TAZUKO多鶴子

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『土光敏夫』の母の言葉

2008-08-21 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『国は悪によって滅びるのではなく、その愚かさによって滅びる。』
『正しきものは強くあれ』
『個人は質素に、社会は豊かに』
『一人は全体のために、全体は一人のために』
                  …… 土光登美 ……

<土光登美は、土光敏夫の母であり、晩年(70歳)になって学校を創設した。>

『土光敏夫』

土光 敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、昭和時代の男性エンジニア、実業家、財界人。第4代経済団体連合会(経団連)会長。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。称号は岡山県名誉県民。
*質素な生活*
行政改革を推進する宣伝として、昭和57年(1982年)にNHKで「NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」というテレビ番組が放送された。その内容は、土光の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。土光の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
穴とつぎはぎだらけの帽子。
戦前から50年以上使用しているブラシ。
妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と二人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。2003年3月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際ゲスト出演した瀬島龍三によれば、ある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区の婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
また、普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく、微々たる生活費(月10万円を超えることがなかったという)以外の残りの多額の収入は、すべて横浜市鶴見区にある私立校の橘学苑に寄付されていた。
普段の生活は一般庶民よりも質素であったことはつとに知られている。家の中のことはもとより、経団連会長になってからも、仕事でも通勤にはお抱え運転手どころかバス・電車を利用していた。疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね、夫人に土光の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くに、といぶかしむと、「今でたところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。すぐさまバス停に向かうと果たして土光はバス停でバスを待っていた。この時に検事は彼の無罪を確信したと後に述べている(若林照光『土光敏夫人望力の研究』 PHP研究所〈PHPビジネス文庫〉、1983年、108頁)。 経団連会長就任後、経団連会長は全国に講演などの仕事に向かうが、前泊し2泊3日の予定が今までの慣例だったが、そこでの地方側からの夜の接待を全廃した。接待をすべて断り、すべて日帰り出張という年齢的には非常な強行軍を行った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。また前記の 通り夜の会合を廃止する変わりに朝食会を頻繁に開いたため朝に弱い 財界首脳は困り果てたという。また土光は著書や自伝を週刊誌に連載していたことがあるがいずれも土光へのインタビューなどを元にゴーストライターが著したもので本人が直接筆を取った事は一度もなくよく「意図と違う事がかかれている。」と嘆いていたとと当時秘書で後に帝京大教授を務めた居林次雄が自著に記している。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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