「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

八乙女館跡(実沢字道祖神)

2015年04月13日 | 日記
北中山から泉ケ岳方面に進んで早坂橋という橋を越えた左手の萱場川と八乙女川の挟まれたこんもりとした段丘に「八乙女館」という古城跡がある。

地区の集会所を少し過ぎた道路右端に市の史跡説明書きがあった。



この館の初代城主は「八乙女淡路守盛昌」で鎌倉時代に国分氏から分家した一族であるが、天正年間に国分氏とともに伊達政宗に滅ぼされたと伝えられている。


史跡説明書きの左手は道路があり、右手には草の茂った小道がある。



右手の細い小道を50メートルほど登って行くと、



右側は鬱蒼とした杉林で空濠が切ってあり、



左側は高く土塁が施されていた。



坂を上り切った所に周囲を杉林に囲まれた広びろとした畑地が広がっていた。

ここが「八乙女館」の建物跡だと言われる。東西100メートル位、南北50~60メートル位はあった。



畑の右側奥は萱場川に接した断崖で、東日本大震災の際に一部が崩落していて近寄るのが危険な状態だった。



◆ 萱場川から八乙女館の跡がを見ると断崖絶壁となっている。



また、説明書きから左手の細い道を進むと、少しして右に大きく曲がり先ほどの台地に繋がっているが相当な土盛りが施されていた。



この道路の左側にも広い窪地があった。周囲を土塁で区画されていることから建物の跡と思われた。


 
八乙女氏は、天正16年(1588年)に伊達氏への服属と旧領の所領を認められたと言われるが、こちらが服属してからの屋敷跡ではないかと言われれている。
                                                   
八乙女氏は、その後七北田の八乙女真美沢に移り農地の開拓や治水事業などに貢献したと言われている。


この城跡を眺めながら、ここ「八乙女館」と七北田の「八乙女」という地名との関わりについても理解することができた。