遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 262 小説 ナイフ3 ナイフの輝き 他 雑感八題

2019-09-28 15:56:15 | つぶやき
          雑感八題(2018.10.3日作)

  Ⅰ 人間は困難に向き合った時には哲学する
   安寧に安住する時は易きに流れる  
   これからの世界 機械文明に頼る事で
   人はますます安寧の中で易きに流れ
   哲学する事を忘れてゆくだろう 世の中は
   考えずとも生きてゆける世の中になるだろう
   その果ては ?

  2 精神性に基ずく行動こそが 人間存在の証明である
   精神性とは 心を慮(おもんぱか)る思考能力だ
   精神性が人間に於いては 最高の道徳である
   なぜなら 精神性は生き物の世界では 唯一深く
   人間が所有するものであり それが地球上の他の生き物と
   人間とを分け隔てる 指標となり得るものだからだ
   精神性を有しない者は 一般的動物と何ら 変わりはない

  3 人はそれぞれ 自分の人生や思想 思考を言葉にして遺すべきだ
   それらの一つ一つが積み重なれば 豊かな社会を造るための
   分厚い礎となるだろう

  4 感動とは 結果に関係ない
   困難を克服しようとして全力を尽くす人間の
   真摯な姿 心 から生まれるものだ

  5 ある状況の中で 状況にふさわしく 的確に話された言葉は美しい
   知識に頼り 知識をひけらかすだけの言葉は聞き苦しい

  6 天皇家は直接的な自己主張の場がない社会の弱者の立場に似ている
   弱者には無定見な憶測だけによる批判をしてはならない
   反論の場を持たない者への根拠のない批判は 卑怯者のする事だ

  7 真の偉大さというものは しばしば 見えない所に存在する

  8 正義とは 命の否定と闘う事である
   命とは 人間存在である
   人間存在とは 各個人である
   各個人とは 命である


          ----------


          ナイフの輝き 

          一

 めっきり日足の延びた黄昏前のひと時、街は華やいだ賑わいをみせていた。駅前広場に続くバス通りの、早くもネオンサインを点した肉屋の店先には、買い物かごを下げた主婦たちがいた。洋菓子店の明るい店内には、高校生らしい女子学生や、勤め帰りの0Lなどの姿が見られた。八百屋の店員が大きな声で客を呼び込んでいる。
 高浜明夫は、まだニキビの消え切らない十九歳の頬を紅潮させ、興奮に取り付かれた面持ちで、人眼を避けるようにうつむき、足早にそんな街の中を歩いていた。明夫のジャンパーのポケットでは、盗品のナイフがしっかりと手に握られていた。ナイフの精巧に彫刻の施された柄の滑らかな感触が明夫を酔わせていた。
 まさに僥倖としか思われなかった。いつものように工場の勤めの帰りに、駅前広場の一角にある刃物店のウィンドーに足を向けた時、偶然にも、そのウインドーのガラス戸が半分、開かれたままになっていた。店の奥では店員らしい若者が、初老の男を相手に何かの品定めをしていた。
 咄嗟の出来心だった。明夫の右手はウインドーの中に伸びていた。一本の刃(やいば)を開いたナイフを中心に、扇型に飾らてある五本のうちの一本を手にすると、素早く周囲の状況を見廻し、ウインドーを離れた。
 しばらくは背後から追いかけられているような強迫観念に取り付かれていた。後を振り向く事も出来なかった。駅前広場からバス通りの商店街に足を踏み入れた時、ようやく安全地帯に達した思いで背後を振り返った。
 人の追って来る気配はなかった。その時初めて安堵の思いと共に、自分でも思い掛けなかった行動が成功裡に終わった事を確信した。と同時に、気持ちの緩むのを覚えて、全身から汗が吹き出した。                   
 それでも、天国にでも昇ったような気持ちだった。小躍りしたい気持ちを抑えて、一刻でも早く自分の住むアパートに辿り着きたい思いで、懸命に足を運んだ。
 木造モルタル塗りのアパートの二階の一室に入ると、内側からしっかりと鍵を掛けた。
 明かりを点けると万年床の散らかった、四畳半の部屋が浮かび上がった。明夫は明かりの下に立ったまま待ち切れずに、ポケットからナイフを取り出した。ナイフはずしりとした重みで心地よい感触を伝えて来た。思わず大声で叫びたくなる喜びと興奮を懸命に抑えて、「どうだ ! この骨で出来た柄の滑らかさと、彫刻の見事さは」と、自分自身に語り掛けていた。
 薄い褐色を帯びた白の、何かの骨で出来ているらしい柄には、二匹の蛇が牙をむき出して絡み合う精巧な彫刻が施されていた。刃と柄の接点には、サファイア色の大豆粒ほどの大きさのボタンが嵌め込まれている。そのボタンを押せば、刃が飛び出す仕組みはすでに察しが付いていた。
 明夫はボタンを押した。
 鋭く空気を切り裂く小さな小気味よい音ともに、瞬時に刃が飛び出した。
 その素早さと小気味よさに思わず息を呑んだ。凄い ! と、叫んでいた。
 刃がまた、見事だった。刃渡り十五センチほど。白銀に輝くその刃は中央部で僅かなふくらみを見せると、先端部に掛けて流れるような曲線で鋭く窄(すぼ)まっていた。ウインドーのショウケースで見た時の迫力とはまた違った迫真力があって、圧倒される思いだった。
 明夫は改めて、自分が手にしたナイフにしみじみと見入った。
 ナイフは見れば見るほど、その美しさと鋭さが胸に迫って来て、取り留めのない不安感を覚えずにはいられなかった。
 明夫はその不安に突き動かされたかのように、静かにボタンを押して刃を柄の中に収めた。
 柄の収まったナイフを小さなテレビの上に置くと、冷蔵庫の傍へゆき、食パンを取り出した。そのまま何も付けずに、立て続けに二枚を口に運び、そのあと水道の蛇口をひねり、直接、口を運んで水を飲んだ。
 手の甲で口元の水を拭い、万年床の上に戻ると胡坐を組んで座り込んだ。しばらくは呆けたようにじっとしていた。ナイフへの関心が薄れると頭の中は空っぽで、何も考えられなかった。なんとなく傍に散らかっていた男性週刊誌を手に取り、表紙をめくり、グラビアを飾るヌードの女性たちに眼を向けた。



     ありがとう御座います

  takeziisan様
                                    「いいね」 有難う御座います。
   kyukotokkyu 9190様

  今日、ブログを見るまでお二方様が押して下さっていた事を知らないでいました。今日、初めて知ったような訳です。心より、お礼申し上げます。
  いつも時間に追われていて、なかなかここへ来る事が出来ませんので、今までも何かと失礼をしていたのではないかと思うとちょっと心配になります。
  お二方様はじめ、わたくしのブログをフォロー下さっている方々のブログは週一回のこの機会にしか拝見する事が出来ませんが、極力、目こぼしのないよう努めています。その度にいろいろ楽しませて頂いたり、目から鱗の思いを味わわせて頂いてりますが、ほんの短い時間のわたくしの極上の楽しみになっております。
 とげうぞ皆さま、これからも楽しい記事、楽しい写真、楽しい音楽など、宜しく御発信下さいますよう、お願い申し上げます。

  kyukotokky 9190
           様 改めて御礼申し上げます。有難う御座いました。
       takeziisan  
 (読書家のtakeziisan様にお褒め頂ける事を大変嬉しく思います)
   
   
   

遺す言葉261 新宿物語5 ナイフ2 純愛(完) 他 老化

2019-09-21 15:21:39 | つぶやき
          老化(2019.9.3日作)

   今朝も 無事に起きられた
   老化と共に抱く
   毎朝の 眼ざめ その感慨
   日毎 月毎 年毎 に 増す
   肉体 体力 の 衰え 老化 劣化
   あそこが痛い ここが痛い
   体が重い ここ あそこ の 動きが
   鈍くなった 出来なくなった 
   若き日々 活力に満ちた あの頃 あの日々
   朝 眼ざめ 起きる・・・・ 当然の事柄
   疑問 不安 不審 何一つ 抱(いだ)く事なく
   飛び起きた だが今 日を重ね 月を重ね
   年を重ねて 辿り着いた 老齢の人生域 
   若き日々 当然の事として出来た
   あの事 この事 その事 一つ一つ
   行動を伴う事柄が 眼の前に立ち塞がり 
   巨大な壁 障害物のような感覚で
   苦痛を伴い 負担となって
   迫って来る
   あれをするのも億劫 重荷
   これをするのも億劫 重荷
   老化 劣化 若さの失われ 干からびた肉体が
   一つの行動 一つの動き その意志 その力 を
   奪って 眼には見えない
   縄を掛けて来る


          ----------


 (11)

 母はベンツで来たのに違いなかった。管理人の言葉と顔には、羨望と嘲笑の入り混じった皮肉な表情が浮かんでいた。
「なんとか言ってましたか ?」
 俊一は聞いた。
「あんたが、いつ帰るか分からないって言ったら、しばらく躊躇っていて、部屋を見せてくれって言ったよ。鍵がないからって断ったら、帰って行ったよ」
「そうですか、どうもすいませんでした」
 俊一は礼を言ってから、管理人の視線から逃れるように、急いで二階への階段を上がった。
 管理人はなお、俊一の家の事情などを聞きたい風だった。
 部屋には由美子の帰った形跡はなかった。あれだけの荷物を持って行ってしまった以上、帰る必要などあるはずがない。
 俊一は疲れ切った思いで、畳の上に尻から座り込んだ。
 当てもない視線を漂わせながら見つめる部屋の中の、壁に掛けられたままに残されたハンガーにも、小さな箪笥や鏡台、台所道具の一つ一つにも、由美子の面影が残っていた。そして、それらの全てが、今ではもぬけの殻以外の何物でもなかった。
 由美子はもう、手の届く所の何処にもいない。
 自ずと涙が浮かんで来た。由美子に関するものの全てが、自分の幸福を形作っていたものであった事が改めて思われた。そして、それらの全は失われてしまっていた。俊一は自分が荒涼とした荒野に独り、ぽつねんとして取り残されている感覚の中に沈んでいた。

 三日目、四日目、五日目と、俊一の外出は続いた。
 管理人は俊一の外出を特別、気にする風もない様子で、何も言わなかった。
 母が再度、訪ねて来た形跡はなかった。母が、次にどのような行動、手段に出て来るのかは、予測出来なかった。母がこのまま、諦めるとは思えなかった。息子の将来を案じる親としては、当然の事であったし、ましてや、溺愛とも言える程に俊一に愛情をそそいでいた母としてみれば、なおの事であった。ただ、俊一に取っては、その母親の愛情が煩(うるさ)いだけのものであったのだ。いつまでも自分が、鼻ずらを引き回されているような気がして、息が詰まった。耐えられない気がした。

 由美子が姿を消して一週間が過ぎた。俊一の気持ちの中では、由美子の喪失が決定的なものになっていた。由美子は永久に還らない。
 連日、新宿の街に由美子の姿を探して歩く行為には、疲労感だけが伴った。アパートの部屋へ帰る足取りは重かった。希望がなかった。このまま自分も、由美子が何処かへ消えてしまったように、消えてしまいたかった。
 その日もうつむきながら戻って来て、路地を曲がって何気なく顔を上げた時、眼を疑った。アパートへ通じる狭い路上に一台の車が停まっていた。もしや、と思って眼を凝らしてみて確信した。闇の中にぼんやり見える車は紛れもないベンツだった。俊一は咄嗟に理解した。
 母親が来たのだ !
 ベンツは灯りを消していた。車内には人影がないように見えた。
 俊一は息を殺し、身をかがめて近付いて行った。
 ベンツのナンバーはやはり、俊一の家のものだった。
 俊一は顔を上げて、アパートの入り口を見た。
 五メートル程先の入り口はひっそりしていて、人の気配はなかった。
 母が、あるいは今の時間では父も一緒かも知れないが、管理人を訪ねて来たのではないか。いったい、何時ごろ来たのだろう ?
 あるいは、俺の帰りを待っているのかも知れない・・・・、そう気付くと俊一は、体の強張る思いがしたが、すぐに、もし、俺を待っているのだとすれば、あんなに堂々と、一目で眼に付く場所に車を停めているはずがない、と考えた。
 事によると、車は今、来たばかりなのかも知れない。
 俊一はそう納得すると、ひと先ずは自分の姿が母親たちの眼に付かないようにと、小走りに走って、先程曲がった路地の角に戻った。
 街灯の明かりがあって、居心地が悪かったが、建物の陰に身を寄せ、夜の中にベンツのある辺りに視線を凝らして様子を探った。
 十分程が過ぎた頃、アパートの入り口から現れた人の姿が見えた。遠目にも、一目で母親だと確認出来た。あと一人、中年の男の姿があった。父親ではなかった。
だとすると、興信所の男か ?
 二人は車に戻ると、そのままドアを開き、乗り込んだ。
 車はすぐに動いて、アパートの前を行き過ぎ、その先の三叉路の近くで停車した。その場所で方向を変えるのか、後退しながら三叉路の支道に入って行った。
 車はそれから十分、二十分、と過ぎても現れて来なかった。
 その道が大通りへ通じる路ではない事を俊一は知っていた。
 車は、あの細い道で道路を塞ぎながら、俺の帰りを待って、様子を探っているのだろうか、そう考え、再び自分の方から車の様子を探りに行きたい気もしたが、それだけの勇気はなかった。母親たちの眼に触れる事を恐れた。
 俊一はそれから更に、三十分程、その場所で様子を探っていたが、何も変わりの無いことを知ると、安堵感と疲労感が一緒になったような倦怠を覚えて気が抜けた。それでも、今夜はもう、アパートの部屋へは戻らい、と決めて、再び、大通りの方へ戻り始めた。母親への感情は何もなかった。ただ、遠い余所の人のような感覚だけが俊一の心の内の全部を占めていた。

 預金はまだ、底をついていなかった。二か月や三か月ぐらいなら、どうにか凌(しの)げそうな気がした。問題は、ただ、だらだらとそうして生きている事になんの意味があるか、という事だった。新宿の街の中の至る所を探し回った。キャバレー、クラブ、サロン、その他、怪しげな店までも探し廻った。それでも、由美子の姿はなかった。これ以上、この底なし沼のような街の夜の世界の、何処を探せばいいと言うのだろう。だが、それ以上に言える事は、果たして、由美子が今でも、この新宿の街に居るのかという事だった。あるいは、厭な思い出の残るこの街を後にして、西か北か、遠い彼方の地へ行ってしまったのかも知れない。
 俊一のアパートの部屋へ帰らない日は三日も続いた。歌舞伎町の繁華街からはまったく離れなかった。夜はいつもコマ劇場前の広場で過ごした。虚ろな眼で座り込んでいる俊一の気を引こうとして、思わせ振りな視線を送って来る女たちも数多くいた。だが、今の俊一には、そんな女たちの存在も煩わしいもの以外の何ものでもなかった。由美子の存在が消えてしまった今、空洞となった俊一の心を満たしてくれるものは何もなかった。
 四日目の朝になると俊一は、腰を据えていたコマ劇場前の広場から動かなかった。母と連れの男が、あの夜、あれからどうしたのか、俊一の知るところではなかった。
 俊一のコマ劇場前広場から動かない生活は更に続いた。アパートへ帰るつもりは全くなかった。空腹になると、ハンバーガーショップへ行き、ハンバーガーを買い、口にした。心の内に見えて来るものは何もなかった。
 噴水の淵に座り込んだままの、浅い眠りの中では何度も夢を見た。自分が眠っていたのか、起きていたのか、判断の付かない事も稀ではなかった。何かに驚いてふと、眼を開くと、自分が巨大な建物に囲まれている事を知って、ようやく、現実を理解した。
 悲哀と落胆が、たちまち心を虜にした。俊一は自分が日毎に深い地底の底に沈んで行くような思いに捉われた。
 何をする気力も湧いては来なかった。絶望感だけが日増しに深まるようだった。
 コマ劇場の華やかな絵看板も、軒を並べる映画館の巨大な写真やスターの姿にも、なんの感興は湧いて来なかった。総てが遠い世界の出来事に見えた。
 そんなある日、俊一は白日の中で居眠りをし、夢を見た。その夢の中で俊一は、立派な医師だった。母はそんな俊一を手招きして呼び寄せた。
「おめでとう。良かったわね」
 満面笑みの、白い歯を見せて言った。
 母の後ろには父が立っていた。父も眼鏡を光らせ、微笑んでいた。足元には、緑の草が生い茂っていた。
 あれは、何処だったのだろう・・・・・。
 父の背後には、夏の日差しを浴びた大きな樹々が豊かな枝を伸ばしていた。
 那須高原の別荘地での事だったのだろうか ?
 由美子が草原の彼方に立っているのが小さく見えた。それでも、その由美子はたちまち消えて見えなくなり、俊一はいつの間にか、新宿、靖国通りを歩いていた。ふと、「俊ちゃん」と、呼ぶ声に振り向くと、人込みの中に由美子が立っていた。
「何処へ行くの ?」
 夢の中の由美子は言った。
「なんだよ。さんざん、おまえを探したんだぞ。何処へ行ってたんだよお」
 俊一はそれでも嬉し気に言った。
「今、俊ちゃんの所へ行こうと思っていたのよ。一緒に行こう」
 由美子は嬉しそうに俊一の腕の中に腕を差し込むと歩き始めた。
 新宿の街にはまだ、午後の陽ざしがあった。
 あれから二人は何処へ行ったのだろう。
 夢は夢のままに終わっていた。俊一が気が付いた時には、歌舞伎町の街には早くもネオンサインに灯りが入って、いつもの新宿の夜の賑わいが漂い始めていた。
 俊一は一日中座っていた噴水の傍を離れると、当てもなく歩き出した。
 夢の中で見た母親や父親のこぼれるような笑顔と、由美子が靖国通りで俊一を呼んだ時の声と笑顔が鮮やかに甦った。
 あの夢の中で俺はなんて幸せだったのだろう・・・・・。           
 だが、すべては幻だった。まさしく夢の夢にしか過ぎなかった。
 自ずと涙が滲んで来た。 
 俊一は涙に濡れた眼に映る歌舞伎町のネオンの明かりから逃れるように、靖国通
りを目指して歩いて行った。由美子に会えると思った訳ではなかった。幸せだった由美子との再会の夢の跡を再び歩いてみたいと言う思いだけだった。
 早くも賑わいをみせる路地を抜け、靖国通りへ出ると、そこで足を止めた。
 これから何処へ行けばいいのか分からなかった。行くべき先の当てもなかった。
 空虚感だけが心に満ちていた。
 信号が変わった。人々が一斉に動き出した。俊一はだが、動けなかった。自分が何処へ行くのか、行く先も分からないままに、人々の行き交う流れを見つめて立ち止まっていた。
 再び、信号が変わった。動いていた人の波が立ち止まり、車道を車の列が流れて行った。
 俊一は車道を走り行く車の列を見ながら信号待ちをする人々の群れの中から逃れるようにして、当てもなく歩き始めた。人と人とが雑多に行き交うこの数限りなくいる人の群れの中に、ただ一人、由美子だけがいなかった。
 身ごもった子供はどうしたのだろう・・・・・
 ふと、思いが走った。
 もう一度だけでも、由美子に会いたいと思った。会って、心の内の全てを由美子に打ち明けたかった。
 由美子に会う事さえ出来れば・・・・・孤独と悲しみが心を充たした。
 俊一は思わず嗚咽を漏らした。
 もう、再び、由美子に会う事は出来ない。
 俊一はいつの間にか来ていたセントラルロードの入り口で立ち止まった。
 この角で何度か、由美子と待ち合わせた事を思い出した。由美子との楽しい思い出が残る一角だった。由美子が息を弾ませて来る姿が眼に浮かんだ。ーーすべては空しかった。俊一は建物の壁に身を寄せると、ここでも絶え間なく行き交う人の群れに視線を向け、ぼんやりしていた。見えて来るものは相変わらず何もなかった。
 どれ程かの時間が過ぎていた。俊一自身にさえ分からなかった。気が付いた時には、自分自身の中で何かが変わり始めている事にふと、意識が及んだ。なんだろう?
いったい、何だろう ?
 俊一は初めて、はっきりとした思いで自分の中に目覚めて来たものの姿を見つめようとした。相変わらず、その建物の壁に身を寄せたまま、自分の心の中に生まれて来たものの正体を掴もうとしていた。
 そのものが、次第にはっきりと大きく膨れ上がって、心を充たして来るのを俊一は意識した。
 気持ちが次第に解きほぐされてくるのが、自分でも理解出来た。
 そのものは希望のように俊一の心の中に満ちて来た。
 夢が溢れる気がした。
 俊一は思わず寄り掛かっていた建物の壁から身を離すと、すっきりと自分自身の足で体を支えた。
 行き止まりにしか見えなかった眼の前が、突然、開けた気がした。
 俊一は、その思いに促されるように、いつもポケットの中に入れて持ち歩いていたナイフにそっと触れた。
 ナイフは相変わらず触れた手に、ずしりとした心地よい感触を伝えて来た。
 このナイフをこのような形で使用しようと思った事は一度もなかった。
 それでもナイフは、現在、只今、この状況の中では、それが最上の使用法に思えるのだった。そうだ、俺にはナイフがある !
 俊一はブルゾンの内ポケットに手を入れるとナイフを取り出した。
 そのナイフを握りしめると、ひんやりと冷たい感触が心地よく心に触れた。
 二匹の蛇が絡み合う不気味な柄の浮彫が、俊一の心を充足感で満たした。
 俊一はそのナイフを握りしめたまま歩き出した。今まで避けるようにしていた人込みに向かって歩き出した。ナイフを握りしめたまま、いったい、由美子はそれを知ったら、どう思うだろう、と考えた。
 新聞、ラジオ、テレビは間違いなく報道するだろう。それが、由美子の眼に触れない訳がない。由美子はそれを知って、俺の孤独と寂しさを理解してくれるだろうか ?
 父と母は ?
 だが、その感情はそこまでだった。それ以上の感情は湧いて来なかった。  
 実の父と母が他人のような気がした。遠い存在に思えた。今の俊一に取っては総てが由美子への思いに還っていった。
 俊一は手にしたナイフの柄にあるボタンを押した。
 ナイフは夜の中で、たちまちネオンサインの光を受けて輝いた。
「やだあ、人の方に向けないでよお」と言った時の由美子の顔が思い浮かんだ。
 俊一は自信に満ちて歩き始めた。その手の中では逆手に握られたナイフの刃が鈍い光を放っていた。
 俊一は更に、二歩、三歩と人込みの中に押し入って行った。
 眼の前を塞ぐようにして立ったのは、二十歳前後の女性だった。その女性の鮮やかなブルーのスーツが俊一の眼に焼き付いた。瞬間、俊一はその女性の胸元目がけて、力いっぱいナイフを振り下ろした。
 若い女性の悲鳴が聞こえた。
 ナイフの刃が女性の胸元の肉に食い込む確かな感触を意識した。その感触を意識するのと同時に、今、抜かなければ抜けなくなってしまう、と咄嗟に思った。
 俊一はナイフの突き刺さった女性の胸倉を力いっぱい突き放した。女性の肉体は崩れるように路上に倒れていった。
 俊一は自身の思い通りに総てが運んだ事に微かな満足感を抱きながら、血に染まったナイフを握りしめたまま、路上に倒れた女性を見下ろしていた。
 人の波が倒れた女性と俊一を取り囲むようにして寄り集まって来るのが見えた。その人波を視線の片隅で捉えながら俊一は、これで良かったのだと、自分に言った。
 
 
           完

 
 

 
 



   
   
   

遺す言葉260 新宿物語5 ナイフ2 純愛 他 人間の品性

2019-09-14 15:37:19 | つぶやき
          人間の品性(2018.7.7日作)

   実業家 あるいは 政治家 政治を治める者たちは
   機を見るに敏である必要がある しかし その根底には
   節操がなければならない
   無節操の機敏 その機敏は卑しさ 下品さだけが眼に付いて
   見苦しいものになる
   ある国の実業家が ある国の政治家に寄り添い
   満面 笑みを浮かべている姿を 映像で眼にした時
   そんな事を考えた
   あの実業家は あの横暴とも言える権力者におもねり
   上手く取り入って 笑顔を振り撒いているが 恐らく 状況が一変すれば
   手の裏を返したように 離れてゆくに違いない なぜかふと
   そんな気がした その姿 笑顔には 品性のなさ 卑しさだけが
   その人物の本質でもあるかのように 滲み出ていて
   下品さだけしか 見る事が出来なかった
   無論 これはわたしの勝手な見方 思い込みである しかし
   人間の本質は その表情 その顔 その行動に 無意識的 かつ
   的確 如実に 表れるものだ


          ----------


 (10)

 箪笥の抽斗が半分、開けたままになっていた。
 小さな鏡台の上の、由美子の化粧道具がすべてなくなっていた。
 ハンガーに吊るし、壁に掛けてあったブラウスもスカートもなかった。
 押入れを開けてみた。
 スーツケースとボストンバッグがなかった。由美子が故郷の博多を出る時に持って来たものだった。
「この二つを持って出て来たの」
 由美子は寂しさとも、はにかみとも、懐かしさともつかない表情に微笑を交えて、説明してくれたものだった。
 普段、二人が貴重品を入れておいた小箪笥からは、由美子の存在を証明する一切のものが持ち去られていた。
 印鑑、健康保険証、預金通帳などだった。
 その中で、まるで置き去りにされでもしたかのように、俊一の預金通帳と印鑑、そして、ナイフの入った木箱だけがポツンとした感じで残されていた。
 俊一は預金通帳と木箱を手に取った。
 いっそのこと、この預金通帳も木箱も持っていってくれればよかったのに、と思った。そうすれば、由美子を憎む事も出来るだろうに・・・・・、由美子の純情さに思わず嗚咽を漏らした。
 俊一はようやく気を取り直して、管理人の部屋を訪ねた。真夜中に近い時間にドアをノックされて、管理人は明らかに不機嫌だった。
「何か用ですか ?」
 半分開けたドアを押さえたまま、七十歳がらみの男の管理人は怒ったような口調で言った。
「二階の六号室の者ですけど、何か言づけのようなものは聞いていませんか」
 管理人夫婦は、由美子と俊一が結婚しているものと思い込んでいたらしかった。二人が一緒に暮らすようになっても苦情は言わなかった。
「別に、何も聞いていないけど、何かあったの ?」
 探るような眼で聞いた。
「いえ、別に何もないんですけど」
 あとは曖昧に言葉をにごして、逃げるようにしてその場を離れた。
 階段を上がり、再び部屋へ戻ると、膝を抱えて座り込んだ。
 由美子が、近くに居る事だけは間違いないようだった。
 何処かに隠れて、俺の行動を探っていたんだろうか ?
 今は何処にいるんだろう ?
 布団や台所用品などが残されている事を考えると、そんなに遠くへ行ってしまったとは思えなかった。
 それとも、身の周りの物だけを持って、厭な思い出を振り払うように、記憶も届かない、遠い所へ行ってしまったんだろうか ?
 手を伸ばせばいつでも由美子に触れる事の出来た日常が、一瞬の間に失われた思いの喪失感だけが脳裡を駆け巡った。未だ、由美子の存在感が濃密に残る部屋の中で悲しみは一層深く、心に沁みて来るようだった。
 俊一は絶望を抱え込んだまま、しばらくは身じろぎもせずに頭を垂れ、悲しみの淵に沈んでいた。それからふと、思い付いたように立ち上がった。胸の中には、母親へのやり場のない怒りが煮えたぎっていた。その怒りに押されるように俊一は、母親への憎悪と共に荒々しく部屋を出ると、ドアの鍵もかけないままに、階段を下りて行った。
 外へ出ると近くの公衆電話へ向かった。
 父が出る事はないだろう事は分かっていた。
 予想通り、母親が受話器を取った。
「はい、奈木で御座います」
 母の落ち着いた、丁寧な言葉遣いの返事が返って来た。奈木医院にとっては、夜中の電話は珍しい事ではなかった。
「お母さんは、あいつに何を言ったんだよお。なんだって、余計な事をしたんだよお」
 俊一は前後の見境もなく、突然、母親に食って掛かった。
「誰 !」
 母は一瞬、息子の荒い言葉に息を呑んだふうであったが、すぐに俊一の声と理解して言った。
「俊ちゃん ? あなた、俊ちゃんなのね ?」
 先ほどの落ち着いた声とは違って、切迫感に満ちていた。
「そうだよ。なんだってお母さんは、余計な事をしたんだよ。俺たちがどうしょうと、俺たちの勝手だろう。余計な事をしないでくれよ。あいつが居なくなっちゃったんだぞ。どうしてくれるんだよ」
「今、何処から掛けているの。あなたのお部屋なの ?」
「何処からだっていいだろう。お母さんは、あいつに何を言ったんだよお。何をしたんだよお」
「何を言ってるんだか、分からないわよ、お母さん。いったい、何を言ってるの ?」
「知らっぱくれるなよ。あいつがちゃんと言ったんだぞ。俺と別れなければ、何度でも来て邪魔をしてやるって」
「お母さん、そんな事は知らないわよ。それより、あなた、帰ってらっしゃい。あなたは騙されているのよ」
「あいつを何処へ追っ払ったんだよお。あいつは何処へ行くって言ったんだよお」
「そんな事、お母さんが知る訳ないでしょう。あの人とは一度、会ったきりなんだもの」
「いいか、あいつにもしもの事があったら、俺は死んでやるからな」
「俊ちゃん。もしもし、俊ちゃん、ばかな・・・・・・」
 俊一はそれ以上、必死な様子で叫ぶ母の声を聞いていなかった。投付けるように受話器を戻すとボックスを出た。また、新たな怒りが込み上げて来て、思いっきりズックの靴で地面を蹴とばした。

 母がアパートを訪ねて来るであろう事は、おおよそ察しが付いた。電話で母が叫んだ声が、それを物語っていた。
 俊一はその日まで木箱に入れ、大切に箪笥の中に仕舞ったままで置いたナイフを初めて、ブルゾンの内ポケットに入れ、外出した。預金通帳と印鑑も同じように別の内ポケットに納めた。母と顔を合わせるのを避けるためだった。無論、僅かばかりの現金の入った財布は持っている。再び、部屋へ戻る事があるのかどうかは、自分でも分からなかった。夜中に一切の準備を済ませ、夜が明けたらいつでも出られるようにしていた。明け方近くに四十分ほど疲労感に引き込まれるようにうたた寝をした。
 夜が明け、午前七時になると部屋を出た。勤めは欠勤したままだった。仕事先に気を配るだけのゆとりはなかった。
 昨日と同じように駅の売店でソバを食べ、新宿へ向かった。いつもなら、仕事から帰る時間帯であった。
 ハンバーガーショップはまだ、開いていなかった。
 コマ劇場前の広場へ向かった。
 夜を明かしたと思われる若いアベックが何組か、例のように噴水を囲むコンクリートの縁に腰を下ろしていた。                      
 夜の遅い街は朝も遅かった。シャッターを降ろしたままの建物の建ち並ぶ通りからは、昨夜の賑わいと華やかさは見えて来なかった。 
 俊一は噴水の傍へ歩み寄ると、なるべく、アベック達とは距離を置くようにしてコンクリートの縁に腰を下ろした。
 何も見えて来ない事は昨日と同じだった。由美子への思いだけが、頭を離れなかった。
 午前十時にハンバーガショップが開店になると、昨日、店の様子を窺っていた街路樹の陰へ行った。
 由美子の勤務時間は午前十一時からだった。あるいは、由美子が店へ入るかも知れないという、微かな望みだけに期待をかけていた。
 正午になっても、由美子は姿を見せなかった。
 俊一はようやく諦める気になって、その場を離れた。
 その日も、結局、徒労の一日に終わった。終日、街の中を歩き廻り、人込みの中にその姿を探しても、由美子を見つけ出す事は出来なかった。
 由美子は、新宿という街の繁華街の雑踏の中にかき消されていた。
 午後十一時過ぎになって、さすがに巨大な繁華街にも人通りの希薄さが見えて来た。俊一自身も途端に疲労感を覚えて、体を横たえる場所が欲しくなった。
 一度は帰る事を諦めかけていた、由美子と二人でいた部屋だったが、色濃い疲労感と共に、再び帰る気になった。もし、母親が訪ねて来たとしても、こんな時間までいる事はないだろうとは想像出来た。
 アパートに着いた時には午前零時を廻っていた。いつもはこの時間、灯りの消えているはずの管理人室に灯りが点いていた。俊一が些かの不審と共に、二階への階段を上がろうとした時、管理人が声を掛けて来た。
「ああ、ちょっと。今日ね、あんたのおふくろさんだって人が訪ねて来たよ。長い時間、待っていたんだけど、あんたが帰って来ないもんで九時頃帰って行ったよ」
 一瞬、緊張したが、俊一自身、おおよそ、予想した事ではあった。俊一は息を呑み込むようにして聞いた。
「何時頃ですか」
「朝の十一時頃だったかな。車で来たよ」
 俊一は、やはり、と思った。同時に、顔を合わせなくて済んだ事に安堵した。
 
 
    
   
   

遺す言葉 259 新宿物語 5 ナイフ 2 純愛 他 芸術 アート

2019-09-07 18:08:37 | つぶやき
          芸術 アート(2019.8.25日作)

   これがアートだ 自信満々
   訳の分からぬ作品を生み出す  
   自称 アーチスト より
   人の生活 人の生に密着した場所
   その場所で 真に優れた作品を生み出す 職人
   その人こそが真実 芸術家 アーチスト
   日々、人々が生きる 生活の場 そこには
   種々 様々 多種 多様 雑多な顔
   姿 形 が ある その姿 形 顔 の 本質
   その物が持つ 特性 特質 個性 を 見極め そのものに
   寄り添う形で生まれた 優れた作品 それこそが
   真の芸術 アート 頭でひねり
   手でこね回しただけの作品 造形物は
   単なる手遊び ママゴト 空虚な飾り物
   人の生 人の生活 人の命 あってこその この世界
   諸々 生み出される 物 造形作品 すべては
   すべからく 人の命 人の生活 人の世界に係わってこその
   存在意義 価値が生まれる 空虚な ママゴト 飾り物など
   やがては 儚く消えて逝くだけの淡雪 淡い存在


          ----------


 (9)

「あのう、すいません。高田由美子さんはいませんか」
 俊一は、由美子が着ていた同じユニホーム姿の若い女性店員に聞いた。
「高田さん、今日はお休みですよ」
 忙しく立ち働いていた女性店員はハキハキと答えた。
「休み ?」
 俊一は思わず聞き返した。
「はい」
 女性店員は、迷惑がる様子もなく言った。
 俊一は茫然となって、言葉もなかった。突然、足元の梯子を外されたようで混乱した。
 アパートの部屋を出る時の由美子は、少し元気はなかったが、普段と変わらなかった。
 何が、あったんだろう ?
 すぐには、昨夜の事が原因だとは思えなかった。                                                      何か、事故にでも遭ったんだろうか ?
 頭が混乱したまま俊一は、女性店員に礼を言う事も忘れて店先を出た。
 暗い渦のようなものが頭の中で渦巻いていて、何も考えられなかった。いったい、由美子に何があったんだろう。                     
 自分が何処をどう歩いているのかも分からなかった。気が付いた時にはアパートの部屋に帰っていた。午前零時に近かった。
 もしかすると、由美子が帰っているかも知れない。
 部屋のドアを開ける時抱いた微かな期待も打ち砕かれた。ドアには鍵が掛かったままだった。
 部屋の中は俊一が出た時と同じように、何も変わっていなかった。
 俊一は狭い台所にあるテーブルに向かって腰を下ろした。
 由美子のいない、小さなテーブルの向こう側が、夜の中に果てしもない広がりを見せて広がっていた。
 額と額を寄せ合うようにして食事をした事などが、切なく思い出された。
「おふくろのバカが、余計な事をしやがって !」
 俊一は込み上げて来る怒りと悲しみの中で、姿の見えない母親に向かってぶつけるように、大きな声に出して言うと、、テーブルの脚を力を込めて蹴とばした。


          4


 なぜ、という理由はなかった。それでも、俊一には確信があった。
 由美子はもう、帰って来ないだろう。
 気持ちの奥底から湧き起こる絶望感が、その確信を一層揺るぎのないものにしていた。
 明日からどうしよう・・・・・。
 由美子はいつも勤めに出る時の状態でその朝も出ていた。衣類も家財道具も化粧品さえも置いたままだった。
 いつか、それを取りに戻って来る事はあるのだろうか ?
 それとも、誰か、代わりを寄越すのだろうか ?
 この部屋を契約したのも由美子だった。                 
 蜘蛛が巣を張るようにこの部屋にじっとしていれば、いつか、由美子に会う事が出来るかも知れない。たとえ、会う事は出来なくても、消息ぐらいは掴めるのではないか ?
 一日は逡巡するそんな気持ちの中で過ぎていった。背中を丸め、膝を抱え込んで部屋の中でじっとしていた。疲れ果てると、いつの間にか眠っていた。浅い眠りの中で由美子の夢を見ては、慌てて飛び起きた。そんな事の繰り返しだった。
 夜には、息を潜めて由美子の帰りを待った。近くでするドアの開閉音や、何かがぶつかる物音に、研ぎ澄まされた神経が過敏に反応した。
 二日目には、無為に待つだけに耐えられなくなって、再び、ハンバーガーショップを訪ねて行った。どんな小さな事でも、由美子に関する事を聞き出したいという思いだった。
 由美子の消息は、やっぱり掴めなかった。
「休んでから今日で三日目になるけど、なんの連絡もないんだよね」
 二十五、六歳に見える男性の店長は言った。
「誰か、仲間の所にいるような話しは聞いていませんか ?」
 どんな小さな手掛かりでも掴みたい思いから俊一は聞いた。
「うん、そこまではちよっと分かんないなあ」
 店長も困惑したように言った。
 俊一は丁寧に礼を言うと店を出た。
 あとは何処へ行って聞けばいいのだろう・・・・・・。 
 警察に頼んで探して貰おうか ?
 さすがにそこまでする気にはなれなかった。あれやこれや、私生活を事細かに聞き出される事が厭だった。
 途方にくれたまま当てもなく歩いていると、いつの間にかコマ劇場前の広場に来ていた。
 噴水を囲むコンクリートの縁が眼に入った。傍へ行って腰を下ろした。
 何人もの若者たちが同じように腰を下ろしていた。肩を寄せ合い、話し込むカップルの姿を見て俊一は、思わず、かつての由美と自分の姿を重ねて涙ぐだ。     
  どれ程の時間、そうしていたのだろう。じっとしている事に疲れ果てると、そこを立った。
 再び値ハンバーガーショップの見える場所へ来ると、街路樹の陰に身を寄せて、店内を出入りする人々の姿に注意を凝らした。 
 更に、時間が過ぎて行った。 
 由美子が姿を見せる事はなかった。
 次第に諦めの思いが強くなっていた。
 俊一はようやくその場所を離れると、早くも人、人の群れに埋まる歌舞伎町の繁華街を、重い足を引き摺りながら歩き出した。絶え間なく行き過ぎる華やかな人、人の群れ。だが、今の俊一にはそれらが、自分には全く係わりのない遠い世界の出来事のように思えた。
 あるいは、この中に由美子がいるのだろうか、そんな思いに囚われては立ち止まり、行き過ぎる人の群れ視線を凝らしてはみても、由美子の姿を探し出す事は出来なかった。
 そうして、徒労の一日がまた過ぎた。一日の空腹に耐え切れず、駅の売店で駅そばを二つ頼み、空腹を満たした。
 アパートの部屋へ帰ったのは、帰巣本能でねぐらへ帰る鳥たちの行動にも似ていた。由美子が、「あれは嘘だったのよ」と、笑顔で出迎えてくれる情景を何度も夢想した。その夢想は部屋に近付くに従って大きく膨らんだ。だが、結局、二人がいた部屋は暗かった。夢想はたちまち、夢想のままに消えていた。
 廊下の暗い灯りの中で鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開けた。上がり口の傍にある電燈のスイッチを入れて愕然とした。