「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

山野内城址・万人淵(実沢六堂屋敷)

2015年04月12日 | 日記
以前住んでいた北中山の町内に隣接して二つの城跡がある。

その1つが、家から3百メートル位のところの通称「ウケスケ山」にある「山野内城跡」である。
町のコミュニティセンターと地続きの平凡な雑木林であるが、反対側から見ると相当な急勾配の山で、いかにも城跡らしいと頷ける。




※後日(4月21日)撮影…周囲が綺麗に刈り込みされていた

北環状線から寺岡・紫山に向う途中の「常盤木学園高サッカー練習場」に入る道路の脇に、市の史跡紹介の看板があり、階段が設置されているので登ってみた。



鬱蒼とした藪の中に埋まるような階段を登ったが相当な急勾配である。途中に茶色の焼き物のお堂があり、更に階段を上った平場に阿弥陀堂が建っていた。



上に数か所廓跡の平場があるというので登ろうとしたが、急勾配とぬかるんで滑るため諦めた。



ここの最初の城主は山内須藤刑部少輔藤原安定であるといわれる。
何代か後の子孫須藤定信が天正12年(1584年)に根岸城(大念寺山)の結城七郎朝光と争って敗れ、泉区内の西田中にあった「杭城」に逃れたが、更に追われ最後は近くの福岡川崎で自刃したと言う。

この城の脇を七北田川が流れており、落城の際に城中の女・子供が断崖から身を投げたといわれ、この人達の怨念が泡なって吹き出して絶えることがないことから、ここを「万人淵」と呼んで恐れたという。

2011年の東日本大震災で、この城跡付近の断崖が大きく崩れたため、現在、残土の受入場を兼ねながら修復が行われている。




なお、中世の実沢には「山村宮」という南朝の皇子と推定される人物が「山邑城」に住んでいたと伝えられるが、「山邑城」は「山野内城」と同じところにあったとみられている。