岩切天平の甍

親愛なる友へ

Peelander-Z

2007年08月21日 | Weblog

4:30AM集合。車で北へ三時間、ロードアイランド州の農家で早食い競争の撮影・・・。こういうのも、ある。

迎えに来たバンに機材を積み込んで、初対面のドライバー氏にあいさつ。「どうぞよろしく。」大きめのバンで、ゆったりとしている。「いいですね、このバン、自分の車ですか?」「ええ、これでバンドのツアーに行くんですよ。」ダッシュボードにステッカーが貼ってある。Peelander-Z・・・「ぴーらんだーじーって、あなた、ぴーらんだーじー?」「そう、私、ぴーらんだーじー。」「オレ、あんた撮影したことあるよ、ニュージャージーで。」「おおーっ、あんときのー!」

三、四年前にニュージャージーで行われたアニメ・フェスティバルで演奏していたJapanese Action Comic Punk “Peelander-Z”。
当時まだマイナーな催しだったのをいいことに、バンドと一緒にステージに上がって、好き放題に撮影しまくった。
「あの頃、ステージから飛び降りて折った歯がまだそのままなんスよ、ホラ。」見覚えのある前歯の隙間が懐かしい。

早食い撮影を終えての帰り道、街道沿いのダイナーで遅い昼食。サウンドマンのH君が肉の焼き具合は?と聞かれ「ミディアム・レア」と答えたのを聞いて「オーイエーッ!」と叫ぶ。ウエイトレスが「何?彼のをもらうの?」と笑う。「オレ、ミディアムレアって聞くと嬉しくなっちゃうんだよ。」
彼らの曲に“S.T.A.K.E.”ってのがあって、その中で「ミディアムレアー!」って絶叫してたのを思い出した。「んー、あれは名曲だったね。」
「今日の番組に出てた大食いチャンピオンの××さんね、俺、以前テレビで彼が出てるのを見て、そのとき最後の勝負でコンディションが悪いのに彼はあえて脂っこいステーキを選んだんですよ。それに感動してあの曲を書いたの。で、××さんにもCDを送って、メールのやり取りなんかしてたんです。」

 車の天井に全米ツアーのスケジュール表が貼ってある。ヴァージニア、テネシー、ジョージア、オハイオ、イリノイ・・・、ほぼ毎日予定が入っている。「すごいねー、毎日じゃん。」「毎日入れないと、メシ代とホテル代が大変なんすよ。」
大阪芸大を卒業後、ニューヨークに美術留学。絵を描いていた。「絵はね、音楽と違っていまいち反応がよく分からないんですよ。じわーっとくる感じかなー。もどかしくって目の前で絵を描くパフォーマンスしたりとかしてみたんですけどねー、そのうちバンドが忙しくなってきちゃって・・・。」学校を終えて就職した額裝屋で手に職をつけて、仕事には困らなかったけど、塗料が体に悪いので撮影のドライバーに転職したのだそうだ。

ツアーの面白いエピソードを聞いているうちに日が暮れてきて、ひきかえす気もない男達の生き方にうっとりしていたら、あっと言う間にニューヨークに着いた。
げんきがうれしい。




甘え

2007年08月20日 | Weblog

こんな写真が出て来た・・・。

思えば、たくさんの愛をもらって生きて来たと思う。
本当に有り難い事だ。
そして自分の性格の甘さは逆に、この愛に起因しているのかもしれないとも思う。

 僕は子供の頃から労働を与えられ、厳しく育てられた。
母には事あるごとに叱られ、殴られてもいた。
それでいて、いつも最後にはヒステリックに溺愛もされた。

仕事が終わっていようがいまいが夕方には労働から解放され、家に帰された。それは真に積極的に仕事にかかわることを無くし、責任感を育むのを阻んだのかもしれない。そして心の底にいつも最後には許してもらえるのだという、ずるい無意識の甘えを植え付けた。

友人達にも恩師にも同僚達にも恥知らずに「許し」を強要して、今となっては身が縮む思いだけれど・・・生きて来た。

未だにたまった夏休みの宿題を提出できないままのような気分だ。

「人の笑顔が好きだ。」と言うような一見心地よい言葉の裏側には、「自分の間違いを許してもらいたい、甘やかしてほしい。」という逆の意識がひそんでいる。自分が撮影するものにも、そう言った甘えが映っているのかもしれない。

そして今でも仕事のツメが甘い。
この血に染み付いた「甘え」をどうやったらぬぐえるのだろうか。




Tamari

2007年08月19日 | Weblog

四時起床、ミネアポリスからボストン経由でニューヨークへ。
当然預けた荷物は出てこない。一便遅れて届きそうだと言うので、ぼんやりと待つこと一時間半。くたくたになってやっと家に帰り着くやいなや、今日はパークスロープ・フードコープで働く日だ。

びしょびしょになって野菜棚の掃除。帰りに近所のバー“TAMARI”で「うーす、ビールくれぃ!」
気分は肉体労働者って、そのものだな。
千鳥足で帰宅。


Anthon, Iowa

2007年08月18日 | Weblog

スー・シティーから車で一時間、人口五百人の町、Anthonへ。

しゃっくりの世界記録保持者、六十八年間、死ぬまでしゃっくりを続けた、ギネスブックにも載るオズボーンさん、の孫のシャーマンさんに話を聴きに来た。
おじいさんを驚かせてしゃっくりを止めようと、背後でショットガンを撃ってみたけど、止まらなかったそうだ。

何とものんきな仕事。

この町にはかつて世界一の大男もいた。住民は小さな町から二人の世界一が出たのが自慢らしい。

奥さんとお母さんと息子さんと近所の人達が代わる代わるひやかしながら、取材はなごやかに終了。
全員顔に笑みを浮かべながら、もう二度と来ないであろうディープ・ディープ・アメリカを後にする。

こういうなんでもない所に来れて、なんでもない人に会えるのが、この仕事のいいところ。またひとつ思い出してウフフする記憶が出来た。

帰りの便は例によってディレイ。ミネアポリスで足止めを食って、ニューヨークにはたどり着けなかった。




Sioux City, Iowa

2007年08月17日 | Weblog

北米大陸のど真ん中。アイオワ州西部のミシシッピー川の東側に位置するスー・シティは人口約9万の最も有名なスー族の町なのだそうだ。取材先の町にホテルが無いので、今夜はここに泊まる。

夕食にしましょうとディレクターのTさんとイスラエル人サウンドマンのベンと小さな繁華街へ繰り出す。金曜の夜、公園ではカントリー&ウェスタンの生演奏、ピックアップトラックに乗ってビールを飲みに来た人々で賑わう。

テキトーなバーに入ってテキトーに注文する。ビリヤードテーブルがある。「やったことある?」「俺、ない。」「俺は二回くらい・・・。」「やってみよう。」と、のんびりやっていると、小学生くらいの三人組がやって来た。二枚目とデブと女の子、世界共通、完璧な組み合わせだ。けったいな日本人+イスラエル人のへたくそな勝負をじっと見ている。

見られると妙に緊張してますますボロボロになる。へらへらと不気味な薄笑いを浮かべながら、やっと終了。ホッとして彼らにテーブルを明け渡す。
「お待ちどおさま。」
二枚目が馴れた手つきでスッとキューを構えてビシッと打つ。玉がヘチに跳ね返って僕らの料理の上に飛んで来た。「えへへ」と薄笑い。「なんだ、あいつも下手なのか・・・。」

ホテルの近くの映画館で“Rush Hour 3”をやっている。
時間までまだ間があるので街を散歩する。
酔った白人しかいない夜の街を一人で歩くのは恐い。
夜の黒人街を歩くのと同じ、いや、それ以上の恐怖を感じる。

金曜の夜の映画館はほろ酔いの若者達で一杯。まるで映画“ラスト・ピクチャー・ショー”に迷い込んだみたいに不思議な気分。
なんでオレはここに居るんだろう・・・。




高橋信之介

2007年08月16日 | Weblog

ハーレムに住むジャズ・ドラマー、高橋信之介のアパートへ。
庭でとれたキュウリのぬか漬けを心ばかりのお土産に持参する。

若手ナンバー・ワンの信之介はベテランジャズマン達をして「会う度に上手くなる、常に進化しているドラマー。」と嬉しそうに言わせる。本人にそう言うと「練習してますからねぇ。」と笑う。
以前からパンツ一丁で練習している写真を撮らせてよとセマっていた。
そっちの方の趣味があるわけでは無い、念のため。

ドラムを叩いてもいいという条件で入居したという小さな部屋は、ロフトベッドの下にPCの乗った机、あとはドラムセットと練習パッドが占めている、まさにドラムを叩くためだけの部屋、壁には吸音材が張られている。

「・・・で、(写真)どうしたらいいですか?」
「あー、普段通り、必要な練習をしてくれる?」
メトロノームに合わせたパターン練習が始まる。
すぐにステージで見なれた真剣な顔に入り込む。
ブラシやスティックを持ち替え、パターンを変え、楽譜を変えて練習は続く。
汗だくで写真を撮りながら、シンプルな練習なのに、その音に魅了されている自分に気づく。ドラム・セットの隙間にもぐり込んで撮っていると、音に包まれてものすごく気持ちいい。ずっとそこに居たいような気になる。
あれー、これはひょっとして恐ろしく贅沢な体験をしちゃってるのかしら・・・。へへへ、信之介ファンにばれたらやばいなぁ。

「パッドだけでも一時間はやりますよ。一日最低でも三時間、ノッて来るといつまででもやってるけど、さすがに近所があるから六時にはやめるようにしてます。」

ハーレムのアパートで音楽の言葉に磨きをかけて。
夜になるとステージで世界と会話する。
信之介の部屋でシンプルなメッセージを聞く。
たった一つのことをやり遂げるにも、人生はあまりにも短い。
「おまえはどうするんだい?」と言われているようだ。



Crack is wack

2007年08月15日 | Weblog

キース・へリングのやり方が気に入ったので、ニューヨークに残っている彼のパブリック・アートを写真に残しておこうと思いついた。

ウェブで調べると、十カ所以上の壁画を描いたらしい。
ぶらぶらと北の方から責めて行こう。まずはブロンクスへ向かった。

地下鉄五番線の終点にほど近く、電車はとっくに地上を走る。
プリントアウトしたマップクエストをたよりにカメラバッグと三脚を抱えててくてくと歩く。マンハッタンと比べて一ブロックがやたらと長い。
汗が吹き出す。持参のペットボトルはすぐに空っぽ。やっとのことで着いたパブリック・スクールのハンドボール・コートは塗り替えられていて、幼稚園のような絵になっている・・・。

学校の職員に訊いてもキース・へリングさえ知らない。とぼとぼとと帰る。一体俺はいい歳をして、何をやっているんだか・・・。こんな事をやっていたら何も成し遂げられないまま・・・。

ガレージで車を修理していた黒人のおじさんに一番近い駅を教えて貰う。
丁寧に三回も繰り返し念を押して教えてくれた。ぐったりと夕方の電車に座っていると幼稚園児位の子供達がウワーッと歓声をあげて乗って来た。向かいの席に座っているおばあさんがにこにこと眺めている。この人にもこんな時分があったんだなぁ、と想像してみる。どんな気持ちで見ているんだろう。

まあいいか。いろんな人に会ったし、こんな光景も見られたし、それは大切なことだよね。と、立ち直りが早い。以前撮ったことのあったハーレムにある壁画を撮り直して帰った。ゆったりとした夏のハーレムの夕暮れもいい。
正やんの“湘南 夏”が口をついて出る。もうちょっとしゃれた曲が出ないもんかなぁと中学生の頃に染み付いたらしい歌に驚く。




イタコ

2007年08月13日 | Weblog

お盆を前に、故郷に住む姉と電話で話していた。

「ホラ、イタコって言ったかしら、死んだ人と話が出来る人の事、そういう人に会ったのよ。」
「ふーん、それで?」
「母さんは、『娘には弟がいるんですけど、遠い所に住んでいて一人ぼっちだと思うから、私はいつも娘のそばに付いているんですよ。』って言ったんだって。で、父さんは『ただ黙って下を向いて泣いていらっしゃいます。』だって。」

父は僕が十六歳の秋に自殺した。二階で首を吊っているのを見つけた母が、僕に「おろしてやりなさい。」と命じた。ロープを切って、落ちて行く父から顔をそむけたその耳に、頭が床を激しく打つ音が突き刺さったまま今でも消えない。あれから二十六年も経ったというのに・・・。

 僕は死後の世界、霊界といったものを信じる者で無ければ、信じない者でもない。これまでいずれをも確信するに足りる根拠に出会わなかったからなのだけど、ただそういったことにあまり関心を持たないのには理由がある。

神とか霊を持ち出すのは現実と向き合って誠実に具体的に問題と取り組んで行こうとする態度と対立すると考える。だからあまりSFやホラーに夢中になれないのかもしれない。なんて言いながらET見て泣いたけど・・・。

チェーホフは「作家が神とか宇宙とか言い出したらおしまいだ。」というような事を言っていた。

 それにしてもその霊能者が姉の素性を言い当てたのは不思議。
考えてみると、おそらく両親の霊では無くて、何か“姉の意識の中にある両親”というものを話したのではないかとも思う。

話を聞いたカミさんは「イタコの話はともかく、何でお姉さんがそんな所へ行ったのかの方が問題だわね。」と言う。

姉は「じゃあ明日、お墓に迎えに言ってくるわね。」と言って電話を切った。




サンバ

2007年08月12日 | Weblog

スシ・サンバ・レストランで、ジャズ・ギタリスト、井上智のサンデー・ジャズ・ブランチ。今日はドラムス高橋信之助、ベース植田典子のトリオ。
かぶりつきに座ったが、早い時間で客足も遅いらしく、一人で目の前に座っているのも贅沢だけどなんだか居所がなく勝手にもじもじする。
“アラバマに星は降りて”を演ってくれて、うれしかった。
キャノンボール・アダレーのアルバム、“イン・シカゴ”に入っているこの曲が昔から大好きだ。もちろん井上トリオの演奏もサンバらしい。

「平和映画祭」の最終日が二時から始まるので惜しいかなジャズは早退。
映画祭の会場に駆けつけた。

上映された映画はすばらしい。歴史を伝えようとする人達の無償の努力と誠意には頭が下がる。僕は平和のためのどんな活動にも感謝と尊敬こそすれども異を唱える者ではないと断っておきたい。

しかしそこからどこへ行くのか?
ここに集まってくれた人々は、同じ志を持つ、いわば既に分かっている人達であって、我々が切にメッセージを伝えたい相手ではない。
その相手はここへは来ないのだ。
どうしたらこのメッセージを外に向かって発信できるのか。

僕たちは戦後六十年間千羽鶴を折り続け、お経を唱え、そのかたわらイラク侵略の後押しをしている。

映画の中で原爆のドキュメンタリーを見た中国の学生が言う。
「無差別に市民を殺す原爆は残虐だ。ではその手で無差別に市民を殺した日本兵はどうか。爆撃機のスイッチを押すのではなく、その手で犯し、女、子供を銃剣で突き殺した日本人は?」

アメリカは罪の無い人々を殺したと言う。たしかに子供達に罪は無いだろう。しかし大人は違う。あの罪の無い子供達を殺したのはアメリカだけではない。
日本の大人もが子供達をあのようなむごい死に追いやったのだ。
そちらだけが悪いと言っているうちはその先へは進めない。

広島・長崎の主張をかたくなに拒み続ける世界が投げかける疑問をかわすのをやめて、正面から受け止める答えを用意しない限り、誰も話を聞いてはくれないだろう。日本は悪い事をした。そして原爆が落とされた。しかし原爆はいけない。何故なら・・・、何故なら・・・、何故ですか?
無差別だから?後遺症があるから?じゃあバンカーバスターならいいんですか?クラスター爆弾ならいいんですか?
答えを用意しましょうよ。 解るように説明しましょう。黙って鶴を折っていないで。

さもないと、ありもしない人々の恐怖を煽って金儲けをねらう、戦争財閥達に勝てる日は何時になっても来ないでしょう。