「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

熊野神社(実沢字熊野山)

2015年04月20日 | 日記
八乙女館から根白石方面の道路に出てすぐの丁字路を右折し、林泉寺、仙台市営バス実沢営業所を過ぎた200メートルほどの右側に「熊野神社」がある。



参道は道路の裏側になっており、急な石段を上って拝殿に辿り着く。


 ◆ 鳥居の左に檜様の「コウヤマキ」の大木が見える


 ◆ 拝殿


 ◆ 本殿

鳥居の右側にある市の史跡説明書きによると



この神社は、慶長年間(1596~1615)八乙女淡路守盛昌が藩主国分氏の没落後、伊達政宗に旧領地を許され実沢八乙女の館に移り住んだ折、氏神として勧請したといわれている。
八乙女氏が北根村に転出すると元和元年(1615)に現在の地に社殿を造営して奉遷し実沢地域の守神としてお祀りした。
境内には嘉永5年(1852)建築の修験道場があったが、昭和53年(1978)の宮城県沖地震で大破した。
現在はその場に社務所が建っている。
明治5年(1872)村社に奉られ皇室の弥栄と氏子崇敬者の家内安全、五穀豊穣を祈願してきた。
近年は実沢地域(現在の泉区実沢、館、南中山、北中山、西中山、寺岡、紫山、高森の一部)を始め各地からの参拝者も増えている。
という。


以前、北中山に住んでいた時には、初詣やどんと祭などの祭にお世話になった神社である。

境内には、入ってすぐ右側に「鞍掛石(くらかけいし)」と「力士石(りきしいし)」がある。

「鞍掛石(くらかけいし)」は、八乙女氏の氏神がこの地に奉遷された際、家臣が馬の鞍を掛けた石として保存されているものだと言う。



「力士石(りきしいし)」は、昔中山(ここより2㎞)に相撲取り場があったが、錏山(しころやま)という強い豪傑力士が高下駄をはいて相撲取り場にあった石を担いで来て、どさっと置いたままの原石だと言われる。



鳥居の左脇にある「コウヤマキ」の大木は区内随一であると言われるものである。



また。神社の西側、道路脇に沢山の石碑が並んでいた。
馬頭観世音を中心に200年以上前のものから最近のものまで約20基余り、おそらく付近から集積されたものと思われる。







桜田良佐の墓(実沢桐ケ崎屋敷)

2015年04月19日 | 日記
根白石から泉パークタウン寺岡に出る少し前の桐ケ崎屋敷という所に「桜田良佐の墓」の案内版がある。



桜田良佐は広く世の中に知られている訳ではないが、根白石の生んだ幕末から維新にかけての著名人と言っても過言ではない。

お墓は、実家と思われる屋敷裏手の杉林の中にある。
案内版の脇にはロープが張られていたが失礼して中まで入ってみた。

草地を歩いて50~60メートル位奥に入ると



杉林の木陰にかれるような形で市教育委員会の紹介版があった。



そこには氏に関する経歴などが次のとおり詳細に記されていた。

櫻田良佐(さくらだりょうすけ)(1797~1876)の墓
 名は景迪(かげみち) 字は子恵、号は簡斎。
仙台藩士櫻田景明の二男として生まれ、幼少より 仙台藩が生んだ偉大な思想家・叔父櫻田欽斎に従って経史、兵法等を学んだ。初め仙台藩からの出向の形で下野佐野城主堀田正敦(第六代仙台藩主伊達宗村の子)に仕え、その推挙により本藩の大藩士に抜擢された。
40歳の時召されて仙台に帰り、出入司に登用されたが間もなく辞し、邸内に済美館を設けて文武の教育に従事した。
その後 兵学の研究を深め、54歳の時火器を重視した極めて近代的な大成流兵学を創始、60歳の時兵具奉行、翌年には講武所指南役に任ぜられて藩の軍制改革をめざしたが、度重なる飢饉等で極度に悪化していた藩財政はこれを許さなかった。
この頃その名声を聞いて訪れた庄内の志士清川八郎と交友、次第に勤王思想に感化され藩内勤王派の思想的指導者になったが、保守的な仙台藩においては少数派にとどまり、67歳の時罰せられて松山村の茂庭氏邸に幽閉された。幽閉は明治維新前年までの5年間に及び、その間赧然居士(たんぜんこし)と称してひたすら著述に努めた。
維新後は敗戦処理及び旧佐幕派の一掃に努力、さらに藩の議事局議長、勤政庁外事局長として政体復古百度一新の政を実行しようとした。
しかし、藩政時代の上層支配武士層を残した仙台においてその志を得ることは難しく、74歳の時勤政庁組織の変更に伴い職を辞した。
以後 根白石村に隠棲して世事を談ぜず、明治9年10月4日享年80歳で没し、自宅の裏山 に葬られた。
なお、明治41年には正五位を追贈されている。
墓石は向って左が 良佐、右は妻のものである。
仙台市教育委員会


そこから大矢石を敷き詰めた緩やかな階段を進むと「桜田良佐の墓」の母標と2基の墓石が並んでいた。



左の墓石には「桜田迪君之墓」と刻まれていた。

左には一族のものと思われる墓石が整然と建てられていた。

※「幕末の仙台藩においては、討幕派の桜田良佐・遠藤文七郎・中嶋虎之助らと、佐幕派の但木土佐・坂英力・玉虫左太夫・大槻磐渓らとの激しい抗争が展開された」との解説もある。


何となく吉田松陰に似た方だとの印象を持ちながらそこを後にした。



東原屋敷のみちしるべ(野村東原屋敷)

2015年04月18日 | 日記
先日、泉中央行のバスの中から石碑がないかと見渡していたら、須賀神社を過ぎたあたり、「野村小学校」向いの車の修理工場の敷地脇にそれらしきものを1つみつけた。



翌朝、早くに現地へ行ってみた。
「みちしるべ」が刻まれた「馬頭観世音」だった。



向って右側に「右ハせんたい」と鮮明に文字が浮かんで見えた。

左側は 風化して彫りが浅く読みにくかったが、



何とか「左ハなゝきた」と読みとることが出来た。


「寛政八年(1796年) 十一月吉日 施主 傳四良」とあり、時期は220年ほど前のものだった。

方角から野村小学校側にあったのではないかと推測されるが、土台がコンクリートで固められて比較的新しいことから、後にこの場所に移転したものと思われる。



枝垂れ桜と種まきの支度

2015年04月17日 | 日記
お隣の枝垂れ桜がいよいよ満開の時期を迎えたようです。
毎年のことながら、高く、長く伸びた枝々が花の重さにじっと耐えながらその美しさを支えているようです。



花の下で、今年も燻炭づくりがはじまりました。



ゆらゆらとたなびく白い煙が桜の花の美しさを一層引き立たせてくれています。

そろそろ稲苗づくりの準備でしょうか。


田圃に水が引かれると、水面に館蔭の杜の影が映り、辺りは蛙の歌声で賑やかになります。

宝積寺前の桜並木

2015年04月16日 | 日記
昨夕の春雷と雨で、咲いてまだ間もない館蔭の杜の桜も色が薄くなりかけた。

朝、雲間から日が射してきたのでカメラを担いで辺りをぐるーっと周った。

まず、杜の西端の坂を下りながら住吉台の家並みをバックに1枚。



宝積寺前の川端の桜並木は年老いているが今年もまた美しい姿を見せてくれていた。

柳の新芽と空ををバックにして1枚。



「馬橋」の方に向って並木の桜を1枚。



川崎阿弥陀への道に向って1枚。



枝の下から泉ケ岳を拝んでもう1枚。



若枝の花ビラに近寄って2~3枚。







そのうち、日が陰りだしたので帰り道で「お城」に向って2枚ほど。





撮り納め、お隣の見事な枝垂れ桜を「お山」とツーショットで納めました。






桜、さくら、庭の花海棠が花開くまで、そして来年もまた、ずーっと美しい姿を見せてほしい。








長命館跡(泉区加茂2丁目)

2015年04月15日 | 日記
北環状線から泉パークタウン方面へ向い、途中を右折して加茂神社から400メートル位の右側に「長命館跡」の登り口がある。
城跡は団地の造成に伴って公園化されており、ここは「北門入口」と表示されている。
数台の駐車スペースがあり、城跡に関する詳しい案内図や説明書きがある。



この城跡は「戦国期に地域を支配していた国分氏の家臣でこの地の領主であった長命氏が高さ90mほどの丘陵の地形を巧みに利用して築いた館跡」と言われている。

※ ただ、奥州藤原氏の陣所「国府中山上物見岡」とする説や、錦戸太郎国秀(藤原秀衡の長男=西木戸太郎国衡)説などがあり城主は不明とも言われている。

いずれにしても、昭和60年(1985年)の発掘調査の結果から鎌倉時代中期以降の館跡であることが判明しており、城の規模は東西250メートル南北250メートルで、内部は5つの郭に分かれ、それぞれ空堀・土塁・土橋などによって構成され、高い防御性を持った要害と評価されている。

階段と落ち葉で滑りやすい急勾配の道を曲がりくねりながら上を目指すことにした。



途中に季節は過ぎたが「かたくり」の花が咲いていた。



150メートル位昇ると広い平地 (郭) に出た。展望台があり桜も咲いて見晴らしの良いところである。



5つあるという郭はそれぞれ築地で高く独立しており、その周りを道が取り囲むように配置されていた。



道の外側は鬱蒼と杉の生い茂った深い谷となっており、まさに山城の様相を呈していた。



次の所は比較的規模が小さい3つの平地が高さを変えて段状にされていた。



外側の道を南の方に進むと、やはり小高い所に規模の大きい広場があった。
周りを桜の木で囲まれており、何人かシートを敷いてお花見の準備をしていた。



そこから下りた所も広場になっており「冠木門」という表示があった。
ここは南側の入口になっており道路からも近く北門に比べると緩やかな登り口だった。



「冠木門」から案内にしたがって左回りに「館跡」を目指したが、途中で小さな石碑が目についた。
「山神」で回りにお堂の屋根の欠片が散らばっていた。



「館跡」は最も高い所にあり、瓢箪の形をしていて広い方の部分に「四阿」があった。
周囲を郭群に囲まれて、まさに「本丸」といった位置にあった。



帰りには、木立の間から野村の「シェルコム」ドームを見ながらゆっくり階段を下りた。



この北門入口の右脇に「長命瀧不動尊」がありました。



沢水の流れ落ちる薄暗いところに直立不動の姿勢でひっそりと立っていた。
右の牙が上を向き左の牙が下を向いていて怖い形相をしていた。



脇に碑があり「長命瀧不動尊 慶應4年(1868)3月28日」とあった。



この長命滝不動尊は「島滝不動尊」ともいい、もとは長命堤の上流の沢に祀られていたものを宅地造成に伴いこの場所に移転されたといわれる。


入口の説明書きにあるとおり、この城跡は「山城」「要塞」といった印象で、若干足の不自由な自分にはキツイところがあったがお花も見ることが出来て満足のいく散策となった。





賀茂神社(泉区古内)

2015年04月14日 | 日記
北環状線から泉パークタウン方向に500メートルほどのところで右折し、300メートル位進むと賀茂神社がある。
新年には詣客で大変混雑する人気の神社である。

今頃の季節、賀茂神社は周囲の桜と境内にある木々の新芽とのコントラストが美しい。



鳥居から石段を上った所に宮城県指定の天然記念物「イロハモミジ」がある。



樹齢200年以上の20メートル近い2本の大木から覆い被さるように枝が垂れ下がり黄金色に萌えていた。



振り向くと新芽が鳥居の真っ赤な色に映えて言いようもない美しい景色であった。

狛犬もこの素晴らしい景色を楽しんでいるかのようだった。



100メートルほどの参道は両側の杉林に囲まれて鬱蒼としていたが、



その先に拝殿の社が朝日を浴びて浮き上がって見えた。



社の右側に2本の「アラカシ」(宮城県が北限と言われるブナ科の植物)の古木がある。

これも仙台市の指定文化財で樹齢200年以上という。


◆アラカシの奇木・・節くれだった幹が支柱によりかかるように立っている

賀茂神社は、明応6年(1497年)に留守氏が創建した社でもとは塩釜神社の内社だったが、元禄8年(1695年)に四代藩主伊達綱村によって現在地に移されたという。



本殿は京都の賀茂神社と同じく「上賀茂神社」と「下賀茂神社」の二社からなり、建物は両社とも宮城県の文化財に指定されている。


◆上賀茂神社(別雷神社)


◆下賀茂神社(御祖神社)


◆神輿蔵

また、上賀茂神社の脇には「タラヨウ」の木がある。
常緑の広葉樹で、まさにご神木といった姿で真っ直ぐ空に向って伸びていた。


◆樹高17m、樹齢200年(宮城県指定天然記念物)


拝殿の向って左側に「八咫烏神社」がある。

八咫烏(やたがらす)は、日本神話において神武東征の際、熊野国から大和国への道案内をしたとされ、三本足のカラスとして知られ、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。



覆屋の正面に「八咫烏社」の社額が掲げられ、中の本殿は相当古いものと思われる。




そのすぐ脇に「道祖神」の小さな祠も建っている。

泉区4道祖神の一つとも言われる








八乙女館跡(実沢字道祖神)

2015年04月13日 | 日記
北中山から泉ケ岳方面に進んで早坂橋という橋を越えた左手の萱場川と八乙女川の挟まれたこんもりとした段丘に「八乙女館」という古城跡がある。

地区の集会所を少し過ぎた道路右端に市の史跡説明書きがあった。



この館の初代城主は「八乙女淡路守盛昌」で鎌倉時代に国分氏から分家した一族であるが、天正年間に国分氏とともに伊達政宗に滅ぼされたと伝えられている。


史跡説明書きの左手は道路があり、右手には草の茂った小道がある。



右手の細い小道を50メートルほど登って行くと、



右側は鬱蒼とした杉林で空濠が切ってあり、



左側は高く土塁が施されていた。



坂を上り切った所に周囲を杉林に囲まれた広びろとした畑地が広がっていた。

ここが「八乙女館」の建物跡だと言われる。東西100メートル位、南北50~60メートル位はあった。



畑の右側奥は萱場川に接した断崖で、東日本大震災の際に一部が崩落していて近寄るのが危険な状態だった。



◆ 萱場川から八乙女館の跡がを見ると断崖絶壁となっている。



また、説明書きから左手の細い道を進むと、少しして右に大きく曲がり先ほどの台地に繋がっているが相当な土盛りが施されていた。



この道路の左側にも広い窪地があった。周囲を土塁で区画されていることから建物の跡と思われた。


 
八乙女氏は、天正16年(1588年)に伊達氏への服属と旧領の所領を認められたと言われるが、こちらが服属してからの屋敷跡ではないかと言われれている。
                                                   
八乙女氏は、その後七北田の八乙女真美沢に移り農地の開拓や治水事業などに貢献したと言われている。


この城跡を眺めながら、ここ「八乙女館」と七北田の「八乙女」という地名との関わりについても理解することができた。




山野内城址・万人淵(実沢六堂屋敷)

2015年04月12日 | 日記
以前住んでいた北中山の町内に隣接して二つの城跡がある。

その1つが、家から3百メートル位のところの通称「ウケスケ山」にある「山野内城跡」である。
町のコミュニティセンターと地続きの平凡な雑木林であるが、反対側から見ると相当な急勾配の山で、いかにも城跡らしいと頷ける。




※後日(4月21日)撮影…周囲が綺麗に刈り込みされていた

北環状線から寺岡・紫山に向う途中の「常盤木学園高サッカー練習場」に入る道路の脇に、市の史跡紹介の看板があり、階段が設置されているので登ってみた。



鬱蒼とした藪の中に埋まるような階段を登ったが相当な急勾配である。途中に茶色の焼き物のお堂があり、更に階段を上った平場に阿弥陀堂が建っていた。



上に数か所廓跡の平場があるというので登ろうとしたが、急勾配とぬかるんで滑るため諦めた。



ここの最初の城主は山内須藤刑部少輔藤原安定であるといわれる。
何代か後の子孫須藤定信が天正12年(1584年)に根岸城(大念寺山)の結城七郎朝光と争って敗れ、泉区内の西田中にあった「杭城」に逃れたが、更に追われ最後は近くの福岡川崎で自刃したと言う。

この城の脇を七北田川が流れており、落城の際に城中の女・子供が断崖から身を投げたといわれ、この人達の怨念が泡なって吹き出して絶えることがないことから、ここを「万人淵」と呼んで恐れたという。

2011年の東日本大震災で、この城跡付近の断崖が大きく崩れたため、現在、残土の受入場を兼ねながら修復が行われている。




なお、中世の実沢には「山村宮」という南朝の皇子と推定される人物が「山邑城」に住んでいたと伝えられるが、「山邑城」は「山野内城」と同じところにあったとみられている。




朴沢小屋原のみちしるべ

2015年04月11日 | 日記
朴沢の「亀の子石群」から左に入って直進し、上高野原を過ぎた「小屋原」という地区の Y 字道路の分岐点に「みちしるべ」が立っている。
宮城県の山火事防止の看板と並んでいて見にくいが、高さ1メートル余りの白い角柱4面に案内文が彫られていた。



正面には



   左 泉ケ岳に至ル  二里半余
                 光明の瀧不動尊迄  五丁
                 猿 岩 迄     一里
                 桑 沼 迄     三里
                 船形山 迄     六里

右面には

 

   右 黒川郡宮床村字難波ヨリ吉田  約五里      
     村ヲ經テ加美郡大城寺ニ至ル    
                     瀧ノ原湯迄一里七丁
                     蛇 石   一里半
                     大森薬師如来 二里
                     堂ケ森   二里余半

左面には


 
   根白石村役場ニ至ル       五千三百六十五米
                        一 里 十 丁

後面には



   昭和五年九月二十八日   朴澤小屋原青年建設
                    本標所在地朴澤小屋原裏ノ原

約85年前に設置されたものであった。

左の道は、途中まで舗装されていたが、すぐに未舗装の山道になり「落石注意」などの表示があったのですぐに引き返した。

また、右の道は、山道そのものであったため進まなかった。