八乙女館から根白石方面の道路に出てすぐの丁字路を右折し、林泉寺、仙台市営バス実沢営業所を過ぎた200メートルほどの右側に「熊野神社」がある。
参道は道路の裏側になっており、急な石段を上って拝殿に辿り着く。
◆ 鳥居の左に檜様の「コウヤマキ」の大木が見える
◆ 拝殿
◆ 本殿
鳥居の右側にある市の史跡説明書きによると
この神社は、慶長年間(1596~1615)八乙女淡路守盛昌が藩主国分氏の没落後、伊達政宗に旧領地を許され実沢八乙女の館に移り住んだ折、氏神として勧請したといわれている。
八乙女氏が北根村に転出すると元和元年(1615)に現在の地に社殿を造営して奉遷し実沢地域の守神としてお祀りした。
境内には嘉永5年(1852)建築の修験道場があったが、昭和53年(1978)の宮城県沖地震で大破した。
現在はその場に社務所が建っている。
明治5年(1872)村社に奉られ皇室の弥栄と氏子崇敬者の家内安全、五穀豊穣を祈願してきた。
近年は実沢地域(現在の泉区実沢、館、南中山、北中山、西中山、寺岡、紫山、高森の一部)を始め各地からの参拝者も増えている。
という。
以前、北中山に住んでいた時には、初詣やどんと祭などの祭にお世話になった神社である。
境内には、入ってすぐ右側に「鞍掛石(くらかけいし)」と「力士石(りきしいし)」がある。
「鞍掛石(くらかけいし)」は、八乙女氏の氏神がこの地に奉遷された際、家臣が馬の鞍を掛けた石として保存されているものだと言う。
「力士石(りきしいし)」は、昔中山(ここより2㎞)に相撲取り場があったが、錏山(しころやま)という強い豪傑力士が高下駄をはいて相撲取り場にあった石を担いで来て、どさっと置いたままの原石だと言われる。
鳥居の左脇にある「コウヤマキ」の大木は区内随一であると言われるものである。
また。神社の西側、道路脇に沢山の石碑が並んでいた。
馬頭観世音を中心に200年以上前のものから最近のものまで約20基余り、おそらく付近から集積されたものと思われる。
参道は道路の裏側になっており、急な石段を上って拝殿に辿り着く。
◆ 鳥居の左に檜様の「コウヤマキ」の大木が見える
◆ 拝殿
◆ 本殿
鳥居の右側にある市の史跡説明書きによると
この神社は、慶長年間(1596~1615)八乙女淡路守盛昌が藩主国分氏の没落後、伊達政宗に旧領地を許され実沢八乙女の館に移り住んだ折、氏神として勧請したといわれている。
八乙女氏が北根村に転出すると元和元年(1615)に現在の地に社殿を造営して奉遷し実沢地域の守神としてお祀りした。
境内には嘉永5年(1852)建築の修験道場があったが、昭和53年(1978)の宮城県沖地震で大破した。
現在はその場に社務所が建っている。
明治5年(1872)村社に奉られ皇室の弥栄と氏子崇敬者の家内安全、五穀豊穣を祈願してきた。
近年は実沢地域(現在の泉区実沢、館、南中山、北中山、西中山、寺岡、紫山、高森の一部)を始め各地からの参拝者も増えている。
という。
以前、北中山に住んでいた時には、初詣やどんと祭などの祭にお世話になった神社である。
境内には、入ってすぐ右側に「鞍掛石(くらかけいし)」と「力士石(りきしいし)」がある。
「鞍掛石(くらかけいし)」は、八乙女氏の氏神がこの地に奉遷された際、家臣が馬の鞍を掛けた石として保存されているものだと言う。
「力士石(りきしいし)」は、昔中山(ここより2㎞)に相撲取り場があったが、錏山(しころやま)という強い豪傑力士が高下駄をはいて相撲取り場にあった石を担いで来て、どさっと置いたままの原石だと言われる。
鳥居の左脇にある「コウヤマキ」の大木は区内随一であると言われるものである。
また。神社の西側、道路脇に沢山の石碑が並んでいた。
馬頭観世音を中心に200年以上前のものから最近のものまで約20基余り、おそらく付近から集積されたものと思われる。