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漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫222ー225

2010年06月10日 | Weblog
 杜甫ー222
     登 高             登  高

  風急天高猿嘯哀   風急に  天高くして猿嘯(えんしょう)哀し
  渚清沙白鳥飛廻   渚清く  沙(すな)白くして鳥(とり)飛び廻る
  無辺落木蕭蕭下   無辺(むへん)の落木  蕭蕭(しょうしょう)として下り
  不尽長江滾滾来   不尽(ふじん)の長江  滾滾(こんこん)として来たる
  万里悲秋常作客   万里  悲秋(ひしゅう) 常に客(かく)と作(な)り
  百年多病独登台   百年  多病(たへい)  独り台(だい)に登る
  艱難苦恨繁霜鬢   艱難(かんなん)  苦(はなは)だ恨む  繁霜(はんそう)の鬢
  潦倒新停濁酒杯   潦倒(ろうとう)   新たに停(とど)む  濁酒(だくしゅ)の杯

  ⊂訳⊃
          風は激しく  空は高く晴れて猿の啼き声は哀しく響く
          見おろすと  渚は清く白砂の岸辺の上を鳥が舞う
          枯葉は  蕭々と果てしなく落ち
          長江は  滾々と流れてつきない
          旅人となって  万里  悲憤の秋をさすらい
          持病をかかえ  ひとり高台に登る
          艱難のために  鬢の白髪もめっきりふえ
          投げやりに思う心の一方で  好きなお酒もやめている


 ⊂ものがたり⊃ このころ作られた七言律詩「登高」(とうこう)は、杜甫の数ある詩のなかでも最高の傑作とされています。この詩はもともと「九日五首 其五」であったものを、あまりに素晴らしい詩であったために、後世の人が「登高」と題して独立させたものとされています。「九日」はもちろん九月九日、重陽の節句のことです。杜甫は大暦二年に夔州で二度目の秋を迎え、孤独の影は濃厚であることが窺われます。
 この詩が古今の七言律詩中第一の作品とされてのは「八句全対格」(はっくぜんついかく)で作られている点です。つまりすべての句が対句表現で構成され、しかも声律、押韻のすべてが律詩の規則通りに作られ、そうした厳格な制約のなかで詩人の悲痛な心情があますところなく表現されているからです。
 言葉にも分かりにくい部分はなく、唯一むづかしいのは「潦倒」でしょう。おちぶれたさま、投げやりな気分をいう語で、どうでもいいやと心では思いながら、好きな酒もやめるなどして養生もしているというのです。

 杜甫223
   第五弟豊独在江左      第五弟豊 独り江左に在り 近ごろ
   近三四載寂無消息      三四載 寂として消息無し 使いを
   覔使寄此二首 其二     覔めて此れを寄す 二首  其の二

  聞汝依山寺      聞く  汝は山寺に依(よ)ると
  杭州定越州      杭州なるか定めし越州ならん
  風塵淹別日      風塵(ふうじん)に別日(べつひ)淹(ひさ)しく
  江漢失清秋      江漢(こうかん)に清秋(せいしゅう)を失す
  影著啼猿樹      影は著(しる)し  啼猿(ていえん)の樹(じゅ)
  魂飄結蜃楼      魂(こん)は飄る  結蜃(けつしん)の楼(ろう)
  明年下春水      明年(みょうねん)  春水(しゅんすい)を下らば
  東尽白雲求      東のかた白雲(はくうん)を尽くして求めん

  ⊂訳⊃
          聞けば汝は  山寺に身を寄せているとか
          杭州であろうか  多分越州であろう
          戦塵のなか  永いこと別れたまま
          江漢の地で  私はむなしい秋を過ごしている
          わが影は猿の啼く巫峡の樹に映っているが
          魂は蜃気楼の立つ東の海へ飛んでいる
          明年  春の長江を下れば
          東のかた白雲を極めて  汝を探し求めるであろう


 ⊂ものがたり⊃ 春に夔州を訪れた異母弟の杜観は、このころ妻をともなって荊州(湖北省江陵県)の北にある当陽(湖北省当陽県)に来ていました。官に就いていたかどうかは不明ですが、東方の済州で成長した杜観が妻を連れて江南の県にやってくるというのは、微官であっても官途によると考えた方が妥当でしょう。
 杜観はしばしば杜甫に書信を送って、荊州に出てくるように促していました。そうした書信のひとつに義母盧氏の生んだ末弟の杜豊(とほう)の消息がありました。杜豊はこのころまだ十代の後半であったと思われます。その杜豊が「江左」、つまり北から見て長江の左、江東の地にあり、山寺に身を寄せていることを杜甫は知ります。
 別れたとき杜豊はほんの幼児でしたので、杜甫は顔の記憶も薄らいでいたでしょう。十代の少年が「山寺に依る」ということがどういうことか、杜甫には分かっています。苦労をしている末弟豊にひきかえ、長兄で戸主の自分は「江漢」の地でむなしい秋を過ごしていると反省しています。
 杜甫はすでに、来春になれば夔州を発って長江を下る決心をしていたらしく、「明年 春水を下らば」といい、東のかた江東にまで行って杜豊を捜し求めるであろうと言っています。義母盧氏と妹のことは何も触れていませんが、このとき盧氏の一家はばらばらになっていたのではないでしょうか。しかし、杜甫は江東まで行くことはできませんでした。杜豊とも会うことはできずに世を去るのです。

 杜甫ー224
     冬 至             冬  至

  年年至日長為客   年年(ねんねん)  至日(しじつ)  長(つね)に客と為(な)り
  忽忽窮愁泥殺人   忽忽(こつこつ)たる窮愁(きゅうしゅう)は人を泥殺(でいさつ)す
  江上形容吾独老   江上の形容  吾は独り老い
  天涯風俗自相親   天涯の風俗  自(おのずか)ら相い親しむ
  杖藜雪後臨丹壑   杖藜(じょうれい)  雪後(せつご)    丹壑(たんがく)に臨む
  鳴玉朝来散紫宸   鳴玉(めいぎょく)  朝来(ちょうらい)  紫宸に散ずるならん
  心折此時無一寸   心は折(くだ)けて此の時  一寸無し
  路迷何処是三秦   路は迷う  何れの処(ところ)か是(こ)れ三秦(さんしん)

  ⊂訳⊃
          年毎の冬至の日を  旅路で迎え
          せまりくる窮状に  心は疲れ泥にまみれる
          川のほとりに独り  老いさらばえた姿となり
          さいはての風俗に  慣れ親しむ身となった
          雪の晴れ間に杖をつき  谷に臨んで立っているが
          都では朝から玉佩の音  御座所をさがるころだろう
          このとき心は砕け散り  方寸の形を保てない
          いずこが都の方角かと  路のあたりを迷い見る


 ⊂ものがたり⊃ やがて冬がやってきて、杜甫は夔州で二度目の冬至の日を迎えます。「冬至」(とうじ)は陰暦の十一月二十二日前後で、唐代では冬至の前後に七日間の休暇が与えられる習慣でした。その日、都では天子は紫宸殿(ししんでん)において群臣の朝賀を受け、圜丘(えんきゅう:天をかたどる円形の壇)に上って天を祭り、天下の太平と五穀の豊穣を祈りました。
 杜甫は世界の果てのような地にあって、土地の風俗にもなじむようになってしまった自分のことを考えながら、かつて都で経験した冬至の朝賀の模様を思い出します。すると心臓が破裂しそうな悲しい気持ちになり、都の方角さえ見失ってしまうと嘆くのです。都を慕う杜甫の気持ちは、消そうとしても消すことができません。

 杜甫ー225
   人日二首 其二         人日 二首  其の二

  此日此時人共得   此の日  此の時  人  共に得(う)
  一談一笑俗相看   一談  一笑  俗(ぞく)  相い看(み)る
  樽前柏葉休随酒   樽前(そんぜん)の柏葉(はくよう) 酒に随うことを休(や)め
  勝裏金花巧耐寒   勝裏(しょうり)の金花(きんか)   巧みに寒に耐(た)う
  佩剣衝星聊暫抜   佩剣(はいけん)の星を衝(つ)く  聊(いささ)か暫く抜き
  匣琴流水自須弾   匣琴(こうきん)の流水  自ら須(すべか)らく弾(だん)ずべし
  早春重引江湖興   早春  重ねて引かる  江湖(こうこ)の興(きょう)
  直道無憂行路難   直ちに道(い)う  行路の難(かた)きを憂うる無かれと

  ⊂訳⊃
          人日の今日この時  皆が共に集まって
          語り合い笑い合い  習わしに従って顔を合わせる
          酒樽の前の柏葉は  酒に浸す必要もなくなり
          髪飾りの金の花は  上手に寒さに耐えている
          星を衝くほど輝く剣  抜いてしばらく眺めやり
          箱から名琴を出して 流水のように弾いてみたい
          新春  またも江湖遊覧の楽しみに  心をひかれ
          まずは言っておこう  旅の難儀を心配するなと


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫は年末には荊州に行く決心を固めていました。荊州には杜観のほかに、従弟の杜位(とい)が荊南節度使衛伯玉(えいはくぎょく)の行軍司馬(節度副官)をしていましたし、旧友鄭虔(ていけん)の弟鄭審(ていしん)も荊州尹(州次官)になって江陵の使府に勤めていました。
 若いころに斉州で世話になった皇族の李之芳(りしほう)は礼部尚書(正三品)にまで上っていましたが、このときは罪に問われて宜昌(湖北省宜昌市)に流されてきていました。知り合いの者が偶然に江陵に集まっていましたので、杜甫はいよいよ荊州に行く機会が来たと判断したようです。
 年内に柏茂琳をはじめ、夔州で世話になった人々に挨拶を済ませ、夔州を発つ準備をととのえて新年を迎えました。明ければ大暦三年(768)です。正月七日は人日(じんじつ)といって、七種類の野菜を入れた羮(こう)を食べて健康を祝うのが当時の習慣でした。
 詩は中四句を前後の二句で囲む形式ですが、杜甫はすこぶる上機嫌であるのが詩句から窺がえます。そして結びは「早春 重ねて引かる 江湖の興 直ちに道う 行路の難きを憂うる無かれと」、これから江湖遊覧の旅に出かけるが、行路の心配はないと杜甫は皆を安心させています。

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