時間(2019.6.3日作)
待つ時間は長い
保ちたい時間は短い
歳と共に時間は速く過ぎて逝く
その感覚
大きくなったら
あれもしたい これもしたい
大人になるのを待つ時間
子供の時間は過ぎる速度が
遅い
見晴らしの良い峠を脳裡に
苦難の道を歩くのにも似た時間
だが
峠を登り切り
人生全般を視界に収め得た時
待つもの 期待するものは無くなり
終わりの時間だけが見えて来る
峠を下るのにも似た時間
峠を下り切る時間を回避し
"今"を保ちたい一日一日の時間は
瞬く間に過ぎて逝く
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(2) ナイフ
2
良次が少年院送りの処分を受けた直接の原因は、義父を刺した事にあった。母と義父と暮らすようになってから一年と少しののちだった。良次が十四歳の時だった。
良次は今でも思い出す事が出来た。母より一つ年下で、当時、三十五歳だった義父は、明らかに良次を嫌っていた。
母が義父と再婚したのは、三年前だった。その時、良次は養護施設にいた。良次の中学進学を迎えて母は、良次を引き取る決心をした。
義父は郵便局に勤める、小心で神経質な男だった。池袋のキャバレーで働いていた母と知り合い、一緒に暮らすようになった。結婚の遅れた義父は、内縁関係とはいいながら、母との生活を大切にした。
母にとっても、良次が八歳の時に離婚して以来の家庭生活を大事にしたいという思いが強かった。年齢的にもこれが最後かも知れないという気持ちが母を卑屈にした。良次はこれ程までに自分を嫌う義父が、なぜ母の申し出に賛成したのか、不思議に思った。
良次は母の最初の離婚と共に、母方の祖父母の家に預けられ、以来、心の奥でいつも母の愛情を求め、飢えていた。
祖父母の家は沼津にあった。離婚した母は東京の夜の世界で働き、十日に一度の割合で良次のいる祖父母の家へ戻って来た。
良次は母が東京へ出て行く度に、別れが哀しくて幼い心を荒ませた。
良次は次第に、年老いた祖父母の手には負えなくなっていた。母が東京へ行ったあと、二日も三日も黙ったまま、口を開こうともしなかった。祖父母が勧める食事にも手を付けないで、盗み食いをしたり、よその家のものに手を出したりしていた。
九歳の時に空腹から、近所の店のアンパンを盗んで見つかった。その夜、祖父に厳しく咎められると良次は刃向かい、取り押さえようとした祖父の手に噛み付き、怪我をさせて家を飛び出した。
二日目の夕方、空腹を抱えたまま、沼津駅のベンチにいる所を補導された。
祖父母は良次の引取りを拒んだ。
東京にいる母が呼び寄せられ、事情が伝えられた。
母にはだが、東京での、馴れない夜の仕事をしながら、良次を養育してゆくだけの自信が持てなかった。自分が生きて行くだけで精一杯だった。
良次は養護施設に入る事になった。
「ごめんね。お母ちゃん、きっと、近いうちに迎えに行くからね。それまで我慢していてね」
母は良次を抱き締め、頬ずりしながら言った。
良次はなぜか、母が憎めなかった。幼い心にも母が可哀想に思えて、そんな風に思う自分がまた、悲しくもあった。
良次は養護施設でも心を閉ざしたまま、口を開かなかった。他人のものに手を付ける事だけはしなかったが、誰とも打ち解けなかった。ひたすら母の言葉を信じ、母が迎えに来る日を待っていた。
良次を迎えに来た母から新しい父の事を聞かされた時には、よく事情が飲み込めなかった。
その夜、初めて夕食の席で義父と向き合ってようやく理解した。
母との新しい暮らしを前に、良次の心は冷えていた。自分のものとばかり思っていた母との間に障害物が入って来ていた。
良次はその時も口を噤んだまま、一言も発しなかった。うつむき加減に頑なに黙っていた。
「良ちゃんの新しいお父さんだよ。ほら、挨拶して」
母は懸命に取り成した。
良次はだが、母に言われれば言われるほど、頑なに悲しみを募らせるかりだった。
義父は気まずそうに、不機嫌な顔で良次を見つめた。
良次は義父を憎んだ。義父は良次と母の間に割り込んで来た邪魔者だった。
「あんなひねくれ者じゃあ、こっちが参っちゃうよ」
義父が事あるごとに母に不満をぶちまけるのを良次は知っていた。
良次はそれでも義父に心を開く事はなかった。義父が良次を嫌えば嫌う程に義父を憎んだ。
「そんな事言わないでよ。そのうちにきっと、打ち解けるからさ。まだ、馴れないだけなのよ」
母は義父の居丈高な言葉の前でいつもおろおろしていた。何かに付けて母が義父に気を使っている事が幼い良次にもはっきり分かった。
「良次はお義父さんにもっと素直にならなければ駄目よ。これからずっと、一緒に暮らしてゆくんだから」
母は義父のいないところで良次を諭して言った。
良次はそれでも、母を憎む事は出来なかった。母と自分に要らぬ苦しみをもたらして来る義父だけを憎んだ。
母はキャバレー勤めを止めなかった。自分が働き、稼ぐ事で、良次を抱えた負い目を少しでも償おうとしているかのようだった。
良次が義父を刺した時、母は良次の発熱で看病に明け暮れ、三日、キャバレーを休んだ。
その夜、義父は酔って帰ると、
「今夜もまた、お休みか。おまえの一人息子だ、せいぜい大事にしてやれよ」
と、厭味を言った。
母は黙っていた。
「くそ面白くもない。何もかもが滅茶苦茶だ。俺もえらい荷物を背負い込んだもんだ」
義父は畳の上に転がると言った。
「そんな意地の悪い事を言わないでよ。この子が病気なんだもの、仕方がないでしょう」
母は半分泣きながら抗議した。
「俺には関係ないよ。おまえの息子なんだから、おまえ一人で面倒みろよ」
義父はそう言うと、寝返りを打って背中を向けた。
酔った義父はそのまま鼾をかいて寝入った。
母は暫くは放心したように座り込んでいたが、気を取り直すと、
「あんた、あんた。こんな所に寝ていたら風邪を引くわよ」
義父をゆり起こした。
「うるさいな。大きなお世話じゃねえか。風邪ならとっくに坊主に移されているよ」
義父は乱暴に母を突き飛ばした。
母はそれ以上、言わなかった。ただ、泣いていた。
布団の中で薄目を開けて一部始終を見ていた良次は、その夜、母と義父が寝静まった頃合を見計らうと、台所へ行った。
薄刃包丁を手にすると、寝静まっている義父に馬乗りになって、顔から喉元にかけて滅多切りにしていた。
義父の傷は生命に係わるものではなかった。
だが、七箇所に及ぶ切り傷は家庭裁判所に於ける良次の印象を一際、悪いものにしていた。義父の狡知にたけた申し立てで、良次は手に負えない家庭内暴力少年として少年院へ送られた。
母が亡くなったのは、良次が少年院に入って十一ヶ月目の事であった。義父との不和によるアル中で、マンションの二階から転落死したのだった。
葬儀の日、良次は少年院の係官の監視の下、母の遺骸を見送った。
良次は泣きながら母を呼び続け、棺の傍を離れなかった。棺の中には母の生前の姿が鮮やかに、母への様々な記憶と共に息づいていた。
雑感六題(2019.5.16日作)
1 知に囚われるな
知に囚われれば 物事は
ゆがんで見える
無の心 無で見る眼には
真実が宿る 実相が映る
2 人は一人である
人は一人であるが 人は
一人では生きられない
やがて 行き詰まる
3 世界は わたしを離れて
存在しない
わたしが在って 世界がある
世界が在って
わたしが在るのではない
わたしの心に映るもの
それが世界だ
4 人間は皆 愚かで
砕けた言い方をすれば
バカだ 完璧な人間など
誰もいない
しかし 人間は誰もが
あいつは バカだ と思っても
自分は完璧ではないにしても
バカな 人間だとは思わない
あいつとは違う と思っている
5 本能と理性の調和
バランスの取れた人間が
最高の人格 人間だ
本能のみの人間は卑しく
理性のみの人間は
鼻持ちならない
知性は本能と理性の上に生まれる
6 人間が持つ
美しい時間は ほんの一瞬だ
あとは
その為の準備期間であり
残務期間だ
人間が持つ時間は
労多くして 楽は少ない
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新宿物語(4)
ナイフ
Ⅰ
「保護観察期間中に行いが悪ければ、また、少年院送りという事もありうるんだ。真面目にしっかりやらなければ駄目だぞ」
良次は保護監察官の言葉を自分ではない、他人に向けられた言葉のように聞いた。心に響いて来るものが何もなかった。世の中のあらゆる事柄が良次には、自分には関係のない遠い何処かで、勝手に動いているという感覚があった。少年院に来た時にも良次は、自分が自分ではない、他人の人生を生きているような気がしていてならなかった。間もなく十八歳になろうという今日までの自分の人生が、奇妙な夢の中の出来事のように取り留めのないものに思えていた。今、自分はここに居る。だが、何故ここに居るのか、なんとはないどさくさ紛れのうちに、気が付いたらここに居たという感じだった。
「これが君を担当してくれる保護司の住所だ。ここを訪ねてゆけば住まいも仕事も紹介してくれるはずだ」
まだ三十歳を過ぎて間もないと思われるような保護監察官は言った。
保護司、藤木幸三の家は、中野の静かな住宅街にあった。
大谷石の塀に、蔦が絡まる庭木が二階建ての家屋を隠すように広がった大きな屋敷だった。
良次は保護監察官が書いてくれた地図を頼りにその家の前まで来たが、門前で足を止めた。暫くためらっていて、そのまま家の前を通り過ぎた。なんとなく、門の横に取り付けられたインターホーンを押す気になれなかった。
暫くはそのまま歩き続けた。
広い団地の前へ来ると足を止めた。
振り返ると、ゆるやかな曲線を描いた道の遠くに藤木幸三の屋敷の塀が見えた。立ち止まったまま、その家を見続けていた。思い切って藤木幸三を訪ねる決心が付きかねた。
" 保護司を訪ねる不良少年 "
団地の中の広場で子供たちを遊ばせている主婦たちの眼が気になった。
辺りに人影のないのを幸いに良次は暫くはそこで、主婦たちの動きを見続けていた。
どれ程かの時間が過ぎていた。団地の広場から主婦と子供たちの姿が消えた。
今だ ! と良次は思った。
長い時間、何もせずに立っていた苦痛が良次を動かしていた。
藤木幸三は五十七、八歳かと思われる大柄な、一見、町会議員か会社の役員でもあるかのような風貌を持っていた。
立派な屋敷に住んでいる人物らしく、物腰にいかにも鷹揚な感じがあった。畏縮した心の良次にも " 別に気にする事はないよ " と語りかけているようなにこやかさで、自信に満ちていた。その態度に比例するようにまた、雄弁でもあった。良次の事は監察官から詳しく聞いている事、間もなく保護司になって二年の任期が切れるが、過去に五人の少年の更生に手を貸した事、更に保護司を続けるつもりでいる事などを得々として語った。
「明日、早速、君を雇ってくれる鉄工所を訪ねてみよう。そこもわたしの地所で、経営者の気心もよく知っているので、心配はいらないよ」
藤木幸三はそう言ってから、
「過去はどうであれ、現在を真面目に生きてゆきさえすれば、世間の人は認めてくれる。君もそのつもりでしっかりやった方がいい。困った事があったら、なんでもわたしの所へ相談に来るんだ。遠慮はいらない」
と穏やかに続けた。
良次が新しく住む事になった、藤木幸三が所有するアパートの一室は同じ中野区内にあった。
「一応ここには最低一ヶ月、君が生活してゆけるだけのものが揃っている。あとは真面目に働いて、君自身で日々の生計をたててゆくんだ。君を甘やかさない意味で、家賃もちゃんと貰う。分かったね」
運転手付きのベンツで良次を案内した藤木幸三は諭すように言うと帰って行った。
良次は藤木幸三が帰って行くのを見送ったあと、新しく住む事になった部屋の前まで来ると、力任せに入り口のドアを足蹴にした。
これでは自分がまるで猿回しの猿だ、と思った。
自分が世間の晒し者にされた気がした。なんで、運転手付きのベンツなんかで、こんなアパートに乗り込まなければならないんだ ! 俺がベンツなどの座席に座れるような人間てない事ぐらいは、誰が見ても分かるだろう ! ここの家主が保護司だって事も、ここに住む人間ならみんな知っているはずだ。だとすれば、俺が少年院帰りの不良少年だっていう事を世間に公表しているようなもんじゃないか !
藤木幸三は翌日、再び、ベンツで現れた。
その日、良次が藤木幸三に伴われて訪ねたのは、四谷の小さな町工場だった。
社長と呼ばれる人物は痩せ型の五十歳前後の男で、薄茶の作業服に同色のNのマークの入った帽子を被っていた。
社長は明らかに良次の受け入れに気の進まない様子だった。嫌々ながらに藤木幸三に付き合っているという雰囲気が見えた。
三十分程、工場に隣接する事務所で過ごしたあと、良次は作業場を見学させられた。
八人の中年行員が各々の持ち場で酸素溶接をしたり、グラインダーを使ったりしていた。
狭い工場内の見学は十分とかからなかった。その間良次は、作業を見て廻る自分に向けられる厳しい行員たちの眼差しを感じ取っていた。
「早速、明日からでも厄介になりなさい」
藤木幸三は見学の後、社長の前で良次に言った。
藤木幸三は何も分かっていなかった !
良次は思った。
翌日、良次は 工場へは行かなかった。小奇麗に整ったアパートの部屋で、馴れない環境に苛々しながら、どうしたら此処から抜け出られるのかと考えていた。
続く
流れのままに(2019.5.28日作)
流れる川
川は流れる
流れる川 そのままに 人は
流れ 流され 生きてゆく
それでいい
流れに逆らい 抗えば
苦労が多い 角が立つ
流れる川 流れのままに身を任せ
流れのままに生きてゆく
結果は楽だ 苦労がない
苦労はないが 心はある
心はそれぞれ 人が持つ
人それぞれ各々が
それぞれ独自に持つ心
心を失くせば 自分はない
自分は心 心は自分
心が創る人間模様
心が創る 人の型 自分の形
自分の形は 心の証し
流れる川に身を任せ
それでも心は失くさない
堅固に保つ自身の心
流れる川も 荒海も
自分の心底(しんてい) 奥底に
心があれば乗り切れる
流れる川の流れのままに
流れ 流され 生きてゆく
それでも心は失くさない
心が創る人間模様 人の型
自分の形
根のない浮き草 流れ藻は
心のないまま 流れてゆく
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(10)
大木は長い間、このバーに通っていたが、こんな所にドアがあるなどととは今まで知りもしなかった。
「こんな所にドアがあったの ?」
驚いて聞いた。
「はい」
女は微笑みを浮かべて答えた。
「あなたはここに住み込みなの ?」
大木はよく理解出来なくて聞いた。
「いいえ、この奥にわたしの住まいがあるんです」
女は相変わらず謎のような微笑みを浮かべたまま言った。
女は開いたドアを支えて大木を先に通すと、自分も続いて部屋を出た。
ドアを閉め、大木の先に立つと、そのままひどく暗い中を歩き出した。
大木の眼には暗くて何も見えなかった。
女はさすがに勝手知った場所らしく、迷いもせずに歩いて行った。
間もなくすると女が立ち止まって、見えない所で鍵音をさせているのが聞こえた。それから、
「どうぞ」
と言って、大木を振り返る様子が察しられた。
大木は初めて会った見知らぬ女の部屋へ入ると、期待とも不安とも付かない心の昂ぶりに胸苦しさを覚えた。それでも、ここまで来てしまった以上、もう、後戻りも出来ないと思うと靴を脱いで座敷に上がった。
大木の通されたのは居間らしかった。八畳程の広さの部屋に、灰色の落ち着いたソファーが置かれてあった。
窓際にはいかにも若い女性の部屋らしく、テーブルの上一杯に羽根を広げた孔雀さながら、華やかにカスミ草の花が飾られていた。
女はドアを閉め、鍵を掛けた。その音が何故か、大木の心に奇妙に不安な響きを残した。
「どうぞ、ソファーにお掛け下さい。馴れない霧の夜の中を歩いてお疲れになったでしょう」
女は依然として、柔らかい謎に満ちたような微笑みを浮かべたまま言った。
それからすぐに、
「ちょっと、失礼します」
と言うと、部屋を出て次の間に入っていった。
大木は見知らぬ女の馴染みのない部屋の中で落ち着かない心のままに、ソファーに腰を下ろした。
女が来るまでのしばらくの間、大木は所在のないままに明るい電燈の下で初めて、霧に濡れた自分の服に眼を落とした。
上着の細い繊維の先に霧のしずくが小さな水玉を作って光っていた。
爪の先で払うと指先が冷たく濡れた。
ドアの横に大きな鏡が嵌め込まれてあるのに気付いて近付き、顔を映してみて大木はギョッとした。思わず、自分の背後に誰かいるのか、と振り返った。
誰もいるはずがなかた。
改めて大木は眼を凝らし、鏡の中に映った男の顔に眼をやった。
紛れもなく、自分の顔が映っていた。まるで溺れた人のように、髪が額に張り付き、落ち窪んだ眼が異様に光っていた。
顔色が血の気の失せたように蒼いのは、霧の中を彷徨い歩いた疲労の為だろうか ? あるいは、霧の中に混じっているという硫酸を吸い込んだせいなのだろうか ?
大木は一度に湧き出るような疲労感を覚えるのと共に、捉えどころのない不安感を抱いたまま鏡の前を離れた。
ソファーに戻ると体を投げ出すようにして腰を下ろした。たちまちうとうとして来るのを自覚した。甘く強烈に匂うのはカスミ草が放つ芳香なのだろうか ? 夢心地に誘われる思いだった。
大木はハッとして我に返った。
いけない、いけない、眠ってはいけない !
なぜか知れず覚える警戒心にも似た気持ちと共に、懸命に自分に言い聞かせた。見知らぬ女の部屋だという意識のせいばかりではなかった。奇妙に緊迫した感覚が心の片隅にあって、それが無意識裡に大木の警戒心を誘っていた。
睡魔はだが、そんな大木の警戒心にも係わらず、なおも強烈に分厚い重みとなって大木の上に覆い被さって来た。大木は次第に朧になる意識の中で、冬山での登山者の死を思った。
遭難者は多分、こんな感覚で意識が薄れてゆくのに違いない。
大木は今、自分が全くその時と同じ状況にいるような気がした。遭難者は眠ってしまえば、それが最後になるという。
" 眠ってしまえば、もう、終わりだ "
自分に言い聞かせながら大木は懸命に手足を動かし、ソファーから立ち上がろうとした。だが、体は意識とは裏腹に、力が抜けたように動かなかった。同時に睡魔は、手足の先から次第に体の中心部に向かって移行して来るのようで大木は、ああ、俺の体が手足の先から死んでゆく、と思ったその時、
「ベッドの用意が出来ました。どうぞ、こちらでお休み下さい」
と言う、女の声がした。
眼を開くと女の姿が見えた。一瞬大木は、その女が亡霊かと思って息を呑んだ。女の姿が遠く霞んで見え、ひどく存在感の薄いもの思えたのだ。
だが、無論、女は亡霊などではなかった。透き通るように白い裸体に、青く透明なネグリジェを着て次の間の、眼を圧倒する程に強烈な深紅の照明の中に溶け込むようにして立っていた。
女は大木の傍へ来ると、
「どうぞ、ベッドの上でお休み下さい」
と囁くように言った。
「アッ、どうも」
大木は混乱と共に言った。
睡魔はまだ去っていなかった。すぐには立ち上がれなかった。
「手をお貸ししましょう」
女は言って両手を差し延べた。
「疲れと酔いが一遍に出てしまったようです」
大木は言い訳がましく言った。
「霧の中をお歩きになって、その疲れが出たのですよ」
女は立ち上がる大木を抱え込むようにして抱きとめた。
大木は女の両腕を背中に感じた。
大木がその女に導かれるようにして入った部屋の中は総てが深紅であり、深紅が織り成す強烈な深紅の世界だった。大木は圧倒され、ただ黙って見詰めているばかりだった。
女は大木のそんな深紅の世界から受けた衝撃にすぐに気付いたようで、
「これがわたしの部屋なのです」
と、相変わらずの謎めいた微笑と共に言った。女の身に着けた青いネグリジェもこの世界では深紅に染まってしまうかのようだった。窓際の分厚いビロードのカーテンも、部屋の中央にあるベッドを覆うサテンのカバーも、床一面に敷き詰められたカーペットも、それぞれがそれぞれ独自の深紅を保ち、深紅の深さを競い合い、共鳴し合って、底知れない深紅の深い世界を演出しているかのようだった。
女は大木を抱きかかえたままベッドの傍へゆくと、
「どうぞ」
と言って、大木を座らせた。
大木は自分が今、女との抜き差しならない関係の中に踏み込んでゆくのを予感した。しかし、だから言って、今更、そこから抜け出す事も出来ない気がした。こんな前代未聞の深い霧の夜の中で女と二人、孤立してしまった以上、その女性と愛を交わし、心を通じ合わせる事以外に、この孤独感から逃れ得る術はない気がした。
「霧の深い夜には、愛し合い、抱(いだ)き合って眠るのが最適なんですって、さっき、ラジオで言ってましたわ」
女は自身も向こうへ廻ると、ベッドの上に身を横たえながら、大木を見詰めて言った。
大木はしかし、その時、ベッドに横臥した女の肉体の上に奇妙な現象を見て身震いした。女の身にまとったネグリジェを通して影を落とす深紅の光りが、女の白い裸体の上に深紅と青の入り混じった濃淡の不思議な縞模様を描いていた。それが大木には、生と死の混在した奇妙な世界に見えたのだった。大木は恐怖の心に一瞬、たじろいだ。しかし、女の若さを秘めたしなやかな肉体は、そんな大木の恐怖感をも呑み込むかのように強烈に大木の欲望を誘っていた。大木は自虐的とも思える心を抱いたまま、奇妙な縞模様を描く女の肉体に眼を据えたまま、女の誘う眼差しに促されるかのように自ら上着を脱ぎ、ネクタイを外していた。
女は大木がベッドの上に身を横たえると、待ち兼ねたように身を寄せて来た。そのまま大木のベルトに手をかけると一気に引き抜いた。その女の行為は、大木がもはや再び引き返す事を許さないない厳しい掟のような拘束力で迫って来た。
大木はその時、何故か覚える絶望的とも言えるような哀しみの中で、女の青いネグリジェの中に手を差し込むと、その白い肉体を力を込めて抱きしめた。すると女が大木の唇を求め、二つの唇が重なった。そして更に、二つの肉体と肉体が重ね合わされ、その肉体が共に深紅の世界に包み込まれた時、大木は、みるみる間に自分の肉体が青く変色し、女の肉体の中に埋没してゆくのを感じて大木は思わず、
「ああ・・・・・」
と叫んでいた。そしてそれは、大木が発した最後の声だった。それ以後、大木はもはや存在しなかった。
大木が眼を覚ました時、寝室には枕もとのスタンドの小さな明かりが点っていた。
寝室には普段と変わったものは何もなかった。
傍には妻の治子が眠っていた。
大木は眠っている治子の顔を見詰めた。
ナイトキャップを着けているせいで、やや額が広く見えたが、普段の治子の顔となんら変わる事のない寝顔だった。
" 俺は夢を見ていたのか、それも奇妙な夢を "
大木は思わず口の中で呟いた。
全身が冷たい汗に濡れていた。
" なんだって、あんな厭な夢をみたんだろう ? "
夢が二重にも三重にもなっていた。夢の中で夢を見ていた自分はなんであったんだろう 、と奇妙な思いに捉われた。
何処までが現実の自分で、何処までが夢の中の自分であったんだろう。そして今、ここにこうして目覚めている自分は、いったい、なんなんだろう。夢の中のどの自分なのだろう。治子は今ここにいて、眠っている。だが、これは本当の治子なんだろうか。間違いなく現実の治子なんだろうか。
大木は治子が、揺り動かせばふっと消えてしまいそうな気がして、思わず、
「おい、おい」
とだけ声を掛けていた。
治子はいかにも深い眠りから覚まされたように、ぼんやり眼を開いた。
覗き込むように見詰めている大木に気付くと、
「どうしたの ?」
と、訝しげに聞いた。
「いや、なんでもない」
大木はその治子を見ても、なお、混乱の収まらないままに、口の中で呟くように言った。
「夢でも見たの ?」
治子は言った。
「いや」
大木は言った。
治子は何も知らないようだった。
布団の中で体を動かさず、顔だけ向けて大木を見ていた。
治子は本当に何も知らないのだろうか。何か隠して、何も知らない振りをしているだけではないのか。
大木は治子への疑念に取り付かれた。その瞬間、大木はふと、何も知らない顔をしている治子への幽かな憎しみを覚えた。
完