眼の前 それが総て(2019.3.11日作)
禅の世界では
芥子の実 一粒の中に
全宇宙が包含されるという
事実 その通り
今 眼の前にある
その事にのみ 心を結集
集中すべし 他の事
関係 必要なし
今 眼の前にある事実
それのみが 総て
自身の今
眼の前の今 を 全う出来ずして
他の何が出来るという ?
世間の些事 愚行 に
惑わされるな 今が総て
今が世界の中心
眼の前の今を突き抜けた 先
その先に 世界は開かれる
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夢の中の青い女 (1)
バーの中には歯切れのよいリズムを刻んで、アルゼンチンタンゴが流れていた。
ロック全盛の現在、タンゴとはいかにも時代遅れの感がなくもなかったが、戦後の混乱期に少年時代を過ごした者にとっては、むしろ懐かしく、自分達の音楽だという気さえした。
大木は多少、酔っていた。カウンターの中のホステスを相手に取り留めのない冗談を交わしていた。
大木修三、四十八歳。現在、都内と近郊に七店のスーパーマーケットを持ち、その日常生活は自信と共に、活力に満ちたものになっていた。自身、そんな生活に格別に、不満を抱く事もなかった。家庭には六歳下の妻と、大学三年生の息子、高校二年生の娘がいる。大木にとって、もし、不幸の忍び込む余地があるとすれば、唯一、大木自身の健康面からに外ならなかった。かと言って、現在、大木が不健康だというのではない。仕事に情熱を注(つ)ぎ込む余りに、つい、無理を重ねてしまう事に問題があった。大木の睡眠時間は一日平均、五時間を切っていた。それだけに、一週間の仕事が終わった水曜日の夜などには、安堵感と共に、深い疲労感の中で全身の筋肉が溶けてゆくような感覚に襲われるのだった。
大木にとっては、一週間に一度、このバー「青い女」に足を運び、誰に邪魔される事もなく、思いのまま、気の向くままに、寛ぎの時間を過ごす事は、過激で多忙な日常生活の中での、唯一の慰めになっていた。
バーの中には大木の他には客はいなかった。この新宿の繁華街にある店としては珍しい事であった。時計の針は十一時十三分を指している。店の中には多少の疲労感と倦怠感とがなくもなかった。大木はそろそろ腰を上げようかと潮時を見ていた。
不意の来店者だった。学生らしい男女が飛び込んで来た。
「わあ、ひどい霧だ。一寸先も見えやしない」
「髪も服も湿気を帯びてびっしょりだわ」
二人は、突然の災難を楽しみ、面白がっている風だった。
「霧 ?」
同年代のバーテンダーが言った。
「うん、凄い霧だよ。あっという間に街中が覆われてしまった。自動車は方向感覚を失ってうろうろしているし、街を歩く人たちは金魚のようにパクパク口で息をしながら歩いている」
「さっきまで、なんでもなかったのに」
バーテンダーが言った。
「そうだよ。ほんの十分程の間の出来事だよ。ここへ来るのにも道を間違えてしまいそうだった」
男が言った。
「何か体の温まるカクテルを頂戴。霧の中ですっかり体が冷えてしまったわ」
女がハンカチで髪を拭きながら言った。
その髪には細かい霧が雫をつくっていて、仄暗い照明にキラキラ輝いた。
「キッス、オブ、ファイヤーって言うのはどう ?」
「火の接吻 ? いいわね」
女は悪びれずに言った。
「霧になるなんて、天気予報ではまったく言わなかったのに」
男が不満気に言った。
「でも、霧ってちょっと悪魔的ね」
丸顔の健康そうな女は、カクテルを口元に運びながら言った。
「ほら、聞いてみな」
有線放送のアルゼンチンタンゴに代わって、ラジオの男性アナウンサーが放送している声を耳にした男が言った。
「ただ今、東京都内全域に於いて濃い霧が発生しています。霧は明日の明け方まで続く見透しです。この濃い霧のために国電は都内全線に於いて、時速十キロのノロノロ運転を行っています。なお、車の事故が多発している模様ですので、運転される方はくれぐれも御注意下さい」
「全くだ。これじゃあ、車の運転なんて出来やしないよ」
男は叫ぶように言った。
「なんでまた、霧なんか出たんだろう ?」
バーテンダーが言った。
「とにかく、急に気温が下がって来たと思ったら、あっという間だったわ」
女がカクテルのグラスを口に運びながら蒼白い顔のまま言った。
「今夜、帰れるかしら ?」
大木の前にいたホステスのしのぶが言った。
「大丈夫だよ。ノロノロ運転でも国電は動いているって言うから」
大木は言った。 続く