遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 240 小説 夢の中の青い女

2019-04-28 10:57:09 | 日記

         (5)

 

" 俺は現にここに居るのに、あの二人は俺が死んだなんて言っている。

 待てよ、これは役者が治子と三谷明に扮して演じている芝居ではないのか ? その証拠に、二人は明らかに舞台の上にいたではないか。 "

 大木は確かめるために墓石の陰から出ると、舞台の方へ歩いて行った。

 左手の袖にある小さな階段を登ると舞台へ上がった。

 舞台の上には照明だけが明るく、何もなかった。

 治子と三谷が消えて行った奥を窺うと、そこには部屋があって、大勢の人々が集まっていた。大木は不審に思い傍へ行ってみた。するとそこでは通夜が行われていた。部屋の正面に葬儀用の祭壇が設えられていて、いっぱいの供花に埋まるようにして黒枠の写真が飾られていた。大木は、さっき、治子と三谷が社長の葬儀は滞りなく終わりました、と話していたが、これはいったい、誰の通夜なんだろうと思いよく見てみると、写真の中には明らかな大木自身の顔が映っていた。

 大木は眼を疑い、狼狽した。

" やっぱりこれは、夢なんだ ! 紛れもない夢なんだ !"

 懸命に自分に言い聞かせた。

 しかし、大木にはそれでも納得出来なくて、焼香の順番を待つ人の傍へゆくと聞いてみた。

「いったい、これは何なんです ?」

 振り向いた男の顔を見て大木は更に驚いた。

 男は大木が経営するスーパーの四谷店店長だった。

 店長は大木の顔をチラッと見ると、全く見も知らぬ人でもあるかのように、大木を無視して正面を向いた。

「おい、松本。これはいったい、どうしたという事なんだ」

 大木は苛立ちを込めて言い放った。

「うるさい人だなあ。見れば分かるでしょう」

 松本店長は、まだ若い三十歳の顔に明らかな不満の表情を滲ませて言った。

「見れば分かるだろうって言ったって、あの写真の中の俺は現にここに居るじゃないか」

 大木は言った。

「いったい、あなたは誰なんです ? いい加減にして下さいよ」

 松本店長は語気を強めて言った。

「松本、よく見ろよ。俺だよ、俺。俺の顔をよく見てみろよ」

 大木は言った。

「知りませんよ、あんたなんか !」

 松本店長は怒ったように言った。

「知らない ? 知らないはずはないだろう。社長の大木だよ」

「バカを言っちゃあ、いけませんよ。大木社長の通夜が今、こうして行われているんですよ」

 松本店長はプイと顔を背けてしまった。

「冗談もいい加減にしろよ」

 大木は怒鳴った。

「冗談なんかじゃありませんよ。一人の人が亡くなったというのに、冗談なんか言えますか ?」

 松本店長は再び大木の方に顔を向けると、怒りを込めて言った。

 大木は苛々しながらも、松本店長との埒の明かない遣り取りに見切りを付けてその場を後にした。祭壇の前へ行き、自分が今、ここに居るという事を証明しようとした。

 それを見た松本店長が大声で叫んだ。

「変な奴がいる。頭のおかしな奴がいるぞ。そいつを撮み出せ」

 声を聞いた大勢の人たちが一斉に大木に注目した。それからすぐに、大木のそばへ来ると寄ってたかって大木を取り押さえ、僧侶の読経が続く中で突き飛ばすようにして廊下へ押し出した。その背後で、わざとらしく、大きな音を立てて扉が閉められた。

 大木は怒りで全身を震わせながら、閉ざされた扉の把手を握り、乱暴に廻した。

 扉は固く閉ざされたまま、ビクともしなかった。

 大木は悔しさのあまりに体ごと扉にぶち当てた。

 それでも扉は開かなかった。

" いったい、何がどうなってるんだ ! "

 大木は叫んだ。

 それに答える人はいなかった。

 大木は分厚い扉に隔てられたまま、しばらくはその扉に両手をついたままじっとしていた。

 たぶん、これは夢なんだーー。大木には分かっていた。

 だが、その夢の中でも大木は、夢と分かっていながら絶望していた。そして、その夢を見ている大木には、夢の中で絶望している大木をどうする事も出来なくて、ただ、手をこまぬいているより仕方がなかった。

 大木はようやく諦めると扉を離れた。落ちぶれ果てた人のように背中を丸め、人気のない廊下を歩き始めた。

 しばらく行くと今度は、右手に明かりの点いた部屋が見えて来た。それを見た時大木にはそれが、普段、見慣れている娘の牧子の部屋だという事がすぐに分かった。部屋の明かりが点いている様子から、中に牧子がいるのに違いないと判断した。

 牧子の部屋なら安心だ。大木は安堵の思い出で呟いた。

 大木と牧子は、牧子が難しい年齢にあるにも係わらず比較的、旨くいっていた。大学二年の勝男が何かと長男気取りで大人ぶるのに対して、牧子にはいつまでも子供っぽいところがあって、大木に甘えていた。大木もまた、牧子は眼に入れても痛くないといった表現そのままに、溺愛していた。二人は休日の買い物などにもよく出歩いた。

 牧子には道を歩く時、なにかと体を寄せて来る癖があって、大木の腕を取ると乳房の触れるのもかまわずに、ぶら下がるようにして歩いた。

「もっと離れて歩きなよ。お父さんが重くてかなわないよ」

 と言うと、いっ時離れてもすぐにまた、同じように体を寄せて来た。

 大木は一メートル六十を超える牧子の大人びた体にまぶしさを抱きながら、触れる乳房の柔らかい感触に親子の情愛の他に、甘酸っぱい微妙な酔い心地にも似たものを感じて戸惑った。

 どちらかと言うと牧子は母親似だった。そのきめ細かい陶器のように滑らかな肌は、若さに特有の艶めきに輝いていた。整った細面の顔立ちといい、恵まれた肢体といい、大木は娘が将来、美人になると見込んでいて、それも大木の人生の楽しみの一つだった。

 

 

 

 

 

 

 


遺す言葉 239 平成の終わりに

2019-04-25 17:21:15 | 日記

          今 佇む時に(2009.12.14日作)

             この文章は十年前 平成二十一年に書いたものですが

             平成の終わりに当り今 掲載したく思います

 

   昭和二十一年 1945年8月15日

   この国は自らが引き起こした

   あの愚かな戦争に敗れた

   この年の四月 わたしは

   国民学校の一年生になっていた

   現在 平成二十一年 2009年

   七十一歳になったわたしの眼に 心に

   見えて来るものは

   行き止まりの人生 わたし自身の

   生涯の姿 混迷を極め

   衰退の色彩を色濃く滲ませる 

   この国の姿だ

   もはや 活力に満ちたかつての

   日々の輝きは

   わたし自身にも この国の姿にも

   見る事は出来ない

   峠を下り行く道筋を見つめ

   やがて辿り着くであろう場所に

   思いを巡らし 茫然と立ち竦んでいる

   -----

   昭和二十年代 この国は

   開戦から敗戦に至る過程の中で

   荒廃し 疲弊し切っていた

   わたしは父や母 兄妹たちと住んでいた

   東京 深川の家を

   昭和二十年三月十日未明の

   東京大空襲で焼かれ

   母の故郷の九十九里の海に近い村に

   疎開していた

   物の乏しかったあの時代

   今日を生きるのにさえ困難を極めた

   あの時代

   人々は貧しさからの出口を求め

   懸命に生きていた

   いつかは きっとーーー

   荒廃した国土の中で 

   明日を夢見て生きていた

   ただ ひたすらに がむしゃらに

   今よりもっと上へ

   -----

   それでも あの頃にはまだ

   夢見る事の出来る明日があった

   希望があった

   平成二十一年 2009年現在

   あの愚かな戦争と それに続く

   敗戦により

   悲惨な日々を強いられ

   それでも逞しく戦後を生き抜いて

   この国を支えた最初の世代の人たちの

   多くは亡くなり わたしの両親も亡くなり

   そして今 この国を支えた第二の世代とも言える

   戦後に子供の時代を過ごして

   この国の復興と共に青春を生きた

   わたし等もすでに

   老いの時代を迎えている

   ーーーーー

   昭和二十年代 1950年代

   この国は敗戦後の

   困難な時代を乗り越え

   ようやく 新たな時代への手掛かりを

   掴み始めていた

   それでもなお 豊かさとは程遠い日常の中で

   人々は働き蜂と言われ

   ウサギ小屋やマッチ箱の家に住む国民と

   他国に揶揄され 嘲られながら

   ひたすら明るい未来を信じて

   明日に向かい 突き進んでいた

   -----

   やがて この国にも

   戦後の奇跡と言われた復興が訪れる

   曲折はあったにせよ

   一億総中流化と言われる時代が来た

   平成二十一年 2009年現在

   この国が羨望の眼差しで見詰める

   巨大な国土を持つ隣国の

   年率八パーセントを超える成長をも凌ぐ

   年率十パーセントを超える成長を

   何年にもわたって果たし

   更に 二度にわたる

   オイルショックと呼ばれた苦難の時代をも

   懸命な努力と 創意 工夫で乗り越え

   空前の好景気に沸くバブルの時代を迎えた

   人々は 世界第二の経済大国と呼ばれ

   次の世紀は この国の世紀だと

   遠い国の誰かが言った言葉に

   さしたる疑念も抱かずに

   豊かさに酔い痴れ 我が世の春を謳歌して

   わたし等もまた 飽食 享楽に馴れ親しんで

   もはや 欲しい物はない と豪語するまでになっていた

   ーーーーー

   しかし 時の流れの永遠に留まる事は

   いつの時代にもあり得ない

   まれに見る国家の繁栄下

   この国を支えた第二の世代も 次第に年老い

   若き日の活力と輝きを失い始めた頃

   この国にもまた 衰退の影が忍び寄っていた

   平成二年 1990年

   戦後の奇跡とも言われ

   一億総中流化と言われた時代の中で

   積み重なった幾多のひずみが一挙に露呈して

   さしもの国家の繁栄も 崩壊の過程に至っていた

   -----

   以来 十数年間

   この国は宴のあとの始末に追われ

   失われた十年とも二十年とも言われるまでの

   経済の低迷にあえぎ

   平成二十一年 2009年の今なお

   未来への明るい展望を描けずにいる

   のみならず 飽食 一億総中流化時代の中で

   豊かさを当然の事として生きた来た

   今の時代を支える世代には

   かつての世代が見せた がむしゃらに時代を生き抜く

   覇気もなく 活力もなく

   豊かな時代が僅かに残した富とも言えるのか

   かつての世代には見られなかった

   身に備わった洗練さとも言えるものを

   垣間見せる裏に

   ふと 顔をのぞかせる ひ弱さ 脆弱さが

   逞しく がむしゃらに貧しい時代を生き

   今はただ 迫り来る人生の終わりの時を目前に

   たたずむだけのわたし等の

   不安を誘う

   この国は何処へ ?

   -----

   次の世紀は この国の世紀と言われた言葉の実現は

   もはや 望むべくもなく 遠い夢のように思われ

   巨大な国土と国民を持つ隣国を始め

   かつてのこの国と同じように今はまだ

   貧しさから抜け出せずにいる国々の人たちの

   溢れる熱気の前に

   茫然とたたずむこの国

   この国はもはや それらの国々に圧倒され

   この惑星 地球上の片隅に追いやられてゆくだけの

   哀れな存在なのか

   終わりの時を目前に

   茫然とたたずむだけのわたし等と同じように

   それが この国の辿る運命なのか ?

   -----

   否 ! そんな事はない

   それ程に この国の未来に絶望し

   悲観する事はない

   この国には この国が持つ 独自の力がある

   幾世代にもわたって この国の人々が養い 育んで来た

   この国独自の文化がある

   戦後の困難を伴った あの混乱期を

   逞しく生き抜き 

   二度にわたっての厳しい経済状況にも

   見事に耐え 立ち直りを見せた人々の

   内に秘めた あの力 あの情熱がある

   身に備わった資質 

   直接 手に触れる事は出来なくても

   形として見る事は出来なくても

   体の奥に浸み込んだ この国の人たち独自の

   あの英知がある

   その泉はまだ 涸れてはいない

   その証拠に 平成二十一年 2009年現在

   この地球上 世界の各地に

   この国が持つ文化の力や その文化を生み出す

   人々の活躍する姿の浸透してゆく様子が

   見えて来ているではないか

   -----

   昔日の影を追い求める事だけが

   この国の生きる道ではない

   小さな国土 減少してゆく人の数

   巨大な国土を持ち 巨大な人口を誇る他の国々と

   量の 競い合いをする事はないのだ

   この国には この国の人たちが持つ資質を活かした

   この国独自の生き方がある

   小さくても緊密堅固な国

   ダイヤモンド国家

   石炭よりはダイヤモンド

   この国独自の力を持つこの国が目指すべきものが

   自ずと見えて来る

   新たな道が見えて来る

   -----

   もはや 失われたもの

   過去の栄光 過去の繁栄

   その影を追い求めるだけの生き方は

   愚かな生き方だ

   すべては移り逝く

   未来永劫続くものはない

   新たな道へ踏み出す勇気 その努力

   今 問われるのはその力

   -----

   かつての栄光 かつての繁栄

   そこに至るまでの道筋 努力

   すでに 終わりの時を目前に

   たたずむだけのわたし等には

   再び その道を辿り直すだけの時間も力も

   残されてはいないが 少なくとも わたし等には

   わたし等が困難な状況の中で 懸命に生き 

   そこで重ねて来た 努力と成功 失敗

   そこで得たものはなんであったのか 

   失ったものはなんであったのか

   それを語る事は出来る

   今を生きる者たちの前へさし示す事は出来る

   その経験が彼等の心につながり

   今を生きる者たちの

   新たな道へ踏み出すための

   力となり 道標となり得るならば

   人生の終わりの時を目前に

   茫然とたたずむだけのわたし等にも また

   新たな存在意義が生まれて来る

   -----

   過去から今 今から未来へ

   時を継ぐ

   過去 幾世代にもわたって受け継がれて来たもの

   この国の歴史

   この国の人 それぞれが今と向き合い

   新たな道を模索して今を生きる

   この国の人が持つ叡智 それを傾け

   それぞれの人が今を生き切る事で

   この国の新たな姿が見えて来る

   この国の新たな歴史が創られる

   今 この国が 必要としているもの

   この国の人たちが持つ叡智と 内に秘めた情熱

   新たな道へ踏み出すための勇気と努力

   さあ 今から始めるのだ

   この国の未来に向けて乾杯

   新たな国を夢見て 乾杯

   

      

  

   

   

   

   

   

   

      

   

   

   

   


遺す言葉 238 小説 夢の中の青い女 他 見えないものが

2019-04-21 10:28:20 | 日記

          見えないものが(2018.12.24日作)

 

   この世の中 世界には

   重さでは量れないものがある

   広さや 大きさ 高さ では

   量れないものがある

   -----

   この世の中には 

   人の眼には見えないものがある

   -----

   人が 人と人とで創る

   この世界

   人と人とを繋ぐもの

   心

   -----

   金子みすずはうたってる

   見えぬけれどもあるんだよ

   見えぬものでもあるんだよ

 

 

          -----

 

 

     (4)

 

 そんな中で車のヘッドライトだろうか、大木の腰の高さほどの所を次々に流れてゆく光りが見えた。それらは白い霧の中で一瞬、眼の前に浮かび上がったかと思うと、瞬く間に背後に流れて行った。大木は自分の周囲に林立するビル群の中で、日頃、見覚えのあるビルはないだろうかと探してみた。馴染みのビルを見つけ出せれば、そこから自分が今いる場所を判断する事も出来るだろう。新宿駅への方角も分かるというものだ。

 だが、次の瞬間、大木は思わず足を止めた。ビルだとばかり思っていたものが、よくよく見ると、実はビルではなくて、墓場に建つ墓石だったのだ。墓石が大木の周囲を埋め尽くし、連綿と続いているのが見えた。当然の事ながら、それらにはどれも窓はない。入り口のドアもなくて、のっぺりした石の肌の冷たさだけを見せていた。

 大木はまさか、と思ったが、そのまさかの通り、大木は何処とも知れない墓地へ迷い込んでいたのだ。大木の腰の高さをしきりに流れて行くのは、車のヘッドライトなどではなくて、紛れもない人魂だった。この、東京と言う大都会の真ん中で宙に迷った人の魂が、おそらく徘徊しているのに違いない。

 大木は幽かな人の泣き声を聞いたように思った。明らかにそれは人魂がもらす泣き声に違いないと思えた。

 大都会のしがらみの中で不本意に死んでいった人たちの怨嗟に満ちた泣き声に違いない。

 だが、またしても次の瞬間、大木は、

" ちょっと待てよ "

 と、急に湧き上がる疑念と共に、その声に耳を傾けた。

 するとその泣き声は、東京という、この大都会の宙に迷った人々の怨嗟に満ちた泣き声などではなくて、大木自身の体の内部から漏れて来る泣き声ではないのか、とふと、思えた。

 大木自身の心がしきりに泣いている・・・・・・

 でも、いったい、なんだって俺が泣いているんだ ?

 大木は狼狽し、慌てて自分の周囲を見廻した。

 当然の事ながら周囲には冷たい感触の墓石が見えるだけで、他には何もなかった。

 相変わらず白い霧は、その墓石を包み込むように流れていた。

 大木は茫然とその墓石を見つめながら、

 " 俺は少なくとも、この大都会では成功者と呼んでも差し支えのない人間の一人ではないか。年間、何億という商売をし、何十人という従業員を抱え、毎年、十パーセントに近い成長を維持している。その上、家族にも恵まれ、家庭は安泰だ。俺が泣かなければならない理由なんて、いったい、何処にあるんだ。ーーひょっとすると、これは何かのトリックだ。誰かが、俺を陥れようとして何かを企んでいるんだ "

 大木は改めてゆっくりと自分の周囲を見廻した。

 周囲の状況に依然、変わりはなかった。

 ただ、何処かで、大勢の人たちが大木の狼狽ぶりを嘲るかのように、クスクス笑っているような声が聞こえる気がして、大木は思わず聞き耳を立てた。

 改めて聞き耳を立てると笑い声は、どれか一つの墓石の陰から漏れて来るようだった。

 大木はしばらく様子を伺っていた。

 それからようやく、それらしい墓石を探り当てると近付いていった。

 黒御影石の大きな、深い霧の中でも明らかに際立って見える墓石だった。

 その陰から、何人もの人たちが体を寄せ合い、クスクス笑っているのではないかと思えるような気配が伝わって来た。

 大木は正体を突き止めた、という思いと共に、急に込み上げて来る激しい怒りに捉われて、一気に墓石の裏側に廻った。

 だが、大木がそこに見たものは、大木が予期した、身を寄せ合った大勢の人たちなどではなくて、想像だにしなかった奇妙な光景だった。

 煌々と照明に照らし出された舞台があって、その上に一人の人物が立っていた。

 大木は思わず声を上げそうになった。舞台の上に立っていたのは妻の治子だった。

 治子が胸元も露な、裾を引き摺るように長い白のドレスに身を包んで、まばゆいばかりに輝くダイヤモンドのイヤリングとネックレスを着け、誰かを待っているらしいし様子が見て取れた。

" いったい、なんだって治子が ? "

 大木は思わず、不可解な疑念に捉われながら呟いた。

 しかも大木は、その治子が誰かを待つらしい様子の中に、明らかな不倫の匂いを感じ取っていた。大木は体中の血が逆流する思いの中で熱くなりながら、しかし、なぜか奇妙に、自分を失う事はなかった。何かの力が働いて、冷静に自分をそこに押し止め、真相を突き止めよう、という思いの中にいた。

 舞台の上にいる治子はだが、そんな大木に気付いてはいなかった。しきりに舞台の奥を窺がっていた。そのうち急に、治子の表情が生き生きと輝いて「三谷さん、三谷さん」と叫びながら、舞台の袖の方へ走り寄っていった。

「ああ、ここにいたんですか ?」

 姿を現したのは、大木が経営する大木商事専務の三谷明だった。

 三谷は大木といる時いつも、社長の大木と間違えられるような恰幅のよい体躯をした五十一歳の体に、見慣れたグレイのスーツを着込んで治子に歩み寄っていった。

「お待ちになったのですか ?」

 三谷は言った。

「いいえ、わたしも今、来たばかりなんです」 

 治子は言った。

「社長の葬儀もこれで滞りなく終わりました。あとは大木商事をどのように運営してゆくのか、その点だけが問題です」

 三谷は言った。

「それは当然、あなたにお任せしますわ。わたしは会社経営には素人なので、何も分かりませんから」

「社長がいない方がむしろ、旨くゆきますよ。なんだかんだって、夢みたいな事ばかり言っていた人ですから。現実をしっかり見なければ会社経営なんて出来っこありませんよ」

「わたしは始めからあなたを信用していましたから、大丈夫ですわ」

「ところで、お子さん達は ?」

「奥の部屋にいると思います。こんな霧の深い夜ですから」

「さっき、ラジオで言っていましたよ。霧の夜にはセックスが最適なんです、なんてね」

「わたしたちもそろそろ行きましょうか」

「そうですね。今夜はこの霧の中で、ゆっくり二人だけの愛を楽しみましょう」

" これは現実なんだろうか ? "

 大木は怒りも忘れていた。

 

 


遺す言葉 237 小説 夢の中の青い女 他 骸骨のうた

2019-04-14 12:31:00 | 日記

          骸骨のうた(2019.4.2日作)

 

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

   歩くたんびに 骨が鳴る

   ギイコタン ギイコタン

   だけど昔は この俺も

   人間様と おんなじた゛ 

   丸いお眼々に 可愛いお口

   エクボがちょっぴり いかしてた

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

   ーーーーー

   ギイコタン ギイコタン 

   おいらは骸骨 肉がない

   骨の間を 風が吹く

   ギイコタン ギイコタン

   だれがおいらを こう変えた

   心忘れた 人の世の

   巷に未練が あるのじゃないが

   夜更けに墓場を 抜けて来た

   ギイコタン ギイコタン

   おいらは骸骨 骨だらけ

 

 

         -----

         (3)

 

 硫酸がこのすえたような、ハンカチを当てていてもその上から鼻を突いて来る、強烈な匂いを発散しているのだろうか ?

 それとも、早くも街の中には死体の山が築かれているのだろうか ?

 霧の夜には死人が多く出ると言う。

 その死体が臭気を発散しているのだろうか ?

 霧の夜に死人が多く出ると言うのは、霧が人々の口を塞いでしまうためばかりではないのではないか。現に自分がそうではないか。この知り尽くした新宿の街の中で、奇妙に不安になっている。不安になる理由など何もないのに・・・・・。

 この霧が晴れればまた、いつもの日常が戻って来る事は充分に理解している。霧の中で駅がなくなってしまう訳ではない。駅へ行って電車に乗れば、一時間足らずで自宅へ帰る事が出来るのだ。

 それでいて、この、深い穴の中へ落ち込んでゆくような奇妙に不安なな感覚は、いったい何なんだ ろう ? 霧の中で人々との交流が断たれてしまっているせいだろうか ?

 そう言えばさっき、ラジオで言っていた。

「こんな霧の深い夜には、厳重に戸締りをして、愛し合う者同士、抱き合って眠るように気象庁では呼び掛けています」

 ある識者はこうも言っていた。

「霧の深い夜にはセックスが最適なんです」

 セックスは体と体で相手を確かめ合う事が出来る。たとえ、視界をふさがれていても、言葉を遮断されていても、他者との交流を持つ事が出来る。そして、その肉体で確かめ合う喜びは、このような孤独感に満たされた夜にこそ、一層、大きくなるに違いないのだ。 恋人たちは今、誰もみんなが、公園のベンチで、路上の片隅で、熱い思いのセックスにふけっているのだろうか ? たぶん、それがこんな寂しい夜には最良の方法なのだという事を彼等は本能的に知っているに違いないのだ。

 大木は一人、この深い霧の夜の中を歩きながら、俺はだが、孤独ではない、と思う。

 自分には愛し合い、信じ合う事の出来る家族がいる。新宿駅で国電に乗り、四十分程すれば、その家族が住む街に着く事が出来る。

 帰る場所もあれば、信じ合える人間もいる、その思いが、霧の中を歩きながら、奇妙な不安感に満たされて来る大木の心を支えてくれる。

 大木はなお、一寸の先も見えない霧の中を歩いて行く。ビルの影が突然、ヌウッと眼の前に現れてはすぐに消えて行く。色彩を識別する事も、形を判断する事も出来ない。総てか乳白色の霧の中に溶けてしまい、そのものの持つ存在感を掴む事も出来ない。

 大木は、「青い女」を出てから左の方角へ行き、最初の信号を右に折れ、その突き当りの信号を今度はまた左へ折れて行く、というように、たとえ、周囲の状況が見えなくても駅への道は熟知しているつもりでいた。そして、確かに最初の信号を右に曲がった。その道を真っ直ぐ歩いて行けばまた、信号に突き当たるはずだった。ところがこの時、大木の感覚の中では奇妙な現象が起こっていた。自分がまるで反対の方角へ歩いて行くような不思議な錯覚に捉われていた。自分が次第に駅から遠ざかっているような気がしてならなかった。しかも霧はますます濃度を増していた。粘り付く感触があからさまにぬめぬめと感じられた。大木はだが、奇妙な感覚の中でこの感覚に従えば、自分はますます駅から遠ざかってしまう、と言う気がして、自分を納得させながら歩いて行った。

 霧の臭気はさらに強くなっていた。その臭気で思わず咳き込んだ。

 眼が染みるように痛かった。

 硫酸のせいに違いない・・・・・。

 突然、眼の前、霧の中に月の暈のように溶けた明かりが見えて来た。

 大木は信号かと思い、進んで行った。するとそれはまた、同じ距離に遠退いた。

 硫酸に傷め付けられた眼の錯覚だったのだろうか ?

 大木は不安と共に呟いた。

 信号灯はいったい、どうしてしまったんだろう ?

 ことによるとあるいは、自分が錯覚だと思っていたあの感覚が、実は正しい感覚だったのてはなかったのか ?

 霧のために正常な判断力さえもが狂わされてしまったのだろうか?

 それとも、酔いのため ・・・・・?

 大木はしばし、霧の中に立ち止まっていた。

 新宿駅は霧の中に溶けてしまったのだろうか ?

 それからまた、トボトボと歩き出した。自分はいったい、何処へ行くのだろう ?

 この時大木には、自分の家が、家族との距離が、何故か無限に遠くに感じられて、自分が闇の中に落ちて行くような感覚に捉われた。孤独感が更に増して、深まった。

 この深い霧の中、今、自分の周囲には誰もいない。自分は霧の中にただ一人、孤立している。いったい、この霧はいつ晴れるのだろう ?

 大木はそれでもトボトボ歩いて行く。すると今度は大木の前に、林立するビルの影がおぼろげながらにも見えて来た。おや ! と大木は思った。あれは新宿駅の建物ではないか・・・・・

 ようやく安堵の思いで呟くと、なおも勇んで歩いて行った。

 それにしても、ビルというビルの建物の明かりがことごとく消えているのは何故なんだろう ? やっぱり、この深い霧のせいでみんな、帰ってしまったという事なのだろうか ?

 さっきまでは全く見えなかったビルの影が今では、おぼろげながらにも見えてて来るのはひょっとしたら、霧が少しずつにでも薄くなって来ているという事なのだろうか ? もし、そうだとすれば、これに越した事はない。

 今度は眼の錯覚などではなかった。歩いて行く大木の方へビルはどんどん近付いて来る。

 気が付いた時には大木は、林立するビルの谷間に立っていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   


遺す言葉 236 小説夢の中の青い女 他 時よ 止まれ

2019-04-07 11:51:54 | 日記

          時よ 止まれ(2019.4.1日作)

 

   時よ 止まれ

   願わくば

   父や母の笑顔の輝いていた

   あの頃に戻してくれ

   わが青春の輝いていた

   あの頃に戻してくれ

   今はただ 失われてゆくだけのもの

   あの幾多の恋

   愛した人の数々

   記憶の底に堆積する

   あの事 この事

   喜び 悲しみ 怒りと嘆き

   すべては幻

   遠い日の還らぬ夢

   独りたたずむ時の流れの中で

   過ぎ去りし日々の記憶は

   ふたたび 還り来ぬ道ゆえに

   いよいよ鮮やかに 懐かしく

   日ごと 迫り来る時の終わりは

   重たく心を覆う

 

 

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               (2)

 

「でも、あまり霧が濃くなれば、国電だって止まってしまう事もあり得るわ」

「霧の夜には、街中に死人の山が出来るんですって。さっき、テレビで言ってたわ」

 健康そうな女の客が言った。

「街を歩く人が、濃い霧の中で息が出来なくなって、窒息してしまうんだって言ってた」

 男の客が続けた。

「だから、霧の夜が明けた朝には、街角のいたる所に出来た死人の山を片付けるのに、衛生局では清掃車を出して、死体を寄せ集めて歩くんですって」

「テレビで行ってたの ?」

 バーテンダーが聞いた。

「そう。さっき、街頭のテレビが言ってたわ」

「嫌だわ。そんなにならないうちに、早く家へ帰りたいわ」

 しのぶが大袈裟に身震いをしてみせた。

「いよいよになったら、ここへ泊まればいい」

 大木は楽観的な声で言った。

「でも、霧は悪魔のように、僅かなドアの隙間からも押し入って来るんですってよ」

 女の客が大木を見て言った。

「街中にあふれた霧は、それ自体、悪魔のように膨張して、行き場がなくなると、ドアというドアの小さな隙間を見付けて家の中に忍び込むんだって。だから、厳重に戸締りをして、隙間という隙間にはガムテープを貼るようにって、テレビで言ってた」

 男が言った。

「そんなの、嘘だよ。嘘に決まってるさ」

 バーテンダーが笑い飛ばした。

「そうだよ。嘘に決まってるさ」

 男も言った。

「霧の中には、濃い硫酸が混入している模様ですので、街を歩く人は水中眼鏡などで眼を防禦し、ガーゼを三枚重ねにしたマスクをするように、都の衛生局では注意を呼び掛けています」

 ラジオの男性アナウンサーの声が聞こえた。

「なお、都合の付く方は、一刻も早く帰宅をして、冷水で眼を洗い、うがいをしてやすむようにとの事です」

「しのぶちゃん、あなた帰っていいわよ。チーフ、看板の灯を落として。今夜はもう、閉めましょう。美紀ちゃん、亜佐ちゃん、さっちゃん、あなた達も早く帰りなさい」

 小太りの中年のママが言った。

「どうやら、早く帰って寝た方が良さそうだなあ」

 四十代の年齢を感じさせるチーフが言った。

「大木さん、お車ですか」

 ママが聞いた。

「いや、飲む時は車に乗らない」

「ああ、そうね。でも、大木さんの所は国電で江戸川を越えた向こうだから、安心らしいわ」

「うん、霧は都内だけのようだしね」

「そうらしいわ。だから、家が都内でない人は早く帰った方がいいのよ」

 しのぶが言った。

「おれ達は都内だから、何処にいても同じだ」

若い男が投げ遣りに言った。

「でも、早く帰って、厳重に戸締りをして寝た方がいいわよ」

 しのぶが諭した。

「大木さん、追い出すようで御免なさいね」

 ママが謝った。

「いや、いいんだ。こんな夜じゃ仕方がないよ」

 大木はゆっくりとスツールを降りた。

 酔いのせいで足元がふら付いた。

「大丈夫ですか ?」

 ママがカウンターの中から、心配げに見守って聞いた。

「大丈夫、大丈夫」

 大木はわざとしゃんとした振りをして応じた。

 ドアを押して外へ出ると階段を上った。

 地上へ出ると、街はまさに霧一色だった。

 霧の中にすべてが溶けていて、所どころに街灯の明かりや、ネオンサインがぼやけているのが見えた。

「確かにこれはひどい霧だ」

 大木は思わず呟いた。

 人々の動く姿がほんの近くにいても、黒く影絵のように見えた。

 霧の幕が遮断してしまうのか、声や物音はまるで聞こえなかった。

 車のヘッドライトが人魂のように、霧の中に蒼白く滲んで消えて行った。

 霧の中には多量の硫酸が含まれているという、ラジオのアナウンサーの言葉を思い出して大木は、ハンカチを取り出して口に当てた。

 体中に霧の湿気が粘り付いて来るようで、たちまち人間にも黴が生えてしまうのではないか、と思わずにはいられなかった。

 大木は狭い路地を抜けて広い通りへ出た。

 普段なら、当然、何処の通りか分かるはずだったが、この濃い霧の中では、何一つ正確な判断が出来なかった。まるで見知らぬ土地の街中を歩いているかのような感覚だった。

 むろん、駅の方角の見当は付けてある。新宿駅のあの巨大な建物なら、いかなこの濃い霧の中でも、不夜城のように浮かび上がっているに違いない。 

 大木は不意に眉を寄せた。

 粘り付いて来る霧の異様に臭いのは、霧の中に含まれている硫酸のせいだろうか ?