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TAZUKO多鶴子

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『長谷川等伯』と『海北友松』

2007-11-13 | TAZUKO多鶴子からの伝言

京都に転居して
僅かではありますが水墨画を鑑賞する機会が多くなりました。
その中の水墨画で印象に残ったのは
『長谷川等伯』と『海北友松』の二人の絵師です。
ともに安土桃山時代~江戸時代に活躍した作家ですが
色々と調べてみると何故だか共通点が幾つも発見できます。
奥深い内容はあまりにも文章が長くなるので
一部だけを今日と明日のブログで皆様にご紹介しようと思います。
今日は『長谷川等伯』です。
たしか…
私の記憶では『雪舟』を師とし古典的描法と独自の画法を取り入れた
独特の世界を表現した絵師としての朧げな記憶が…
手元に資料が無い為、
今日は『Wikipedia』の内容をご紹介しようと思います。
下記を是非ご覧下さい。


        <長谷川等伯>
1539年、能登(現・石川県七尾市)に生まれる。
はじめ長谷川信春を名乗り、仏画などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。
当時の主流であった狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち、独自の画風を確立。
日蓮宗の熱心な信者であり、また千利休とも親交を持っていた。
しかし、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男・久蔵に先立たれ、
晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど、私生活は不幸であった。
後に徳川家康の要請により江戸に下向するが、江戸到着後2日目にして病死した。
 *代表作*
豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の
金碧障壁画(その一部が現在、京都・智積院に伝存)が代表作。
金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。
「松林図」屏風は、その伝来、製作の事情など不明な点が多いが
(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)、
400年前の作品とは思えない斬新な作品である。
極限にまで切り詰めた筆数と黒一色をもって、松林の空間的ひろがりと、
そこにただよう湿潤な大気とを見事に表現している。
長谷川等伯の残した作品の多くは、重要文化財に指定されている。


参考資料:『Wikipedia』内『長谷川等伯』