老化(2019.9.3日作)
今朝も 無事に起きられた
老化と共に抱く
毎朝の 眼ざめ その感慨
日毎 月毎 年毎 に 増す
肉体 体力 の 衰え 老化 劣化
あそこが痛い ここが痛い
体が重い ここ あそこ の 動きが
鈍くなった 出来なくなった
若き日々 活力に満ちた あの頃 あの日々
朝 眼ざめ 起きる・・・・ 当然の事柄
疑問 不安 不審 何一つ 抱(いだ)く事なく
飛び起きた だが今 日を重ね 月を重ね
年を重ねて 辿り着いた 老齢の人生域
若き日々 当然の事として出来た
あの事 この事 その事 一つ一つ
行動を伴う事柄が 眼の前に立ち塞がり
巨大な壁 障害物のような感覚で
苦痛を伴い 負担となって
迫って来る
あれをするのも億劫 重荷
これをするのも億劫 重荷
老化 劣化 若さの失われ 干からびた肉体が
一つの行動 一つの動き その意志 その力 を
奪って 眼には見えない
縄を掛けて来る
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(11)
母はベンツで来たのに違いなかった。管理人の言葉と顔には、羨望と嘲笑の入り混じった皮肉な表情が浮かんでいた。
「なんとか言ってましたか ?」
俊一は聞いた。
「あんたが、いつ帰るか分からないって言ったら、しばらく躊躇っていて、部屋を見せてくれって言ったよ。鍵がないからって断ったら、帰って行ったよ」
「そうですか、どうもすいませんでした」
俊一は礼を言ってから、管理人の視線から逃れるように、急いで二階への階段を上がった。
管理人はなお、俊一の家の事情などを聞きたい風だった。
部屋には由美子の帰った形跡はなかった。あれだけの荷物を持って行ってしまった以上、帰る必要などあるはずがない。
俊一は疲れ切った思いで、畳の上に尻から座り込んだ。
当てもない視線を漂わせながら見つめる部屋の中の、壁に掛けられたままに残されたハンガーにも、小さな箪笥や鏡台、台所道具の一つ一つにも、由美子の面影が残っていた。そして、それらの全てが、今ではもぬけの殻以外の何物でもなかった。
由美子はもう、手の届く所の何処にもいない。
自ずと涙が浮かんで来た。由美子に関するものの全てが、自分の幸福を形作っていたものであった事が改めて思われた。そして、それらの全は失われてしまっていた。俊一は自分が荒涼とした荒野に独り、ぽつねんとして取り残されている感覚の中に沈んでいた。
三日目、四日目、五日目と、俊一の外出は続いた。
管理人は俊一の外出を特別、気にする風もない様子で、何も言わなかった。
母が再度、訪ねて来た形跡はなかった。母が、次にどのような行動、手段に出て来るのかは、予測出来なかった。母がこのまま、諦めるとは思えなかった。息子の将来を案じる親としては、当然の事であったし、ましてや、溺愛とも言える程に俊一に愛情をそそいでいた母としてみれば、なおの事であった。ただ、俊一に取っては、その母親の愛情が煩(うるさ)いだけのものであったのだ。いつまでも自分が、鼻ずらを引き回されているような気がして、息が詰まった。耐えられない気がした。
由美子が姿を消して一週間が過ぎた。俊一の気持ちの中では、由美子の喪失が決定的なものになっていた。由美子は永久に還らない。
連日、新宿の街に由美子の姿を探して歩く行為には、疲労感だけが伴った。アパートの部屋へ帰る足取りは重かった。希望がなかった。このまま自分も、由美子が何処かへ消えてしまったように、消えてしまいたかった。
その日もうつむきながら戻って来て、路地を曲がって何気なく顔を上げた時、眼を疑った。アパートへ通じる狭い路上に一台の車が停まっていた。もしや、と思って眼を凝らしてみて確信した。闇の中にぼんやり見える車は紛れもないベンツだった。俊一は咄嗟に理解した。
母親が来たのだ !
ベンツは灯りを消していた。車内には人影がないように見えた。
俊一は息を殺し、身をかがめて近付いて行った。
ベンツのナンバーはやはり、俊一の家のものだった。
俊一は顔を上げて、アパートの入り口を見た。
五メートル程先の入り口はひっそりしていて、人の気配はなかった。
母が、あるいは今の時間では父も一緒かも知れないが、管理人を訪ねて来たのではないか。いったい、何時ごろ来たのだろう ?
あるいは、俺の帰りを待っているのかも知れない・・・・、そう気付くと俊一は、体の強張る思いがしたが、すぐに、もし、俺を待っているのだとすれば、あんなに堂々と、一目で眼に付く場所に車を停めているはずがない、と考えた。
事によると、車は今、来たばかりなのかも知れない。
俊一はそう納得すると、ひと先ずは自分の姿が母親たちの眼に付かないようにと、小走りに走って、先程曲がった路地の角に戻った。
街灯の明かりがあって、居心地が悪かったが、建物の陰に身を寄せ、夜の中にベンツのある辺りに視線を凝らして様子を探った。
十分程が過ぎた頃、アパートの入り口から現れた人の姿が見えた。遠目にも、一目で母親だと確認出来た。あと一人、中年の男の姿があった。父親ではなかった。
だとすると、興信所の男か ?
二人は車に戻ると、そのままドアを開き、乗り込んだ。
車はすぐに動いて、アパートの前を行き過ぎ、その先の三叉路の近くで停車した。その場所で方向を変えるのか、後退しながら三叉路の支道に入って行った。
車はそれから十分、二十分、と過ぎても現れて来なかった。
その道が大通りへ通じる路ではない事を俊一は知っていた。
車は、あの細い道で道路を塞ぎながら、俺の帰りを待って、様子を探っているのだろうか、そう考え、再び自分の方から車の様子を探りに行きたい気もしたが、それだけの勇気はなかった。母親たちの眼に触れる事を恐れた。
俊一はそれから更に、三十分程、その場所で様子を探っていたが、何も変わりの無いことを知ると、安堵感と疲労感が一緒になったような倦怠を覚えて気が抜けた。それでも、今夜はもう、アパートの部屋へは戻らい、と決めて、再び、大通りの方へ戻り始めた。母親への感情は何もなかった。ただ、遠い余所の人のような感覚だけが俊一の心の内の全部を占めていた。
預金はまだ、底をついていなかった。二か月や三か月ぐらいなら、どうにか凌(しの)げそうな気がした。問題は、ただ、だらだらとそうして生きている事になんの意味があるか、という事だった。新宿の街の中の至る所を探し回った。キャバレー、クラブ、サロン、その他、怪しげな店までも探し廻った。それでも、由美子の姿はなかった。これ以上、この底なし沼のような街の夜の世界の、何処を探せばいいと言うのだろう。だが、それ以上に言える事は、果たして、由美子が今でも、この新宿の街に居るのかという事だった。あるいは、厭な思い出の残るこの街を後にして、西か北か、遠い彼方の地へ行ってしまったのかも知れない。
俊一のアパートの部屋へ帰らない日は三日も続いた。歌舞伎町の繁華街からはまったく離れなかった。夜はいつもコマ劇場前の広場で過ごした。虚ろな眼で座り込んでいる俊一の気を引こうとして、思わせ振りな視線を送って来る女たちも数多くいた。だが、今の俊一には、そんな女たちの存在も煩わしいもの以外の何ものでもなかった。由美子の存在が消えてしまった今、空洞となった俊一の心を満たしてくれるものは何もなかった。
四日目の朝になると俊一は、腰を据えていたコマ劇場前の広場から動かなかった。母と連れの男が、あの夜、あれからどうしたのか、俊一の知るところではなかった。
俊一のコマ劇場前広場から動かない生活は更に続いた。アパートへ帰るつもりは全くなかった。空腹になると、ハンバーガーショップへ行き、ハンバーガーを買い、口にした。心の内に見えて来るものは何もなかった。
噴水の淵に座り込んだままの、浅い眠りの中では何度も夢を見た。自分が眠っていたのか、起きていたのか、判断の付かない事も稀ではなかった。何かに驚いてふと、眼を開くと、自分が巨大な建物に囲まれている事を知って、ようやく、現実を理解した。
悲哀と落胆が、たちまち心を虜にした。俊一は自分が日毎に深い地底の底に沈んで行くような思いに捉われた。
何をする気力も湧いては来なかった。絶望感だけが日増しに深まるようだった。
コマ劇場の華やかな絵看板も、軒を並べる映画館の巨大な写真やスターの姿にも、なんの感興は湧いて来なかった。総てが遠い世界の出来事に見えた。
そんなある日、俊一は白日の中で居眠りをし、夢を見た。その夢の中で俊一は、立派な医師だった。母はそんな俊一を手招きして呼び寄せた。
「おめでとう。良かったわね」
満面笑みの、白い歯を見せて言った。
母の後ろには父が立っていた。父も眼鏡を光らせ、微笑んでいた。足元には、緑の草が生い茂っていた。
あれは、何処だったのだろう・・・・・。
父の背後には、夏の日差しを浴びた大きな樹々が豊かな枝を伸ばしていた。
那須高原の別荘地での事だったのだろうか ?
由美子が草原の彼方に立っているのが小さく見えた。それでも、その由美子はたちまち消えて見えなくなり、俊一はいつの間にか、新宿、靖国通りを歩いていた。ふと、「俊ちゃん」と、呼ぶ声に振り向くと、人込みの中に由美子が立っていた。
「何処へ行くの ?」
夢の中の由美子は言った。
「なんだよ。さんざん、おまえを探したんだぞ。何処へ行ってたんだよお」
俊一はそれでも嬉し気に言った。
「今、俊ちゃんの所へ行こうと思っていたのよ。一緒に行こう」
由美子は嬉しそうに俊一の腕の中に腕を差し込むと歩き始めた。
新宿の街にはまだ、午後の陽ざしがあった。
あれから二人は何処へ行ったのだろう。
夢は夢のままに終わっていた。俊一が気が付いた時には、歌舞伎町の街には早くもネオンサインに灯りが入って、いつもの新宿の夜の賑わいが漂い始めていた。
俊一は一日中座っていた噴水の傍を離れると、当てもなく歩き出した。
夢の中で見た母親や父親のこぼれるような笑顔と、由美子が靖国通りで俊一を呼んだ時の声と笑顔が鮮やかに甦った。
あの夢の中で俺はなんて幸せだったのだろう・・・・・。
だが、すべては幻だった。まさしく夢の夢にしか過ぎなかった。
自ずと涙が滲んで来た。
俊一は涙に濡れた眼に映る歌舞伎町のネオンの明かりから逃れるように、靖国通
りを目指して歩いて行った。由美子に会えると思った訳ではなかった。幸せだった由美子との再会の夢の跡を再び歩いてみたいと言う思いだけだった。
早くも賑わいをみせる路地を抜け、靖国通りへ出ると、そこで足を止めた。
これから何処へ行けばいいのか分からなかった。行くべき先の当てもなかった。
空虚感だけが心に満ちていた。
信号が変わった。人々が一斉に動き出した。俊一はだが、動けなかった。自分が何処へ行くのか、行く先も分からないままに、人々の行き交う流れを見つめて立ち止まっていた。
再び、信号が変わった。動いていた人の波が立ち止まり、車道を車の列が流れて行った。
俊一は車道を走り行く車の列を見ながら信号待ちをする人々の群れの中から逃れるようにして、当てもなく歩き始めた。人と人とが雑多に行き交うこの数限りなくいる人の群れの中に、ただ一人、由美子だけがいなかった。
身ごもった子供はどうしたのだろう・・・・・
ふと、思いが走った。
もう一度だけでも、由美子に会いたいと思った。会って、心の内の全てを由美子に打ち明けたかった。
由美子に会う事さえ出来れば・・・・・孤独と悲しみが心を充たした。
俊一は思わず嗚咽を漏らした。
もう、再び、由美子に会う事は出来ない。
俊一はいつの間にか来ていたセントラルロードの入り口で立ち止まった。
この角で何度か、由美子と待ち合わせた事を思い出した。由美子との楽しい思い出が残る一角だった。由美子が息を弾ませて来る姿が眼に浮かんだ。ーーすべては空しかった。俊一は建物の壁に身を寄せると、ここでも絶え間なく行き交う人の群れに視線を向け、ぼんやりしていた。見えて来るものは相変わらず何もなかった。
どれ程かの時間が過ぎていた。俊一自身にさえ分からなかった。気が付いた時には、自分自身の中で何かが変わり始めている事にふと、意識が及んだ。なんだろう?
いったい、何だろう ?
俊一は初めて、はっきりとした思いで自分の中に目覚めて来たものの姿を見つめようとした。相変わらず、その建物の壁に身を寄せたまま、自分の心の中に生まれて来たものの正体を掴もうとしていた。
そのものが、次第にはっきりと大きく膨れ上がって、心を充たして来るのを俊一は意識した。
気持ちが次第に解きほぐされてくるのが、自分でも理解出来た。
そのものは希望のように俊一の心の中に満ちて来た。
夢が溢れる気がした。
俊一は思わず寄り掛かっていた建物の壁から身を離すと、すっきりと自分自身の足で体を支えた。
行き止まりにしか見えなかった眼の前が、突然、開けた気がした。
俊一は、その思いに促されるように、いつもポケットの中に入れて持ち歩いていたナイフにそっと触れた。
ナイフは相変わらず触れた手に、ずしりとした心地よい感触を伝えて来た。
このナイフをこのような形で使用しようと思った事は一度もなかった。
それでもナイフは、現在、只今、この状況の中では、それが最上の使用法に思えるのだった。そうだ、俺にはナイフがある !
俊一はブルゾンの内ポケットに手を入れるとナイフを取り出した。
そのナイフを握りしめると、ひんやりと冷たい感触が心地よく心に触れた。
二匹の蛇が絡み合う不気味な柄の浮彫が、俊一の心を充足感で満たした。
俊一はそのナイフを握りしめたまま歩き出した。今まで避けるようにしていた人込みに向かって歩き出した。ナイフを握りしめたまま、いったい、由美子はそれを知ったら、どう思うだろう、と考えた。
新聞、ラジオ、テレビは間違いなく報道するだろう。それが、由美子の眼に触れない訳がない。由美子はそれを知って、俺の孤独と寂しさを理解してくれるだろうか ?
父と母は ?
だが、その感情はそこまでだった。それ以上の感情は湧いて来なかった。
実の父と母が他人のような気がした。遠い存在に思えた。今の俊一に取っては総てが由美子への思いに還っていった。
俊一は手にしたナイフの柄にあるボタンを押した。
ナイフは夜の中で、たちまちネオンサインの光を受けて輝いた。
「やだあ、人の方に向けないでよお」と言った時の由美子の顔が思い浮かんだ。
俊一は自信に満ちて歩き始めた。その手の中では逆手に握られたナイフの刃が鈍い光を放っていた。
俊一は更に、二歩、三歩と人込みの中に押し入って行った。
眼の前を塞ぐようにして立ったのは、二十歳前後の女性だった。その女性の鮮やかなブルーのスーツが俊一の眼に焼き付いた。瞬間、俊一はその女性の胸元目がけて、力いっぱいナイフを振り下ろした。
若い女性の悲鳴が聞こえた。
ナイフの刃が女性の胸元の肉に食い込む確かな感触を意識した。その感触を意識するのと同時に、今、抜かなければ抜けなくなってしまう、と咄嗟に思った。
俊一はナイフの突き刺さった女性の胸倉を力いっぱい突き放した。女性の肉体は崩れるように路上に倒れていった。
俊一は自身の思い通りに総てが運んだ事に微かな満足感を抱きながら、血に染まったナイフを握りしめたまま、路上に倒れた女性を見下ろしていた。
人の波が倒れた女性と俊一を取り囲むようにして寄り集まって来るのが見えた。その人波を視線の片隅で捉えながら俊一は、これで良かったのだと、自分に言った。
完