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ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

児童文学・児童文化としての『手をつなぐ子等』ー紙芝居のこと

2018年12月06日 20時57分19秒 | 田村一二

振り返って、田村の教育文学の出発は、「もつと活発に社会に働きかけてもいいと思ふ」(前出『鋏は切れる』)と決意して著作にした『忘れられた子等』であり、続いて『石に咲く花』、そしてこの『手をつなぐ子等』が出された。だから、この一連の著作の連続性を考慮する必要がある。『手をつなぐ子等』は、戦中においてその社会に働きかける一つの到達点だったのではないだろうか。こういうと、戦後に「世に出た」というを長谷川の評価には疑問が残る。

とはいえ、田村自身も言っているように、内容においては、『忘れられた子等』『石に咲く花』が、特別学級を中心とした者であるのに対して、『手をつなぐ子等』は、通常学級という違いもあり、また、形式においても、『忘れられた子等』がエピソードの点描を集積したものであり、『石に咲く花』がエピソードを3話に構成した短編集とも言えるもの。そして『手をつなぐ子等』が長編ということになる。

すでに『忘れられた子等』の成立については、日出新聞の連載をその一部として構成し、そして、『石に咲く花』には、これもまた詳述する必要があるが「精神薄弱児の図画」を基にした部分があるようである。では、『手をつなぐ子等』はどうか―この点ももっと深められなければならないが、手をつなぐ子等』にでてくる兵士として出征する父親の悩みと手紙のエピソードは、『勿忘草』第2号の田村の「覚え書き帳から」というもののなかにいれられている。別の機会に紹介や検討をしてみたい。

『手をつなぐ子等』の映画化についても、伊丹万作の著述をもとに検討したり、脚本検閲などについても調査が必要だ。伊丹を引きつけた『手をつなぐ子等』は、映画によって戦後の社会に送り出された。その広がりを調べてみたいのだが、少し着手していると紙芝居『手をつなぐ子等』が見つかった。

紙芝居については、2年前の青山塾での講義が始まるまえから、気になっていた。「日本の古本屋」のネット上に紙芝居が出品されていたのである。田の図書館に入っているかどうか、国会図書館などの検索で調べてみると東京の公立図書館1館だけに所蔵されているようだった。どうするか、古本屋で買うかどうか??購入するには高すぎる!!それも前編・後編の2つもあるのだ。一つ○万円するのだ。田村の著作を読んでいた滋賀の方もそれをみつけて「研究費で購入して、紙芝居に音声を付けて動画にしてよ」と勝手なことを言い始めて、よけいに悩んでしまった。半年くらい悩んでいたと思う。そのときに、青山塾の講義に池田太郎を担当している社会事業大学のT先生も参加すると担当のTさんがいってきた。ますますプレッシャーがかかり、その重みに、自然とポチッと「購入ボタン」をおしていた。ああ、またやってしまった・・・!


「こんな夜更けにバナナかよ」

2018年12月05日 15時58分07秒 | 映画
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ : 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』は、2003年に北海道新聞社から出されたもの。
はじめて、この書名を聞いたのは、ニューヨークでだった。障害者権利条約の特別委員会の傍聴にいっていた時のことである。ちょうど、日本NGOの事務局をやっていたDPIの方がつぶやいたのが最初。だから、2004年か2005年頃だったかな。自立生活の支援をしていた人たちの間で話題になっていたものだろう。
その時、下品なぼくは、『こんな夜更けにバナナかよ』という書名は、「こんな夜更けにウ○コかよ」の意味だとばっかりおもっていたことを白状しておく。トイレ介助が頭に浮かび、バナナを比喩だと思いこんでいたのだった。
権利条約特別委員会が終わって、帰国してから本を買った。それが映画になった。深夜、「バナナ食べたい」との一言に・・・こんな夜更けにバナナを買いに走らされる場面が。映画のチラシは以下のとおり
 

「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」(承前)

2018年12月05日 12時30分36秒 | 田村一二

ブランゲ文庫の中には、二つの『手をつなぐ子等』があることは先に示した。第6版と第7版である。削除修正についての点検は今後の課題となるが、その表紙だけ示しておきたい。なお、伊丹万作脚本・稲垣浩監督の映画『手をつなぐ子等』の公開は、1948年の3月30日が初日だった。それ以後、この映画と共に第6版、第7版が刷り増しされていったものと思われる。なお、映画のGHQによる検閲の内容や再版されたものの修正との関係も検討の課題となろう。

第6版は、昭和23年6月1日の発行となっている。表紙をスキャンしたものは以下のものであり、ナンバーと6月7日の日付が書かれている。

第7版は、昭和24年3月1日の発行である。こちらは、1949年の3月14日の日付のようによめる。


「ブランゲ文庫」の中の「手をつなぐ子等」

2018年12月04日 13時34分38秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』はもともと、”The Yearing”が原作で「イアリング」の訳本を児童読み物にしたものだった。「イアリング」と聞くと、耳飾りを音で想起するのだが、それはear-ringであり、前にも述べたが、このyearingは1年を経た動物を指す言葉、考えてみればその語は、Year(年)の動名詞である。「年を重ねていくぞ、これから大人になっていくぞ」というものだ。それはともかく、戦中から戦後直後にかけて、田村が児童読み物・児童文学へと志向したことは指摘しておく必要があるだろう。南郷太郎は、伊丹万作と新居格の後押しをうけて、伊丹十三の装丁・挿絵でこの本を世に送り出したのである。ちなみに、一碧文庫のものには、糸賀一雄への謹呈の署名があったように記憶している。

ところで、この『仔鹿と少年』を検索して出てきた「ブランゲ文庫」に関わって、もう一つの田村一二の本が収蔵されているのである。それが、『手をつなぐ子等』である。この「ブランゲ文庫」の中の『手をつなぐ子等』ついてふれるまえに、長谷川潮の『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社、2002年)が『手をつなぐ子等』について書誌事項も含めて詳しく述べているので、そのことについて触れておきたい(第4章「最初の長編『美しい旅』と『手をつなぐ子等』」、なかでも3として『手をつなぐ子等』がpp.87-98に詳述されている)。

長谷川潮は、戦中版について、初版が1944年1月(2月)に出され、その後、日本出版界から推薦され再版される経緯を分析している。戦中版は大雅堂から出され、それが戦後においても大雅堂から継続して出されており、第7版まで版を重ね、その後、1950年に大阪教育図書の『田村一二名作選 忘れられた子等・手をつなぐ子等』として再度別の出版社から出されるという経過をたどっていた。問題は、大雅堂から発行された『手をつなぐ子等』の敗戦を境とした修正・削除のことである。

長谷川は、戦中において日本出版界の推薦文を全文あげて、『手をつなぐ子等』が「皇国民ノ一人トシテ育テ上ゲラレ」などの受け止め方を可能とする表現がこの本の中にあり、それが戦後版では削除されたり、言い換えられたりしていると、その具体を示している。そして、このような操作について、次のように指摘している。

「戦中版と戦後版をめぐるそういう田村の操作について、わたしたちはどう考えるべきなのだろうか。戦中版の軍国主義的な、あるいは天皇主義的要素は、当時において出版するためのほとんどやむを得ない修飾だたったとわたしは考えている。/むろん修飾だろうとなんだろうと、いったん表現されたことについては、作者はそれなりの責任を負わなければならない。しかし、修飾としてのそういう要素を持つ作品と、軍国主義・天皇主義の賛美それ自体を全面的に目的とした作品とを同列に扱うことも、また適切ではない。戦後版においてそれらの修飾要素の削除ないし言い換えがなされたのは、むろん原型のままでは占領軍の検閲を通過しないからではあるが、それ以上に、戦中版自体が余分な要素を付加したものであって、戦後版においてはじめて、本来の『手をつなぐ子等』が世に出たと考えてもよいであろう。」

長谷川は、戦後に本来の『手をつなぐ子等』が世に出たとさえいうのだが、生まれたての姿が、先にのべた国会図書館がメリーランド大学との共同で作業した「ブランゲ文庫」の児童書のデジタル化作業で公開されている『手をつなぐ子等』である(ただし、国会図書館に行かないと見れないが・・)。大雅堂版は、第6版と第7版の2種類がこの「ブランゲ文庫」にはあるのである。

 


「帰ってきたヒットラー」

2018年12月03日 23時17分49秒 | 映画

最近は、映画をダウンロードして、通勤中にみることができる便利な時代となった。

はじめてそのサービスを使ったのが「帰ってきたヒトラー」であった。英語の映画と思っていたのだが、ドイツ語の映画で言葉がわからんのが、残念だった。

第二次大戦後70年たったドイツによみがえったヒトラーが、町を歩き、コメディショーに登場するや、本人は大まじめであるが・・パロディとして受け止められ視聴者を喜ばす・・はじめはである。それが徐々に第二次大戦前のナチの台頭の時代に重ね合わされていく。しかも、現代の難民への対応への民衆の不満や不安は、ネオナチの台頭、極右政党への共感、自国第一主義など現代ドイツ、ヨーロッパ全体、いや世界全体と言ってもいいが、社会の深部の闇と結びついており、それをヒトラーは似非を否定しつつ、もっと闇の中へと野望ともつかぬ思惑を垣間見せる。最終版の笑いと重なった狂気が不気味である。

昨日、NHKのBSで映像の世紀(10)が再放送され、難民問題を特集していたが、この問題は遠い過去から地続きで、荒廃の結果として、また、その原因として今日までの戦争や社会不安を先導してきたことがわかる。ドイツでは、移民への慣用を旨としたメルケルが選挙で敗北をしたことをうけて、党首を辞任することが現実となった。フランスでは若きマカロン大統領は環境税の導入により抗議デモが暴動化し、その中で極右政党が浸透していく予感がする。自国ファーストのアメリカ・トランプの政策、そしてこの日本でも外国人労働者をめぐる問題、きな臭い匂いが世界中に漂っている。

経済の行き詰まりが表面化すれば、それが一気に爆発するのではないか。だからこそ、今、歴史から学ぶ必要がある。


『仔鹿と少年』のこと

2018年12月03日 15時41分25秒 | 田村一二

『仔鹿と少年』は、もともとはマージョリー・キーナン・ローリングス『The Yearling(イアリング)』というもので、新居格の翻訳で1939年に出されている(『イアリング』(M.K. ローリングス原著、四元社、1939年)。”Yearling”とは動物の満1年子(1歳児)のことをいうが、多くは子馬から成長つつある「明け2歳馬」のことをいう。動物の仔から大人へ、少年の成長をこの題名は象徴している。原作は、アメリカでは、1946年映画化されていた。戦後は『子鹿物語』として紹介され、いろいろな翻訳ものが出されている。

原作は仔鹿と関わる少年の成長とが絡み合って、少年から大人への道行きとして描かれる。そのあらすじは、次のようなものである(Wikipediaより)

舞台は自然豊かなフロリダ州の田舎。バックスター家の気弱な少年ジョディは父親ペニーと母親オリーと暮らしていた。ある日、父親が狩猟中にガラガラヘビに噛まれ、とっさに付近にいた雌鹿を殺し、肝臓で毒を吸い出した。雌鹿に連れ添っていた子鹿を父ペニーから与えられたジョディはこれを飼い始める。子鹿は白い尾にちなんでフラッグ(旗)と名付けられる。ジョディはフラッグを可愛がるが、成長するにしたがってフラッグは作物を食い荒らすようになる。森に放してもフラッグは柵を飛び越え、戻ってきてしまう。たまりかねた母親はフラッグを銃で撃ち、傷を負わせるも死なせるには至らなかった。そしてジョディは自らフラッグを撃ち殺す。悲しみにくれたジョディは家出し、カヌーで川を下るも壊れて難破し、郵便船に助けられる。やがて家出から戻ってきたジョディの心は少年から大人へ成長していた。

『仔鹿と少年』の目次は次の通り。

1.水車/2.趾欠け(ゆびかけ)/3.鶴の踊り/4.牝鹿/5.ガラガラ蛇/6.仔鹿/7.蜜蜂/8.浣熊/9.あらし/10.野営/11.狼狩り/12.クリスマス/あとがき

装幀・挿絵 池内岳彦

あとがきには、伊丹万作のすすめと激励があったこと、新居格の許可があったことなどがかかれている。新居格は、戦前においてパールバックの『大地』を訳出し(1935年)、モダニズムの評論をおこなったことで有名、政治思想はアナキズムといわれているが、賀川豊彦のいとこにあたる人物。伊丹万作や新居格から田村が受けた影響もあるのではないかと思う。この件は、絵画「裸婦」の出展に関連して、唯物論の本などを隠したというような話が『ちえおくれと歩く男』の中にあったようなところが気になるが・・・。

あとがきの最後には、「装幀並びに挿絵は中学二年生である伊丹さんの遺児、岳彦君にやって貰った。訳文の自由な使用を許して下さった新居格氏と共に岳彦君にも深い感謝を捧げたい」とある。

池内岳彦(本名・池内義弘)は、伊丹万作が本当はつけたかった名前から「岳彦」として呼ばれ、自分でも使っていたが、伊丹十三のこと。伊丹十三は、商業デザイナー、俳優、エッセイスト、TVマン、雑誌編集長、映画監督として縦横に活躍した才人であった。

 


南郷太郎『仔鹿と少年』(1948年、大雅堂)

2018年12月03日 14時43分52秒 | 田村一二

 国会図書館で『仔鹿と少年』を検索すると、いくつかのものがヒットする。
 まず、マイクロフィルムの資料として、『仔鹿と少年』(南郷太郎著,池内岳彦 絵  大雅堂  1948)が、 国立国会図書館デジタルコレクション となっており、国会図書館以外も京都・大阪・東京の公立図書館が所蔵しているようである、同一書であるが、児童書総合目録として、ロ-リングズ・マ-ジョリ-・キナン原作]、南郷太郎著というのもでてくる。
 また、「ブランゲ文庫児童書マイクロフィルム所蔵タイトルリスト(読み物) 2010/1/19現在」の中にもこの『仔鹿と少年』がリスト化されていることがわかる。
 この「ブランゲ文庫」というのは、戦後間もない米国の占領下において、GHQが日本の出版物の検閲をするために収集した図書をベースとしたものであり、後に、アメリカのメリーランド大学に寄贈され、寄贈者の名前をとって「ブランゲ文庫」として長年保存されてきたものだった。2014年、国会図書館でデータのデジタル化と目録の公開があったものだった。実は、この「ブランゲ文庫」には、小松左京の三高時代、京都大学在学中に執筆したマンガ、デビュー作などもあり、小松左京のファンの間では注目されていた文庫であった。このブログで書いた小松左京『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』新潮文庫には、小松の息子小松実盛「『青春期』に書かれなかったことー漫画家としての小松左京」(pp.205-231)があり、「幻の漫画」とそれにまつわる小松の行状が記されている。

 この「ブランゲ文庫」は、1945年から1949年までの日本で出版された印刷物のほとんどを所蔵するものらしく、国会図書館の解説には次のようにある。
「プランゲ文庫に収蔵された図書約73,000冊のうち、児童書は約8,000冊で、絵本、読み物、漫画、ぬりえ、かるた等多様な資料が含まれている。国内機関では所蔵していない資料も数多く、占領下の検閲の実態を示すと共に、この時期の児童文学・児童文化や出版状況を知る貴重な歴史的資料でもある。」

この児童書の一つが南郷太郎の『仔鹿と少年』だった。


南郷太郎に踊らされて・・・別の南郷太郎

2018年12月02日 19時19分33秒 | 田村一二

南郷太郎をキーワードに、国会図書館の検索をしてみると、いくつかの『仔鹿と少年』の情報と『野球界』19巻6号に掲載された「關西に勃興した實業團ラグビー戰」という文章がでてきた。『仔鹿と少年』も『野球界』もデジタル化されているので、国会図書館・関西館に行けば読める。ということで、足を運んだのだった。

まずは、『野球界』の「關西に勃興した實業團ラグビー戰」をみてみた。目次には、南郷太郎の上に、「大毎」とある。大阪毎日進軍のことであろう。とすると、「大阪毎日新聞」の記者で南郷太郎を名乗っている者が書いたものかもしれないと、ふと悩む。内容を見ていると、「関西学生ラグビー戦」の話であり、田村がラグビー好きということはきいたことがないし、内容をざっと読んでみてもどうも文体も田村のものではないようだ。とはいえ、田村の著作に『バックネット』(ユニコン社、1951年)というのがあったので、「野球つながり」があるのではないかと頭をひねってみる。また、田村は、戦前の時代に、京都の日出新聞や大阪朝日新聞社会事業団などともつながりがある。後者は、知的障害児の教育の展覧会の開催などで深いつながりがあるのだが、これは大阪朝日新聞だし・・と悩む。結論として、大阪毎日関係の南郷太郎がいて、同一筆名の別人ではないかと推定した。ただ、もしもということもあるので、一応、国会図書館でプリントアウトしてもらったのだった。

『野球界』に登場した「南郷太郎は誰か」とずっとおもって調べてみるのだが・・・そうこうしているうちに、再度、国会図書館の検索をする機会があった。不覚であった・・・この『野球界』19巻6号は、1929年5月に発行されたものであり、まだ、田村は「代用教員」時代で、教員養成所に通っていた頃だった。そんなときに、このような記事を書くわけないじゃない。「南郷太郎」は、1946年に近江学園が南郷の地に設立された時に筆名としたものであるからである。「南郷太郎」の名前に踊らされた自身を恥じるのである。


『終わった人』

2018年12月02日 09時47分49秒 | 

この本のよみはじめに、この本の冒頭を紹介したが、読み終わった。定年は、さだめられた年なのだが、しかしそこでは気持ちは「成仏」していない。これまでの過去の「栄光」、再度の就職探し、居場所探し、かっこよくみせようとする姿、もう一回というチャレンジ、家庭での位置、いろんな葛藤があり、受け入れていかざるを得ない現実・・・。

63歳から66歳までの男の姿と心情が描かれている。解説には、「品格ある衰退」という言葉があったが、そうなれるかはその人の教養と環境によるのかもしれない。


南郷太郎を調べに

2018年12月01日 21時50分45秒 | 田村一二

南郷太郎の『仔鹿と少年』を読んでみたいとおもったが、しかし、一碧文庫にあるものはきれいなもので、それをコピーなどしてしまうと、当時の紙の質の問題もあるので、本が台無しになってしまうことが危惧された。

一碧文庫に本の保管をお願いして、帰ってから検索で調べると、所蔵している大学があったので、借りようと手続きをした。しかし、貸し出しは断られたのだった。国会図書館にはデジタル化されたものがあるので、閲覧と必要な箇所のプリントアウトで対応しようと思った。時間がとれずにいたが、ようやく12月に入った今日(土曜日)、行くことが出来た。今日の国会図書館での作業では、考えなければならないことがでてきた。まだ、整理が出来ていないので、別に書いてみたい。

ちょうど、国会図書館では、「開館70周年記念展示 本の玉手箱」(国立国会図書館70年の歴史と蔵書)が開催されていたので、のぞいてみた。夏目や樋口の帝国図書館についての言及や、保管している美装本、「君たちはどう生きるか」「アトム」「アンパンマン」などの初版本などが展示されていて、興味深かった。学生さん達もいってほしいものだと思った。


戸村逸二に続いて・・・南郷太郎?

2018年12月01日 20時21分20秒 | 田村一二

「両刃斬撃」のドタバタがあって、11月10日には次の青山塾の講義があった。その準備のために担当のTさんとやりとりをしていたときのことである。ショートメールで突然・・・・。

「ところで、南郷太郎は田村一二のペンネームですか?」との問いが・・・「南郷太郎著で『仔鹿と少年』という本が一碧文庫なるんですが、大雅堂からの出版です」と続く。

「田村一二の年譜に『子鹿物語』というのがあって、見たことはないです。もしかしたら、それ? でも、南郷太郎ですか? 俊樹さんが写真を雑誌に発表されたいたときは南郷俊樹という名前をつかっていたことはありましたが、南郷太郎は知りませんね。出版年は?」

「昭和23年5月5日です・・・」

「とにかく次の講義の時に見せて下さい」。そう言うと、僕の頭はぐるぐる回り、それにつれて目も回りそうになった・・・「南郷太郎!」

11月10日、講座の前に、とにかく『仔鹿と少年』の本を見せてもらった。「あとがき」をみると、伊丹万作の家にあったマジョリー・キンナン(新居格訳)『ザ・イアリング』を貸してもらって読んだところおもしろく、児童読み物にしたいとうことで訳者に断りを入れて製作したとあった。戦後初期の1948年に大雅堂から出版されていた。これは、田村一二の手によるものであることは明らかだった。そのとき居合わせていた、田村俊樹さんは「僕は知ってたよ。南郷太郎の話は、おやじから聞いていた」とぽつりといった。



「両刃斬撃」(京都日出新聞、1941年2月9日~2月20日 全10回連載)

2018年12月01日 10時51分13秒 | 田村一二

日出新聞に連載された「両刃斬撃」は10回。日時と表題は以下の通り。

 昭和1629日(日) 両刃斬撃1  社員は旅行する/昭和16210日(月) 両刃斬撃2  家庭は涼しい昭和16211日(火) 両刃斬撃3  人間は煙る昭和16214日(金) 両刃斬撃4 先生と言はれる程の馬鹿でなし昭和16215日(土) 両刃斬撃5 息子の會/昭和16216日(日) 両刃斬撃6 子供を着る昭和16217日(月) 両刃斬撃7 地獄の門は狭い昭和16218日(火) 両刃斬撃8 先生は逃げる/昭和16219日(水) 両刃斬撃9 代用教員昭和16220日(木) 両刃斬撃10 子供部隊

これらの翻刻には苦労した。目がしょぼしょぼになった。いろんな方にお世話になった。『障害児教育史研究―史料と論究』第2号に掲載したい。