「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

桜田良佐の墓(実沢桐ケ崎屋敷)

2015年04月19日 | 日記
根白石から泉パークタウン寺岡に出る少し前の桐ケ崎屋敷という所に「桜田良佐の墓」の案内版がある。



桜田良佐は広く世の中に知られている訳ではないが、根白石の生んだ幕末から維新にかけての著名人と言っても過言ではない。

お墓は、実家と思われる屋敷裏手の杉林の中にある。
案内版の脇にはロープが張られていたが失礼して中まで入ってみた。

草地を歩いて50~60メートル位奥に入ると



杉林の木陰にかれるような形で市教育委員会の紹介版があった。



そこには氏に関する経歴などが次のとおり詳細に記されていた。

櫻田良佐(さくらだりょうすけ)(1797~1876)の墓
 名は景迪(かげみち) 字は子恵、号は簡斎。
仙台藩士櫻田景明の二男として生まれ、幼少より 仙台藩が生んだ偉大な思想家・叔父櫻田欽斎に従って経史、兵法等を学んだ。初め仙台藩からの出向の形で下野佐野城主堀田正敦(第六代仙台藩主伊達宗村の子)に仕え、その推挙により本藩の大藩士に抜擢された。
40歳の時召されて仙台に帰り、出入司に登用されたが間もなく辞し、邸内に済美館を設けて文武の教育に従事した。
その後 兵学の研究を深め、54歳の時火器を重視した極めて近代的な大成流兵学を創始、60歳の時兵具奉行、翌年には講武所指南役に任ぜられて藩の軍制改革をめざしたが、度重なる飢饉等で極度に悪化していた藩財政はこれを許さなかった。
この頃その名声を聞いて訪れた庄内の志士清川八郎と交友、次第に勤王思想に感化され藩内勤王派の思想的指導者になったが、保守的な仙台藩においては少数派にとどまり、67歳の時罰せられて松山村の茂庭氏邸に幽閉された。幽閉は明治維新前年までの5年間に及び、その間赧然居士(たんぜんこし)と称してひたすら著述に努めた。
維新後は敗戦処理及び旧佐幕派の一掃に努力、さらに藩の議事局議長、勤政庁外事局長として政体復古百度一新の政を実行しようとした。
しかし、藩政時代の上層支配武士層を残した仙台においてその志を得ることは難しく、74歳の時勤政庁組織の変更に伴い職を辞した。
以後 根白石村に隠棲して世事を談ぜず、明治9年10月4日享年80歳で没し、自宅の裏山 に葬られた。
なお、明治41年には正五位を追贈されている。
墓石は向って左が 良佐、右は妻のものである。
仙台市教育委員会


そこから大矢石を敷き詰めた緩やかな階段を進むと「桜田良佐の墓」の母標と2基の墓石が並んでいた。



左の墓石には「桜田迪君之墓」と刻まれていた。

左には一族のものと思われる墓石が整然と建てられていた。

※「幕末の仙台藩においては、討幕派の桜田良佐・遠藤文七郎・中嶋虎之助らと、佐幕派の但木土佐・坂英力・玉虫左太夫・大槻磐渓らとの激しい抗争が展開された」との解説もある。


何となく吉田松陰に似た方だとの印象を持ちながらそこを後にした。