岩切天平の甍

親愛なる友へ

対話と圧力

2003年06月22日 | Weblog

  そもそも対話とは何だろうか? お互いの尊厳を認める基本的な態度(仮に表面だけであっても)無しには成り立たないのではないだろうか? 悪の枢軸と言った様な受け入れがたい侮辱を投げ付けて相手が硬化するのを狙い、米国は北朝鮮を第2のイラクにしようとしているのではないか?

米国は93年の米朝共同声明で武力不使用と主権尊重を約束し、その後、実質的な「体制認知」をうたった。

 それが、ブッシュ政権になっていきなり「悪の枢軸」とされ、米朝間で積み上げた合意文書はほご同然になった。
 そうした不信の連鎖を解きほぐし、北朝鮮に核兵器やミサイル開発を外交的な手段でいかに断念させていくか。

米国のイラクでの劣化ウランの使用は核非拡散条約に抵触しないのだろうか?さらに小型核兵器も開発すると言っており、このような態度では北朝鮮(イランも)を非難する資格も説得力もない。

ラムズフェルド米国防長官は北朝鮮との協議について「彼らを満足させるために何を支払い、何を与えたらいいか、想像もつかない」と言った。
「敬意」ではないだろうか?
まず人として同じ場所に出て行き、対話の場を継続して確保することが最も重要で、その上で、非難や制裁ではなく、違法行為は厳重に取り締まる、という正当な原則で圧力をかけながら、さらなる交渉を試みるべきだ。

北朝鮮に対する日米と韓国の考えに温度差があると言う。
状況が悪化した場合、米、日、韓のなかで地理的に最も切実な脅威を受けるのが韓国で、次に日本、米国となる。平和的解決に対する熱心さがこの逆の順のように見えるのは何故だろうか?
米国の元首は自国民の利益や安全についてしきりに演説するが、他国民の命については関心が無いようだ。アフガニスタンでもイラクでも、他国の犠牲者に対する哀悼の言葉は一度も聞かない。在韓米軍は、現在の駐屯地をもっと南に移動して、有事になった場合の米軍関係者の犠牲を減らそうとしている。
まず敵の反対勢力を支援するという戦略は米国の常套手段である。
日本はその「敵の反対勢力」にされてはいないか?
有事法制はそのあと押しをしてはいないか?
自分の問題なのだから、自分が最初に死になさいということか?

反戦活動は抑止力になったか?

2003年06月21日 | Weblog

反戦活動は抑止力になったか?
あるいはたとえ阻止するには及ばなくても、せめてそれに向けての助力と成り得たのか?
  なぜ多くの国々が反対したのかという事を考えると、もちろん「アメリカの論理がとても同意できるようなものではなかったから」「各国の国益の事情」ということがあるでしょうが、では「民意」は影響力を持ったのでしょうか?政府の方針が決定されるにあたって、政権やそれぞれの政治家にとって「民意」がその他の諸々の事情よりも高い価値を持つ場合(例えばそうしなければ政権の存続にかかわる、あるいは次の選挙に不利であるといった様な)、それなりの影響力を持ち得ただろうと考えます。

人間は何を学んできたのだろうか?
  以前見たNHKスペシャルで、韓国と日本の高校生が連絡を取り合い、歴史のわだかまりに捕らわれない新しい関係を作ろうという試みを紹介していました。その中で両国間の歴史について、韓国の高校生は皆よく知っているのに対して、日本の高校生はほとんど知識がなかった。これはなぜだろう、という話があって、番組では結論めいたことは言わなかったのですが、僕が思ったのは「やった方とやられた方の違い」ではないかということでした。なぐられた事のない者になぐられる痛みは想像できない。アメリカはヒロシマからほとんど何も学んでいない。ではヒロシマはなぐられて、自分がなぐった韓国のことに思いがいっただろうか?
  なぐるばかりでなぐられた事のないアメリカが、精神的に発展することができないまま、その社会は深い病をかかえて、内外に悲惨な犠牲者を出し続けている、可哀相な人たちにも思えます。


殺された側の視点

2003年06月21日 | Weblog

6/20/03 週刊金曜日投書欄
殺された側の視点が欠けたイラク戦争の美化

テレビや新聞でイラクの人々の姿を見ながら、「みんな喜んでいるのだから、この戦争は結局正しかったんじゃないのか」という声が出るだろうと考えていました。

そんな折、五月二八日付の『毎日新聞』の「記者の目」という欄に、同紙記者による「イラク戦争がもたらしたもの」という文章が掲載されました。解放された市民の喜びを見ると、この
“人道的介入”に反対したのは間違いだったのではないかという論旨でした。言うまでもなく、この侵攻は「人道的介入」などではまったくありません。逼迫する危機もないのに、数千、数万もの人間の死が予想される攻撃を行うこと自体が人道に対する罪です。

我々がメディアを通して見るイラク市民の姿は、さまざまな意図を介したものであり、何らかは隠されていると考えなければなりません。そしてそこには、大きく抜け落ちているものがあります。それは殺された者の視点です。死人に口無し、我々には死んでいった何千人もの人々の声は届きません。戦争に反対した人々のその理由はさまざまだったでしょうが、その第一義は「理由もなく人を殺すな」と言うことでしょう。

記事の最後に筆者は、戦争に反対した人々に、「自分たちだけの『平和』にしがみつくことが他人の犠牲や苦しみを長引かせることになりかねない現実」を考えるべきだと呼び掛けています。 しかし、それはこの戦争を推進した者にあてはまるようであっても、世界中で自分の無力さを嘆きながら、殺されてゆく“他者”に心を震わせ、反戦を唱え続けた人々に送るには、まったくふさわしくないように思えます。



朝日「声」投書、ボツ

2003年06月03日 | Weblog

イラク復興が進まない中、侵攻の第一の大儀とされた大量破壊兵器が見つからない事について、もし見つからなかったらこの侵攻をどう説明するのかと言う声が高まっています。たとえ今後、見つかったとしても、この侵攻が正当化されるものではなく、この議論自体が、すでに問題の摺り替えの様に思えます。米英と(日本を含む)同盟国は多くの死傷者を予想しながら、逼迫する危機も無く、確かな根拠も持たないにもかかわらず攻撃に踏み切り、実際に数千の人間を殺し、今尚殺し続けています。
この侵略は政治の為の故意の大量殺人だと言えます。
人々を殺す前にまだやるべきことがある。それが反戦派の第一義でした。
12年間の外交努力と言いますが、米国主導による国連の経済制裁は貧しい市民を苦しめるだけで効果はあがらなかった上に、500万人以上とも言われる命を奪い続け、その上世界の無関心の陰で空爆による殺りくを繰り返してきました。そのどこが市民を解放するための誠実な外交であり、すべての努力を尽くしたと言えるのか?政治の世界では外交とは脅迫や暴力のことだけを言うのでしょうか?