遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 244小説 夢の中の青い女 他 今を生きる

2019-05-26 14:03:18 | 日記

          今を生きる(2019.5.15日作)

 

   今を生きる

   今を生きている事の

   幸せを噛みしめ

   一瞬一瞬の今を生きる

   時は過ぎて逝く

   人生は短い

   若き日の宴の時は

   束の間の幻 

   夏の日の蜃気楼

   訪れの秋は速く

   人の世の悲哀を運んで来る

   今を生きる

   今を生きている事の

   一瞬一瞬の幸せを噛みしめて生きる

   人生の終わり 冬の日は

   すぐ隣り ほら そこにある

 

 

          ----------

 

 

          (9)

 

 前方に幽かな明るさがあるのはなんだろう ?

 大木にはすぐにそれが、街を覆う霧が街灯の明かりに照らし出されて浮かび上がる白さだと分かった。その霧が光りの中で、煙りのように移動してゆくのが見えた。大木は自分がまた、元の街に戻って来ている事を知った。

 大木はトンネルを抜け出すように、暗い廊下を小走りに走り抜けた。すると眼の前に一本の街灯が立っていた。霧はその明かりを中心に渦巻くように流れていた。

 大木はまた、霧に濡れながら街の中を歩き始めた。

 霧は先程より一層の濃度を加えて来ていた。建物の影を見る事も出来ない程になっていた。濃い霧の体積だけが大木を包んでいた。多分、この霧の濃さでは硫酸も一層に濃度を増しているに違いない。呼吸の困難さと共に、胸苦しさを覚える気がした。                    

 不安な気持ちと共に大木は、俺はこの霧の中で、霧に巻かれて死んでしまうのだろうか、と考えた。

 そんな不安に呼応するように眼の前の霧の中にぼんやりと浮かび上がって、青い光りが見えて来た。大木にはそれが人魂だという事は、先程の体験からすぐに理解出来た。しかもそれは先程来の経緯(いきさつ)からすれば、大木自身の魂に違いないのだ。それがどんどん大きくなって近付いて来る。大木は思わず恐怖に息を呑んだ。ーーだが、その瞬間、大木の眼にはっきりと見えて来たのは、「BAR 青い女」という、ネオンサインの青い文字だった。

 大木は思わず安堵に胸を撫で下ろした。なんだ、俺はまた、「青い女」に戻って来ていたんだ。

 その安心感と共に大木は、この霧の深い夜の中で俺は混乱して、どうにかしてしまっているんだ、と思った。

 大木は取り敢えずの安心感と共に、とにかく、もう一度、「青い女」に戻って、後の事はそれからどうにかしようと考えた。霧の中をむやみに歩き廻ったおかげですっかり疲れ切っていた。

 それにしても「青い女」では、あれ程みんなが大騒ぎをして帰りを急いでいたのに、まだ、誰か残っているんだろうか ?

 或いは、チーフが居るのかも知れない。

 大木はそう考えると馴れた足取りで地下への階段を降りて行った。

 彫刻のある木製の重い扉は大木が押すと、いつものように訳もなく開いた。

 中には平常通りに仄暗い照明があって、カウンターの向こうに背中を見せたホステスが一人、洗い物をしていた。

「ああ、ひどい霧だ。道が分からなくなってしまって、また、舞い戻って来たよ」

 大木は馴れた店の気安さから、ホステスが誰かも分からないままに声を掛けた。

 カウンターの中で背中を見せていたホステスが振り返った。

「いらっしゃいませ」

 ホステスは大木を見ると微笑を浮かべて言った。

 大木の知らないホステスだった。

「あれ、みんな帰ってしまったの。あなたは ?」

 大木はびっくりして聞いた。

「みなさん、お帰りになりました。わたしはこんな夜なので、誰か道に迷った方がいらっしゃるのではないかと思って、お待ちしていたのです」

 見知らぬホステスは言った。

「でも、いつからここで働くようになったの ? 初めてだけど」

 大木は理解出来ないままに聞いた。

「はい、今夜は特別ですので」

「そうか、それにしても居てくれて良かった。新宿駅は分からないし、終電車も、もう出てしまっただろうから、途方に暮れるところだった」

「霧はますます深くなって来ますわ。ラジオではしきりに死者の状況を放送しています。街角という街角には死体が山積していて、都の衛生局では特務班を編成して死体の処理に当っているという事です」

「そうですか、それは知らなかった」

 大木は驚いて言ったが、自分が今、見て来た光景は、妄想とか幻想の類いではなくて、あるいは死者の魂が呼び起こした現実ではなかったのか、とぞっとしながら考えた。

「今夜はこんな夜ですので、もう、お帰りになるのは無理ですわ」

 ホステスは言った。

「そうだなあ。これじゃあ、とても帰れそうにない。今夜はここで一晩中飲み明かしといこうか」

 大木は言った。

「そうですわ。でも、もう午前一時を過ぎていますから、営業は出来ませんので、わたしの部屋へ御案内致します。もう、洗い物も終わりますから」

「住まいは近いんですか」

「はい、すぐです。この霧の中でも御心配はいりませんわ」

 この女は何歳ぐらいになるのだろう ? 大木は思った。 三十歳になっているのだろうか ?

 淡い照明の中でも、どこか透き通るように白く見える女だった。

 大木は取り敢えず入り口に近いスツールに腰を下ろして、女性の片付け物が済むのを待つ気になった。

 ポケットから煙草を取り出し、ライターを擦った。

 ライターは霧に濡れてしまったのか、重い音を立てるばかりで火が点かなかった。

「ちょっと、マッチを貸してくれない。霧の中を歩いて来て濡れてしまったのか、ライターが点かないんだ」

「あっ、御免なさい」

 女は言って、手を拭きながら振り返るとマッチを手にして自分で擦った。

 そのマッチも湿気っているのか、折れるばかりで火が付かなかった。

「こんな夜だから、みんな湿ってしまったんだ」

 大木はくわえた煙草をしまうと言った。

「御免なさい」

 女は言った。

「悪いけど、ちっょと電話を貸してくれないかな。心配するといけないから、家に電話をしておこう」

 大木はスツールを下りると、入り口横の電話へ向かい受話器を取った。

 ダイヤルを廻し、受話器を耳に当てるとしかし、そこからはなんの音も聞こえて来なかった。

「プラグは抜いてないよね」

 大木は受話器を見詰めながら言った。

「はい、繋がっています」

「おかしいな、番号を間違えたのかなあ」

 大木はもう一度、数字を確かめながらダイヤルを廻した。

 やはり受話器に聞こえる音はなかった。

「電話も霧で故障をしてしまったんだろうか、何も聞こえない」

 大木は言った。

 女は洗い物も終えたのか、カウンターの中で大木を待っていた。

 大木はその女を見ると何故とはなしに、突然の孤立感に捉われた。家族は無論、外の世界と大木を繋ぐものとが完全に遮断され、この見知らぬ女と二人だけ、霧の夜の中に閉じ込められた思いがした。

 女はそんな大木の焦燥感を逸早く見抜いたのか、

「何も御心配いりませんわ。霧が晴れて明日になれば総てがまた、元通りになりますわ」

 と言った。

 " それは、そうかも知れない " 大木はそう思ったが、この夜が永遠に続いてゆくような不安な思いもまた、拭い切れなかった。

 大木が体を硬くして電話機の前を離れると、女はカウンターをくぐり抜けて来た。

「ここに居ても仕方がありませんので、わたしの部屋へ参りましょうか。そうすればベッドもありますし、体を横たえて休む事も出来ますから」

 女はそう言うと大木を導くように狭いフロアーのテーブルの間を歩いて奥へ向かった。女はそこで一つの壁を押した。

 そこには出口があって、音もなくドアが開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 


遺す言葉 243 小説 夢の中の青い女 他 芸術考

2019-05-19 23:43:50 | 日記

          芸術考(2019.5.11日作)

 

   芸術 芸術 と

   崇め 奉らない 方がいい

   芸術で 命は 維持出来ない

   命に係わる作業 日々 日常

   生活 生きる場での 行為 行動

   最も尊く 大切

   芸術は命に奉仕する 脇役

   日々 日常 生きる場 生活する場

   その場での 謙虚な 行為 行動 作業

   最大 称賛され 得べきもの

   ありふれた便器を提示した 芸術家

   現代芸術への 痛烈な皮肉

   街の中 

   公衆トイレ その壁の

   雨の染み 切り取る角度で

   芸術にも 成り得る

   それが

   現代芸術

 

 

          ----------

 

 

          (8)

 

 社員もいなくなり、 事務所も失って無一文になった大木には、もはや大木貿易を維持してゆくだけの力はなかった。

 大木は僅かばかりの在庫を処分し、債務を回収して最後に残った雑費の支払いに当てると、大木貿易を閉鎖した。

 それからの大木の生活は、正に苦闘の歳月だった。最初のスーパーを手に入れるまでの十数年間、大木は四時間以上の睡眠を取ったことがなかった。夜はバーテンダーとして、早朝五時過ぎからは、築地の卸売市場で場内配達員しての仕事をしながら身を粉にして働いた。

 治子にとってもまた、その十数年間は苦闘の歳月だった。再起を目差す大木の心を知って、新聞配達員、スーパーマーケットのパートタイマー、保険外交員、ガス会社の集金員などと、かつては贅沢三昧で、働いた事もなかった体に鞭打って働いた。

 牧子を身ごもった時、大木は働き続ける治子の身を案じて堕胎を勧めた。治子が保険外交員をしている時の事で、勝夫は四歳になったばかりだった。

 治子はだがその時、頑ななまでに大木の勧めを受け入れなかった。働きづめに働いて、何一つ潤いのない日々の生活の中で牧子を産む事は、治子に取っては唯一、自分がこの世に生きている事の確かな証しを得る事であったのだ。

「もう少し、先への見透しが付いてからでも遅くはないじゃないか」

 大木は言った。

「いやよ」

 治子はいった。

「わたし達の間に生まれて来る命まで殺して、わたしが生きている理由なんてないわ」

 牧子を産んでからの治子の頑張りは以前にも増していた。牧子を抱いてのガス会社の集金員の生活が始まった。大木にしても、牧子が生まれてみれば女児のこともあって、ひときわの愛情を覚えずにはいられなかった。大木は治子と牧子の二人へ寄せる深い愛情の思いと共に、治子の身もまた案じて、

「君がそこまでしなくてもいいよ。その分、俺がもっと働くから」

 と言った。

 治子はだが、

「平気よ。かえって働いていた方が、気持ちに張りがあっていいわ」

 と言って、受け入れる素振りも見せなかった。

 大木と治子が知り合った結婚前の月例パーティーの仲間内でも、治子はおしゃれの気取りやで通っていた。そんな治子からは考えられない変化であったが、さすがに定評のあった美貌にもやつれが見え、牧子を抱えての、日中を集金に歩く治子の姿は痛々しくさえあった。

「見て、こんなに陽に焼けて」

 風呂上りの鏡の前で振り返るその眼元にだけ、僅かに昔の美貌を留めるだけになっていた。

 最初のスーパーを手に入れたのは、そのような生活の中での思わぬ偶然からだった。築地市場で繋がりの出来た魚屋が、四谷にある魚屋と八百屋を兼ね備えた店が売りに出ていると話した事が発端になっていた。老夫婦が店員を使って営業していたが、店主が急死し、老妻は一人でその店を維持してゆくだけの気力を失くしていた。

「あの店からすれば、捨て値のようなもんだよ」

 魚屋は言った。

 十数年間、大木と治子が無我夢中で働き、蓄えて来た金は、その売値に匹敵するだけの額があった。大木はその話しに乗り気になり、治子に話した。

「あなたがそれでいいって言うんならいいわ。その為に働いて来たお金なんだから。でも、今度だけは騙されないでよ。今度騙されたらもう終わりよ」

 治子は言った。

「当たり前だ。痛みは俺自身よく知っている」

 大木は希望とも自信とも付かない感情に突き動かされて機嫌よく言った。

 その店舗を手に入れてからの歳月は、大木自身、時として恐ろしくなる程の順調さだった。これは何処かに落とし穴があるのではないか、と思うぐらいで、時として、恐怖感を覚えるような事もあった。自分が再び無一文になった夢を見て、夜中に飛び起きた事も一度や二度ではなかった。その反面、今まで治子と一緒に懸命に努力して来た事を思えば、これぐらいの僥倖があってもおかしくはない、という思いもまた、何処かにあった。

 治子の大木に対する献身には、依然、変わりはなかった。自ら進んで商品の仕入れに出向く事もしばしばだったし、売り場内の配置や、人心掌握にも心を配った。

「わたしにも倉田紡績創業者の血が流れているのかしら」

 治子は笑った。

「当り前だろう。お父さんの娘なんだから」

 大木は言った。

「それにしても、こんなに夢中になれるなんて、自分でも信じられないわ」

 店舗の数が増える度に大木は旧店舗を治子に任せ、自分は新店舗に掛かり切りになった。

 会社組織に改めた時には、治子が副社長に就いた。

 現在、大木の胸中には、店舗拡張の計画はなかった。だが大木は、近い将来の夢として、大木の住む市内の駅前の一画に小さな劇場を建て、そこを映画や音楽などの、自分の好み合った芸術や芸術活動の拠点にして係わってゆきたいという思いを持っていた。大木に取ってそれは決して突飛な夢ではなかった。苦闘の日々の中で大木が僅かに気を紛らわす事の出来たものが、時折見る低料金の名画座での映画や、喫茶店などで何気なく耳にする音楽などだったのだ。大木はそんな夢を何気なく、冗談のように治子に話した事があった。すると治子は厳し言った。

「でも、まだそんな余裕なんてないわ。それはあなたの道楽よ。そんな所からほころびが出来るのよ。気を付けてよ」

「道楽かな」

「道楽よ。ようやく仕事が軌道に乗って来たばかりじゃない」

 治子は冷ややかだった。

 ーーそうか ! とこの時大木 は、ようやく胸に思い当たるものを探り当てた気がした。

 治子はそんな俺に不満を持って、専務の三谷と手を結んだのか !

 大木はやっと霧の晴れてゆくような気持ちの晴れやかさを覚えた。

 だが、それにしてもなぜ、たったそれだけの事で、治子が俺を見捨てなければならないんだ !

 今日まで大木に寄せて来た治子の信頼からすれば、考えられる事ではなかった。

 それとも他に何か、厭になる訳でもあったのだろうか ? 俺を死んだもの扱いにしている。しかも、治子ばかりではない。勝夫と牧子の二人までもがそうだ。

 そこまで来ると大木はまた、分からなくなった。

 いったい、何があったと言うんだろう ? 今朝、俺が家を出る時には普段と何も変わらなかった。たった一日のうちに、何がどうなってしまったと言うんだ。

 もう、自分には治子も勝夫も牧子もいないと思うと、大木は不覚にも涙をこぼしそうになった。

 大木は気力も失せたまま、明かりのない廊下をとぼとぼと歩いて行った。自分がまるで、暗い海原を漂う小舟のように思えた。身も心もボロボロになっているのを感じた。

 ーー大木は思わず眼を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


遺す言葉 242 小説 夢の中の青い女 他 その心は

2019-05-12 15:00:09 | 日記

          その心は(2019.5.8日作)

 

   その心は

   本当に死にたいのか ?

   単に 今が苦しく

   淋しくて 悲しくて 

   辛いだけではないのか ?

   -----

   人間 死にたい時には 一度

   死ぬがいい 一度 死んで

   自分を殺せば

   自分の "心" を 殺せば

   裸になれる 裸になれば

   見えて来るものが あるだろう

   -----

   地球は いつでも

   廻っている

   夜が明ければ

   朝が来る

   朝が明ければ

   夜が来る

   -----

   その心は 本当に

   死にたいのか ?

   今が辛くて

   苦しいだけではないのか ?

   一日待て

   一夜待て

   一週待て

   時はいつでも巡っている

   辛く 苦しい心も

   耐えて忍べば いつかは

   晴れる

   霧の晴れた 朝が来る

   永遠 永久(とわ)に 続く

   夜など ない

   永遠 永久に 続く

   悩み 霧など ない

   心の 霧も 悩みも

   いつかは 晴れる 晴れるだろう

   忘れる心 その心 を 持つ

   その心 忘れる心 その 心 の

   向こうには 彼方には

   霧の晴れた 明るい朝

   希望の朝が あるだろう

   希望の光りも 見えるだろう

   光りに満ちた 一筋の

   明るい道 希望の道も

   見えて

   来るだろう 

 

 

          ----------

 

 

          (7)

 

 勝夫が生まれてまだ、二年と経たない頃だった。当時、大木はアメリカからの輸入食品の販売に携わっていた。その事業の拡大を急ぐあまりに、思わぬ詐欺行為の手口に見事に嵌まってしまっていた。迂闊と言えば迂闊、無知と言えば無知。いずれにしても自身が経営する会社の基盤を根底から突き崩す被害を被っていたのだ。それを救ってくれたのが治子だった。

 治子の父は生前、オーナー経営者として倉田紡績の六十数パーセントに及ぶ株式を保有していた。だが、その死と共に、大部の株式が相続税対策として処分された事は、ニュースなどでも取り上げられ、話題になった事で大木も知っていた。

 大木は詐欺被害の対策に、何としても五千万程の資金が必要になった時、まず頭に浮かんだのが、その治子の実家だった。

 治子の実家に頼めば、取り敢えずの必要資金は工面出来るのではないか ?

 しかし、そんな思いはすぐに、五千万もの借財を申し込んだ自分に、実家の者たちがどのような眼差しを向けて来るだろうと考えると、たちまちのうちに萎えてしまった。

「大きな事を言っても、結局、あの男も口先だけの人間なんだよ」

 そんな実家の人たちの口ぶりが、眼に見えるようだった。

 大木にとって治子は、紛れもない良妻と言えた。かつて治子が、実家を鼻にかけ、大木に何かを強要した事は一度もなかった。治子との結婚生活は、幸福そのものの思いだけが強かった。それだけに大木も、なんの憂いもなく事業に専念出来たのだったが、それが正しく裏目に出て、みすみす甘い詐欺の手口に嵌まってしまっていたという事だった。

 大木は日に日に決済の迫って来る五千万の金の工面が出来ないままに、ただただ、東南アジアに本拠を持つというプロ詐欺集団への警察の、捗々しくない捜査の進捗状況に無力感と苛立ちを募らせた。

 結局、三十年足らずの人生もこれまでという事か・・・・・

 なんとなく投げ遣りな気持ちで呟くと大木は、ふと、今までは考えてもみなかった事であったが、その思いが胸の中で大きく膨らんで来るのを意識した。そして、その思いに引き摺られるように大木は、八方塞がりという現在只今のこの苦しい状況の中では、唯一それが自分自身が安心、安らかになれる、最善の道のような気がして来て、それからは連日連夜、胸の中で反芻していた。

 ---本当にその覚悟はあるのか ?

 もし、そうする事が出来れば、治子の実家に生き恥を晒す事もなく、治子にも、自分が仕事に賭けた情熱の本気度を分かって貰えるのではないか、という気がした。

 大木はある夜、とうとう心を決めると治子に出来事の一部始終を話して離婚を申し出た。大木がいなくなった後に、治子に迷惑の掛かる事を避ける配慮からだった。

「とにかく、俺が立ち直るまでは形式だけでもいいから、離婚に承諾の判を捺してくれ」

 大木の仕事に一切、係わる事のなかった治子には、大木が何か、慌ただしく動いているとは分かっていても、その言葉のすべてが初めて耳にする言葉だった。

「なぜ、もっと早くなんとかしなかったの !?」

治子は咎める口調で言った。

「なんとか出来れば、こんな事にはなっていなかったよ」

 大木は苛立ちを込めて言った。

 治子は黙っていた。

 治子と大木が知り合ったのは、月々、都内で開かれるあるパーティでの事て゛あった。初め大木は、治子が倉田紡績の創業者の娘だとは知らなかった。一年近い交際の後、結婚の話しが出るようになって、初めて知った。

 この時、治子の父は既に亡くなっていた。それでも大木には、倉田紡績の創業者の娘という事で、大きな気持ちの緊張感を強いられるような気がしていたのを、今でも鮮明に思い出す事が出来た。

 その夜、治子はそれ以上は言わなかった。だが、治子はその時既に、鋭く大木の心の中を見抜いていた。

「わたしが判を捺したら、自殺するつもりなんでしょう」 

 睨み付けるような眼で言った。

「そこまでは考えていない」

 大木は心の中を見抜かれた動揺を隠して平静を装い言った。

 翌朝だった。

 治子は食事の前に、

「昨夜の事だけど」

 と言って切り出した。

「わたしの名義の倉田紡の株券が、大阪の母の所にまだ少し残っているはずだから、それを処分すればいいわ」

 と言った。

 治子の話しではざっと見積もっても、時価六千万に近い数の株式だった。

 大木は息を呑んだ。無意識のうちに体が震えていた。

 思わぬ僥倖による喜びのためではなかった。恐怖とも言っていい感情に大木は怯えていた。

 それは正しく大木がこの苦境から救われるだけの金額だった。それを最も身近にいる治子が持っていたーー。 

 一度は諦め、心を決めてみたものの、希望があれば縋りたいのが人の真情に違いなかった。

 一方、そんな大金を最も身近にいる妻とはいえ、なんの保証もないままに受け取ってもいいものだろうか、という思いもまた、心を動かした。

 紛れもなく、一瞬の間に消えてなくなってしまう金だった。再び取り戻せるという当てもない。

 その上、更に複雑な思いも絡んで、治子の母や兄弟たちはなんと言うだろうという、倉田の家への思いもまた消えなかった。娘の財産を食い潰す甲斐性のない奴 !

 治子がその日まで、それ程の株式を所有していたのを黙っていた事に付いては大木は、今までそれを必要としなかった事もあって、格別の不満は抱かなかった。治子が夫の窮状を見兼ねて正直に打ち明けてくれた事に、むしろ、感謝したい気持ちの方が強かった。

 大木はその日、食事も満足に喉を通らないままに出社すると、誰もいなくなった事務所で一日中机に向かい、思い悩んでいた。

 結局、大木が治子の申し出を受け入れる気持ちになったのは、死への恐怖もあった上に、なによりも、謙虚な気持ちでもう一度、やり直してみたい、という再起への思いが強かった為だった。

 その夜、大木は、

「その株は君の一存で処分してしまってもいいのか」

 と、改めて治子に聞いた。

「生前、父がわたしの為にって、少しずつ譲渡してくれた株だわ。誰に迷惑を掛ける事もないわ」

 治子は言った。

「お母さんや、お兄さんは、なんて言うだろう」

「今更、そんな事を言っても仕方がないでしょう」

 大木はここまで来てなお、未練がましく言い訳めいた言葉を口にしている自分に嫌悪感を抱いたが、治子もまた、それを感じたらしく、不機嫌に言った。

「でも、その株は君にとってはどぶに捨てるようなものじゃないか」

「じゃあ、どうしろって言うの ? わたしと別れて死ぬって言うの ?」

 治子は泣いていた。

 ・・・・・今、この夜の中で大木はその治子の涙を限りなく懐かしく、美しいものに思うのだ。治子の愛の純粋さを思うのだ。あの時、株式を処分して大木が急場を切り抜けた時、治子は、

「これでわたしはもう、倉田紡績とはなんの関わりもない人間になったわ」

 と、気抜けした様子で言った。

 治子にとっては、現在兄が社長に就いている倉田紡績の株式を持ち続ける事は、亡くなった父との関係を持ち続ける事でもあったのだ。

 大木はその夜、治子の顔を見る事も出来なくて、黙ったまま酒を呑み続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

   


遺す言葉 241 小説 夢の中の青い女 他 種を蒔く

2019-05-04 15:28:07 | 日記

          種を蒔く(2019.3.21日作)

 

   人は 今を生きるという行為の中で

   日々 何かしらの種を蒔いている

   その種には 良い 種もあり 悪い 種もある

   蒔かれた種は やがて芽を出し 実を稔らせ 世の中

   世間に 何かしらの果実を残す その果実が

   良い 果実であるか 悪い 果実であるか 当然ながら

   蒔かれた種の 良し悪しに 決定される

   それなら 人はせめて 日々

   良い 種を蒔き 良い 果実を稔らせるよう

   誠実 真摯に 一日一日を

   生きてゆこうではないか

 

 

     ----------

 

 

          (6)

 

 牧子は将来、ボランティア活動のために、アフリカの奥地へ行きたいなどと言っている。大木は勿論、反対するつもりでいた。そんな見知らぬ遠い土地へ娘を手放す不安に耐える事など出来そうにもない。大木にとっては、牧子はいつまでも自分の傍に置いておきたかった。いつまでも休日の買い物や散歩を一緒に楽しみたかった。

 大木は牧子へのそんな思いと共に、こんな夜にこそ、娘と二人で静かな時間を過ごしたいと思った。

「牧子、牧子、居るかい ?」

 大木は部屋の中へ囁きかけるようにして言った。

 明り取りの小窓を通して明かりの漏れて来る部屋からはしかし、なんの返事も返って来なかった。

 大木は軽くドアを叩き、中の物音に耳を澄ました。

 相変わらず部屋の中には物音もなく、返事もなかった。

 大木はいったんドアから離れると改めて部屋を確かめた。

 いつもの見慣れた牧子の部屋に間違いはなかった。

 大木は再びドアの傍へ行き、把手を手に廻してみた。

 把手の軽い回転と共に、ドアは訳もなく開いた。

 大木は中の様子を窺うようにしながら、そっと部屋へ入った。

 その時、部屋の右手のベッドにいた牧子が半身を起こして振り返った。

 牧子は上半身裸で、下半身は白っぽいシーツで覆っていた。

 向こう側には牧子の陰になって、男がやはり裸で横たわっているのが見えた。

 牧子は大木の顔を見ると悲鳴を上げた。

「お兄ちゃん、変な人よ」

 牧子は続いて叫んだ。

 牧子の陰にいた男が裸の体を起こした。

「誰だ !」

 男は牧子に聞いた。

「ほら ! あの人」

 牧子は大木を指差した。

 男は長男の勝夫だった。

 勝夫は厳しい表情で大木を見詰めると、

「黙って他人の部屋へ入って来るなんて、失礼じゃないか。出て行け !」

 と怒鳴った。

「おまえたちは兄妹で、いったい、なんていう事を !」

 二人の間に明らかにセックスの余韻が漂っているのを見て大木は思わず叫んだ。

「俺たちが何をしようと、俺たちの勝手じゃないか。他人のあんたなんかにつべこべ言われる筋合いはないよ」

 勝夫は腹立たしげに言った。

「他人 ? 他人とはなんだ 。お前はお父さんの顔も忘れたのか !」

 大木は激して怒鳴った。

 勝夫は一瞬、呆気に取られた顔をした。それから、いかにも可笑しげに、

「牧子、聞いたか、お父さんだってよ」 

 と言って、ゲラゲラ笑い出した。続けて

「今更、お父さんだなんて、馬鹿ばかしい」

 と、嘲るように言った。

「今更とはなんだ ! 今朝、ちゃんと顔を合わせているじゃないか !」

 大木は言い返した。

「あのね、わたし達のお父さんは死んでしまってるのよ。ちゃんとお葬式も済ませてあるわよ」

 牧子は白い豊かな胸を隠しもしないでベッドの上に座っていた。

「いったい、お前はなんていう事を言うんだ。お父さんは現に、ここにこうしているじゃないか、それをいったい、なんていう事を !」

 大木は牧子のいかにも女らしく成長したその裸体にドギマギしながら言った。

「いいから、あんたなんか出て行けよ。俺たちは今、愛し合っている最中なんだ。霧の深い夜にはセックスが最適だって、ラジオで言ってたのを聞かなかったのか」

 勝夫はいかにも若々しく勃起した性器を誇らしげにさらけ出して、ベッドから降りて来ると大木を押し出そうとした。

「勝夫 ! お前はお父さんを忘れたのか !」

 大木は勝夫の圧倒するような逞しい肉体に押され、じりじり後退しながら言った。大木はこの逞しい肉体の成長の過程を知っていた。それが今、大木の前に凶器のように立ち塞がっていた。

 大木は怒りと共に瞬間、まだ幼かった頃の勝夫を懐かしく思い出した。

 その勝夫が今こうして、大木を裏切る、などとは考えもしなかった事だった。ーーこの勝夫は本当の勝夫ではない。何処かで間違った勝夫なんだ。

 大木は必死に自分に言い聞かせながら少しずつ、脅かして来るような勝夫の前を離れ、ドアの出口に後退した。と同時にこの時、大木の心の中では奇妙に、勝夫と牧子が遠くへ行ってしまったような気がして、言い知れぬ寂しさと孤独感に捉われた。その寂しさと孤独感から逃れるように大木は、ひと思いにその部屋を飛び出すと自らドアを閉めた。そのまま、ドアに背を持たせ掛け、打ちひしがれた思いで頭を垂れた。

 勝夫と牧子がベッドの上で愛し合う姿が、真っ暗な脳裡に浮かんだ。大木はなぜかそこに、不道徳感を抱くよりも、自分が独り取り残され、置き去りにされたような淋しさを抱いて、思わず嗚咽を漏らしそうになった。

 大木はようやくベッドの上で愛し合う二人の幻影を追い払うとドアを離れた。気力の失せた足取りで暗い廊下を独り、また歩き出した。こういう時、もしも、妻の治子がいてくれたら、と思ったが、その治子もまた、専務の三谷と一緒に大木を裏切り、不倫に走っていたのだ。治子も今頃、あの男と何処かの部屋で愛し合い、抱き合って、大木が知り尽くしたあの表情で恍惚の境地を彷徨っているのに違いない。

 大木は治子への高まる憎悪と共に、最初の事業に失敗した当時の妻を、懐かしく、はるか遠い夢の中での事のように思い浮かべていた。あの時の治子は優しく、その美貌と共に心もまた、美しかった・・・・・