裁判官、検察官、弁護士・・法にたずさわる参加者たちの一人が言った。
「We judge evidence.」私たちは証拠を裁くのだ、と。
それに反論する人がある。
「No,We judge people!」いや、そうじゃない、私たちは人を裁くのだ。
多くの同意者がいたらしく、うなずく様子を目の端々に感じる。
我々のプロデューサー氏も「そうだよね。」と言う。
こういった職業の人達は、法律のプロであり、問題を現行の法律に照らし合わせて、それがテクニカルにどう適応するかを判断するのが仕事であり、決して“良いか悪いか”を判断することを求められているのでは無いと考えていた。
人を裁くのではない、事実を裁く。少なくとも理想としてはそうあるべきだろう。もし法が間違っていることもあると言うのなら、裁判を曲げるのではなく、先ずその法律を改正するのでなければ、平等は保たれないだろう。
人を裁くなどと言うのは奢りであり、時代劇でよく見る“人情裁き”などと言うのもどうかなどとたまに苦々しく思うことさえある。
それは1992年にルイジアナ州で起きた日本人留学生射殺事件に関心を持ったことからそう考えるようになった。
ハロウィーンの夜に服部剛丈君を撃ち殺した犯人が陪審員による裁判で無罪となった。
法律の専門家でない陪審員たちの裁判に対する姿勢は当然主観的なものとなる。提出された証拠と法律を客観的に専門的に吟味することが一般人にどれほど出来るのか。そもそも裁判とは人を裁くものだという誤った認識を一般人から取り除くことが出来るのか。疑問はのこされたままだ。
日本でもこの陪審員制度が始まるらしい。
死刑制度といい・・・何で今更とも思うが、
滅び行かんとするアメリカ帝国を
何故にこうにも日本は追っかけたがるのか。