七人がいつまでも寺院の世話になっていることはできませんので、明けて上元元年(760)の春になると、浣花渓の一角に草堂を営むことになりました。敷地の広さは一畝(180坪)ほどで、世話をしてくれたのは西川節度使成都尹の裴冕(はいべん)でした。
このあたりは成都の中心から4kmほど離れた閑静な田園地帯で、草堂は浣花渓(錦江の一部であり、河岸の地名でもある)の西端、百花潭(ひゃっかたん)の北の岸辺にありました。
尾聯の二句「東行万里 興に乗ずるに堪えたり 須く山陰に向かって小舟に入るべし」は、山陰(浙江省紹興市)に住んでいた晋の王微之(おうびし)の故事を踏まえるもので、具体的にどこかへ行くということを意味しているのではありません。閑雅で拘束のない生活を送ることの詩的表現と見るべきです。
杜甫ー154
水檻遣心 水檻に心を遣る
去郭軒楹敞 郭(かく)を去って軒楹(けんえい)敞(ひろ)く
無村眺望賖 村無くして眺望(ちょうぼう)賖(はる)かなり
澄江平少岸 澄江(ちょうこう) 平らかにして岸少なく
幽樹晩多花 幽樹(ゆうじゅ) 晩(おそ)くして花多し
細雨魚児出 細雨(さいう) 魚児(ぎょじ)出で
微風燕子斜 微風(びふう) 燕子(えんし)斜めなり
城中十万戸 城中(じょうちゅう) 十万戸
此地両三家 此の地 両三家(りょうさんか)
⊂訳⊃
草堂は城外にあって 軒(のき)も柱もゆったり
付近に村はないので 見晴らしもよい
澄んだ川水は豊かで 岸すれすれに流れ
鬱蒼と茂る樹々には 季節はずれの花が咲いている
そぼ降る雨に 魚は顔をちょっと出し
そよふく風を 切って燕は斜かいに飛ぶ
城中には 十万戸の家がひしめくが
こちらは ほんの二三軒だけだ
⊂ものがたり⊃ 草堂の建築費用は、母方の従兄弟で成都尹の王十五や裴冕幕下の従侄(従兄弟の子)杜済が一部を援助してくれました。また友人の高適(こうせき)がたまたま成都の北40kmほどのところにある彭州(四川省彭県)の刺史をしていましたので、禄米をいくらかまわしてくれました。こうした親戚、友人の援助によって草堂は春のおわりまでにはできあがっていたようです。
詩題の「水檻(すいかん)に心を遣(や)る」は、川に臨んだ欄干に寄りかかってあたりを眺めやるという意味で、晩春の作でしょう。春になって雪解けの水で増水した川水が岸いっぱいになって流れています。新居のあたりのようすが心をこめて描かれており、五言律詩の佳作といえるでしょう。魚や燕の訳には、ひと工夫こらしておきました。
成都の戸数は、このころ三、四万戸ほどで、当時としては大都会ですが、一万余戸から十万余戸までは、まとめて十万戸というのが当時の詩的表現ですので、数字にこだわる必要はないでしょう。
杜甫ー155
江上値水如 江上 水の海勢の如くなる
海勢聊短述 に値(あ)い 聊か短述す
為人性僻耽佳句 人と為(な)り 性(せい) 僻(へき)にして佳句に耽(ふけ)り
語不驚人死不休 語(ご) 人を驚かさずんば 死すとも休(や)まず
老去詩篇渾漫与 老い去って詩篇 渾(すべ)て漫与(まんよ)
春来花鳥莫深愁 春来たって花鳥 深く愁うる莫(な)し
新添水檻供垂釣 新たに水檻(すいかん)を添えて垂釣(すいちょう)に供し
故著浮槎替入舟 故(もと)より浮槎(ふさ)を著けて入舟(にゅうしゅう)に替う
焉得思如陶謝手 焉(いずく)んぞ 思い陶謝(とうしゃ)の如くなるを手を得て
令梁述作与同遊 梁(かれ)をして述作して 与(とも)に同遊せしめん
⊂訳⊃
私の性質は偏っていて 詩句を作るのに熱中し
人を驚かせない様では 死んでもやめられない
だが老いるに従って すべてに詩がいい加減になり
春が来たというのに 花にも鳥にも感動することがない
新たに水檻を設けて 釣り糸を垂れる場所にし
岸辺に筏をつないで 舟のかわりにしている
できれば 陶淵明や謝霊運のような詩人を連れてきて
共に詩を作りながら 遊びたいものである
⊂ものがたり⊃ 住居が定まって落ち着いてきたのか、杜甫は自分の詩心について思うところがありました。川の増水するのを見て、自分の中に自然のいとなみに似たものがあるのを感じ、「語 人を驚かさずんば 死すとも休まず」と詩作への意気込みを示します。この句は杜甫の名句として、しばしば引用されるものです。
一方、老いるに従って詩が散漫になり、自然の美に心を動かされなくなったと嘆いてもいます。陶淵明や謝霊運のような詩友がいて、共に詩を作り合えれば楽しいだろうと、詩を語り合えるような人物がいないことも嘆きの種です。
杜甫ー156
蜀相 蜀相
丞相祠堂何処尋 丞相の祠堂(しどう) 何(いず)れの処にか尋ねん
錦官城外柏森森 錦官(きんかん)城外 柏(はく)森森(しんしん)たり
映階碧草自春色 階に映ずる碧草(へきそう)は 自ら春色(しゅんしょく)
隔葉黄鸝空好音 葉を隔(へだ)つる黄鸝(こうり)は 空しく好音(こういん)
三顧頻煩天下計 三顧(さんこ)頻煩(ひんぱん)なり 天下の計
両朝開済老臣心 両朝(りょうちょう)開済(かいさい)す 老臣の心
出師未捷身先死 師を出(い)だして未だ捷(か)たざるに 身先(ま)ず死し
長使英雄涙満襟 長(とこし)えに英雄をして 涙 襟(きん)に満(み)たしむ
⊂訳⊃
孔明の社は どのあたりだろうか
錦官城外 柏の杜(もり)はおごそか
階段から見える若草は 茂るにまかせた春の色
葉陰の向こうで鶯は 美しい声で鳴いている
劉備は 三顧の礼で天下平定の策を問い
老臣は 蜀漢の二主に仕えて誠実であった
軍を出して 勝利しないうちに病に倒れ
無念の念に 心ある人はいつまでも涙をながす
⊂ものがたり⊃ 成都には三国蜀漢の丞相諸葛孔明の祠堂があります。杜甫は身辺が落ち着くとさっそく、かねて尊敬する孔明の祠堂を訪ねました。孔明を祀る武侯祠は成都西南の郊外、柏(このてがしは)の杜(もり)の静かな緑陰のなかにありました。
「両朝」というのは先主劉備と後主劉禅のことで、「開済」とは事を開始しかつ成し遂げることをいいます。杜甫は孔明の誠実な生き方に感動し、唐朝がいま必要としているのは、孔明のような名臣であると思うのでした。
杜甫ー157
狂 夫 狂 夫
万里橋西一草堂 万里橋西(ばんりきょうせい) 一草堂
百花潭水即滄浪 百花潭水(ひゃくかたんすい) 即ち滄浪(そうろう)
風含翠篠娟娟浄 風は翠篠(すいしょう)を含んで娟娟(けんけん)として浄く
雨裛紅蕖冉冉香 雨は紅蕖(こうきょ)を裛(うるお)して冉冉(ぜんぜん)として香し
厚禄故人書断絶 厚禄(こうろく)の故人(こじん)は 書 断絶(だんぜつ)
恒飢稚子色凄涼 恒(つね)に飢うる稚子(ちし)は 色(しき) 凄涼(せいりょう)
欲填溝壑惟疎放 溝壑(こうがく)に填(てん)せんと欲して惟(た)だ疎放(そほう)
自笑狂夫老更狂 自ら笑う 狂夫(きょうふ) 老いて更に狂(きょう)するを
⊂訳⊃
万里橋の西に 一軒の草堂があり
百花潭の水は 私にとって滄浪の水
緑の篠竹は 風を含んでしなやかに清く
蓮の紅花は 雨に濡れてたおやかな香りを放つ
高禄の友人たちから 便りは来なくなり
いつも空腹の子供らは やつれて元気がない
溝や谷間に落ちて死にそうだが 齷齪することもあるまい
わが事ながら 老いてますます狂であるのを笑っている
⊂ものがたり⊃ 詩題の「狂夫」は狂った男という意味ではなく、物事を夢中になって行う男、もしくは理想に向かってまっしぐらに進む者という意味です。杜甫は自分を「狂夫」であると認識します。
詩は前半四句で草堂のたたずまいを描写します。「万里橋」は錦江にかかる橋です。その西に草堂があり、「百花潭」と称する淵があります。この淵が杜甫にとっての「滄浪」の水であり、楚辞にある詩句を踏まえて隠者の生活を示唆していることになります。
後半四句は生活の状況で、草堂に落ち着くことはできましたが、都の友人たちからは便りも来なくなり、子供たちはいつもお腹をすかせ、やつれていると生活の苦しさを詠います。杜甫は居直る口吻であり、老いてますます「狂」であると自分を笑うのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます