12月26日(旧暦11月21日 七赤 先勝 庚戌)
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日もとめどなく雪が降っています。
車の運転などには十分な注意が必要です。
今年のプロ野球日本シリーズは、千葉ロッテマリーンズが激闘の末に中日ドラゴンズを破り、5年ぶり4度目の日本一に輝きました。
優勝パレードも、熱狂的なファンの多い球団だけに盛り上がり、無数の紙ふぶきが舞うものとなりました。
野球は日本に入ってきてから完全に定着して、大学野球を初めとして高校野球、スポーツ少年団や中学野球、実業団や各地のアマチュア愛好家など、幅広い年代に受け入れられているスポーツとなっています。
プロ球団も、在京や関西だけでなく、福岡や北海道、仙台などに在籍し、その地元のファンを獲得している球団もあり、または独立リーグといった新たな組織もできています。
テレビ中継での視聴率低下や、独立リーグの経営難など、さまざまな問題があるにせよ、野球の人気の高さというものは相変わらずなものがあると思います。
プロ野球は、興行として観客やスポンサーからお金を集め、選手は年俸をもらってプレーするという形態をとっていることから、いわゆる「職業野球」と呼ばれています。
それに対して実業団や学生などのアマチュアは、プロ行為に関しては制限を設けられており、野球の歴史においてそれはたびたび問題となる出来事もありました。
今日は、1934年(昭和9年)に、日本において初となる職業野球団「大日本東京野球倶楽部」が結成された日となっています。
日本にベースボールが入ってきたのは、1871年(明治4年)、東京開成学校予科(後に旧制一高、現東京大学)にアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが来日して教えたのが始まりでした。
正岡子規がことのほかベースボールに熱中し、自らの幼名「升(のぼる)」から「野球(のぼーる)」という雅号を使用してベースボールの俳句を詠み、数々のベースボール用語を日本語に訳したのは有名な話です。
実際にベースボールを「野球」としたのは、旧制一高(このときは第一高等中学校)の中馬庚(ちゅうまん かなえ)という野球部員でした。
大学野球は、1903年(明治36年)から行われていた早稲田大学と慶應義塾大学の早慶戦で人気が不動のものとなり、それから発展した東京六大学野球が結成され、その人気は絶大なものがありました。
1908年(明治41年)からは、アメリカからメジャーリーガー2人を含んだ野球チームが来日し、現在まで行われている「日米野球」が始まりました。
大学やアマチュアのチームと17試合を行いましたが、アメリカの17戦全勝という結果から、日米の力の差は歴然としていました。
その後も何度か日米野球は行われましたが、依然としてアメリカには歯が立たたないものの、これらの日米野球も大きな人気を博していきました。
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎らによって招聘されたアメリカ・メジャー選抜チームと東京六大学との試合も、興行として大成功をおさめ、1932年にも大スターのベーブ・ルースを呼んで日米野球を行おうとしましたが、ある問題が浮上しました。
この年、文部省が野球統制訓令という法律を作って、学生に興行行為に加わることを禁止したため、六大学を初めとする学生チームは興行としてアメリカチームと対戦することができなくなりました。
そうしたことから、日本にプロチームを結成する必要が出てきて、職業野球団設立へ向けて準備が始まり、日本プロ契約選手第1号に三原脩(後の巨人・西鉄などの監督)が誕生することとなりました。
1934年に行われた日米野球は、ベーブ・ルースやル・ゲーリッグ、ジミー・フォックスを初めとするメジャー選抜チームが来日し、日本の12都市で16試合が行われました。
結果はアメリカが16戦全勝と圧倒したものの、静岡県の草薙球場で沢村栄治が1失点完投を成し遂げる活躍を見せるなど、興行として大いに盛り上がりました。
この後、日米野球に出場した日本軍のうち、選手19人が「大日本東京野球倶楽部」の結成メンバーとなり、翌年のアメリカ遠征で愛称を「東京ジャイアンツ」とし、帰国後に「東京巨人軍」としたことが、現在の読売ジャイアンツの前進となりました。
後に大阪タイガース(現阪神タイガース)を初めとして、プロ球団は各地で結成され、プロリーグ戦も行われましたが、太平洋戦争が始まって選手も召集されることとなり、プロ野球は一時中断されることとなりました。
戦争によって、沢村栄治や景浦将らの若い才能と命が失われました。
戦後まもなくプロ野球も再開されることとなり、戦後の復興と高度経済成長期に野球人気は不動のものとなり、アメリカのベースボールは日本で野球として、国民的スポーツの地位を獲得することとなりました。
参考 プロ野球の歴史
最近ではサッカーなどの野球以外のスポーツも盛り上がるようになり、また娯楽の選択肢が増えたこともあり、一時よりは熱狂度が落ち着いているように思えます。
プロのプレーは球場で生で観戦すると、アマチュアとまた違った雰囲気に圧倒されるかと思います。
職業野球であるがゆえに、結果がすべてである世界は厳しく、一挙手一投足が真剣さをもって伝わります。
秋田ではプロの試合が少ないですが、来年もヤクルトスワローズと阪神タイガースの試合がこまちスタジアムで行われます。
熱狂する試合を望み、プロ野球をこれからも注目していきたいと思います。
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mail kchiba@poem.ocn.ne.jp
おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。
今日もとめどなく雪が降っています。
車の運転などには十分な注意が必要です。
今年のプロ野球日本シリーズは、千葉ロッテマリーンズが激闘の末に中日ドラゴンズを破り、5年ぶり4度目の日本一に輝きました。
優勝パレードも、熱狂的なファンの多い球団だけに盛り上がり、無数の紙ふぶきが舞うものとなりました。
野球は日本に入ってきてから完全に定着して、大学野球を初めとして高校野球、スポーツ少年団や中学野球、実業団や各地のアマチュア愛好家など、幅広い年代に受け入れられているスポーツとなっています。
プロ球団も、在京や関西だけでなく、福岡や北海道、仙台などに在籍し、その地元のファンを獲得している球団もあり、または独立リーグといった新たな組織もできています。
テレビ中継での視聴率低下や、独立リーグの経営難など、さまざまな問題があるにせよ、野球の人気の高さというものは相変わらずなものがあると思います。
プロ野球は、興行として観客やスポンサーからお金を集め、選手は年俸をもらってプレーするという形態をとっていることから、いわゆる「職業野球」と呼ばれています。
それに対して実業団や学生などのアマチュアは、プロ行為に関しては制限を設けられており、野球の歴史においてそれはたびたび問題となる出来事もありました。
今日は、1934年(昭和9年)に、日本において初となる職業野球団「大日本東京野球倶楽部」が結成された日となっています。
日本にベースボールが入ってきたのは、1871年(明治4年)、東京開成学校予科(後に旧制一高、現東京大学)にアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが来日して教えたのが始まりでした。
正岡子規がことのほかベースボールに熱中し、自らの幼名「升(のぼる)」から「野球(のぼーる)」という雅号を使用してベースボールの俳句を詠み、数々のベースボール用語を日本語に訳したのは有名な話です。
実際にベースボールを「野球」としたのは、旧制一高(このときは第一高等中学校)の中馬庚(ちゅうまん かなえ)という野球部員でした。
大学野球は、1903年(明治36年)から行われていた早稲田大学と慶應義塾大学の早慶戦で人気が不動のものとなり、それから発展した東京六大学野球が結成され、その人気は絶大なものがありました。
1908年(明治41年)からは、アメリカからメジャーリーガー2人を含んだ野球チームが来日し、現在まで行われている「日米野球」が始まりました。
大学やアマチュアのチームと17試合を行いましたが、アメリカの17戦全勝という結果から、日米の力の差は歴然としていました。
その後も何度か日米野球は行われましたが、依然としてアメリカには歯が立たたないものの、これらの日米野球も大きな人気を博していきました。
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎らによって招聘されたアメリカ・メジャー選抜チームと東京六大学との試合も、興行として大成功をおさめ、1932年にも大スターのベーブ・ルースを呼んで日米野球を行おうとしましたが、ある問題が浮上しました。
この年、文部省が野球統制訓令という法律を作って、学生に興行行為に加わることを禁止したため、六大学を初めとする学生チームは興行としてアメリカチームと対戦することができなくなりました。
そうしたことから、日本にプロチームを結成する必要が出てきて、職業野球団設立へ向けて準備が始まり、日本プロ契約選手第1号に三原脩(後の巨人・西鉄などの監督)が誕生することとなりました。
1934年に行われた日米野球は、ベーブ・ルースやル・ゲーリッグ、ジミー・フォックスを初めとするメジャー選抜チームが来日し、日本の12都市で16試合が行われました。
結果はアメリカが16戦全勝と圧倒したものの、静岡県の草薙球場で沢村栄治が1失点完投を成し遂げる活躍を見せるなど、興行として大いに盛り上がりました。
この後、日米野球に出場した日本軍のうち、選手19人が「大日本東京野球倶楽部」の結成メンバーとなり、翌年のアメリカ遠征で愛称を「東京ジャイアンツ」とし、帰国後に「東京巨人軍」としたことが、現在の読売ジャイアンツの前進となりました。
後に大阪タイガース(現阪神タイガース)を初めとして、プロ球団は各地で結成され、プロリーグ戦も行われましたが、太平洋戦争が始まって選手も召集されることとなり、プロ野球は一時中断されることとなりました。
戦争によって、沢村栄治や景浦将らの若い才能と命が失われました。
戦後まもなくプロ野球も再開されることとなり、戦後の復興と高度経済成長期に野球人気は不動のものとなり、アメリカのベースボールは日本で野球として、国民的スポーツの地位を獲得することとなりました。
参考 プロ野球の歴史
最近ではサッカーなどの野球以外のスポーツも盛り上がるようになり、また娯楽の選択肢が増えたこともあり、一時よりは熱狂度が落ち着いているように思えます。
プロのプレーは球場で生で観戦すると、アマチュアとまた違った雰囲気に圧倒されるかと思います。
職業野球であるがゆえに、結果がすべてである世界は厳しく、一挙手一投足が真剣さをもって伝わります。
秋田ではプロの試合が少ないですが、来年もヤクルトスワローズと阪神タイガースの試合がこまちスタジアムで行われます。
熱狂する試合を望み、プロ野球をこれからも注目していきたいと思います。
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