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遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉(441) 小説 いつか来た道 また行く道(1) 他 目立つな

2023-04-02 14:45:20 | つぶやき
           目立つな(2022.6.10日作)


 人は 他者の中で あまり
 目立とうとするな
 目立とうとすれば
 自分に無理が掛かり
 心が楽しめなくなる
 かと言って
 他者の眼を無視する事は
 唯我独尊 人格が尊大になり
 何をしてもよい という事に
 なりかねない
 人は常に 自身の進む道に忠実に
 その道の真実は何か その 真実だけを
 見詰めて行けばいい
 自分の進む道の真実は 何処にある ?
 その事をまず 考える 他者の眼
 他者の評価を気にするのは
 その後でいい




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           いつか来た道 また行く道(1)

               ほんの小さな事が
                人の一生を大きく
                 変えるものだーー
 


              (一)



 わたしの場合、魔が差したと言うべきなのか、あるいは、心の何処かに驕りがあって、その罠にはまったと言うべきなのか ?
 いずれにしてもわたしは今、わたしが生きて来た三十七年という歳月の中で、ようやく手にした人生の宝とも言うべきものの総てを、失い兼ねない状況に直面している。そして、逃げ道はもうない。
 わたしは岐阜県大垣市に近い町の平凡な家庭に生まれた。姉が二人と、兄が一人いて、それぞれに結婚し、現在、大垣市の市内に住んでいる。
 わたしが生まれた家には今、七十五歳になる母親が四年前に脳梗塞で亡くなった父親の墓を守りながら、一人で暮らしている。
 わたしは高校を卒業するまでその家に居た。
 高校卒業と同時に東京へ出た。
 東京では、現在パリに住む著名な服飾デザイナーの宮本俊介の事務所で雑役係りとして働いた。
 当時、宮本俊介はまだ無名で事務所も小さく、総勢五人の所帯だった。
 宮本俊介が大垣市の出身で、わたしは知り合いに紹介されていた。
 もともと、わたしは上昇志向が強かった。中学、高校と、学校生活では格別、目立つ生徒ではなかったが、それでもわたしは、常に自分に不満を抱いていて、いつも何かを求めていた。
 それがわたしを東京の生活へ憧れさせた。
 東京には夢が溢れている・・・・
 大学へ進む事は考えなかった。早く社会人としての生活を始める事が、大人への近道のような気がしていた。
 東京では総てが順調だった。
 わたしは陰日向なく働いた。
 真面目さが唯一、わたしの採り得だった。
 高校を卒業するまでの学校生活でも、格別、頭脳の優れていた訳でもなかったわたしは、真面目な事だけで友達の信頼を得ていた。
 その真面目さは、仕事の上でも思わぬ恩恵をもたらしてくれていた。
 わたしが独立して錦糸町に小さな洋装店(ブティック)を開く時、既に名の売れ始めていた宮本俊介が力を貸してくれて、わたしの名もないブティックは思わぬ成功を収めていた。わたしが二十五歳の時で、宮本俊介はそれから二年後にパリへ行った。
 パリからも宮本俊介は、わたしの求めに応じていろいろな情報を送ってくれた。
 わたしと宮本俊介との間にはしかし、それ以上の関係はなかった。
 わたしはその二年後に結婚した。
 結婚生活は一年半近くで終わった。
 わたし自身が家庭に納まることが出来なかったためだった。
 何かと上昇志向の強いわたしには、家に居て夫の機嫌を取りながら食事の支度をしたり、掃除や洗濯をしている事が時間の無駄のように思えて苛々させられた。
 わたしに取っては事務所の机に向かい、うず高く積まれたファッション雑誌やカタログに眼を通しながら夢を膨らませている時が、一番の幸福な時間だった。
 そんな時間の中では、一日に幾度と鳴る電話や、何通も届くファックスにも煩わしさを感じなかった。
 お蔭で仕事は離婚と共に、再び順調な発展軌道を取り戻していた。
 現在、わたしが経営する{ ブィテック・美和 }は、事務所のある赤坂を拠点にして、新宿、渋谷、原宿、六本木、成城などと都内の繁華街に、いわゆる高級ブティックと呼ばれる店を九店舗展開している。
 無論、わたしの上昇志向はそれでもまだ、納まってはいない。更なる発展を目差してわたしは日々、奮闘している。
 そんなわたしを称して他人(ひと)はよく、「イノシシ美和」などと呼んだ。
 でも、そんな呼び名もわたしには不快なものではなかった。
 それがわたしの、おいそれとは他人の助言を受け入れない頑固さ、一途さに起因している事はわたし自身理解していた。
 わたしには現在、宮本俊介を除いて外に、特別親しい経営上の相談相手はいなかった。
 
 菅原綾子とは彼女が経営するレストランを通じて知り合った。
 六十代半ばの菅原綾子は都内に何軒かの高級レストランを持っていた。
 わたしがしばしば赤坂の彼女の店に足を運んだ事から付き合いが始まっていた。
 彼女もまた、わたしの店へ顔を出すようになって、親しさが一層、増した。そして、それがわたしに取っての、不幸の始まり ? だったのかもしれない知れない。





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          桂蓮様

           有難う御座います         
          ヘルニア 二本足で立つ人間の宿命とも言われますが
          腰の病気は苦痛ですよね 何に限らず病気には苦痛が伴いますが
          この痛みにはどうにも対処の仕様がありませんものね
          結局 バレーのレッスンの頑張り過ぎも影響しているのでは
          頑張り屋 物事をおろそかに出来ない几帳面な性格の真面目さ
          それが今回 負の連鎖を引き起こしたのでは・・・・
          ああ 今日は痛いから休もう そんな気楽な性格なら
          それ程までに悪化をさせなかったのかも などと思ってしまいます
          この病気に悩む人は多いようです
          おそらく完治はあり得ないでしょうから リハビリと後の対処が必要でしょうね
          くれぐれも御無理をなさらないように ですが 晴れ舞台の消えてしまった無念さ
          悔しさ 恨めしさ 想像出来ます その悔しさ無念さ 落胆を抑えて 
          今は我慢の一途 次に向けての調整 力の蓄積 
          苦労は人間を成長させるーーそう考えて自分を納得させる以外 無いのでは
          それにしても何時も通りの御理解のある御主人様 それだけでも救われるのでないですか
           いずれにして 何事も御無理をなさらぬよう御大事にして下さいませ




            takeziisan様


            有難う御座います
           花の季節 花の命は短くて 三日見ぬ間の桜かな
           何処も彼処も花 花 花 好い季節ですが それもアッと言う間に過ぎ
           また 梅雨の鬱陶しい季節が来ます 毎年 毎年 同じ事の繰り返し
            そして 人の世界も少しずつ変わってゆく
           数々の懐かしい音楽 年代を見ると総てが遠い昔のような
           感慨を覚えます
            一昨日 伊豆旅行から帰って来ました 長島茂雄が現役時代
           キャンプで滞在したという旅館に泊まり 伊豆周辺を廻って来ました
           何よりも驚いた事がその桜の多さでした 伊豆は御承知の通り       
           周囲が山 山 山 ですが 見渡す山の何処にも桜の花の色が混在していて
           正に桜の国 桜の山という感じでした
           伊豆と言えば河津桜ですが さすが 桜の郷と言う
           思いを抱きました
            懐かしい音楽の数々  改めて思い出しました でも再び戻る事の出来ない世界       
           何か 感慨深いものがあります こうして年代を追ってゆきますと
           総てが遠い昔ですね       
           せめて 日々 元気でいられる事に感謝しなければと思います
            畑仕事 大変さゆえの恵み 改めて羨ましく思います
            それにしてもわたくしの方では 何故か つくし  の姿が見られません
           江戸川という 大きな川の堤防が有りますがそこにも
           見られません 
           そう言えば 一週間程前 ニュースにもなりましたが
           堤防沿いの桜並木の下で桜現物をしていた家族の三歳だったかの子供が         
           親が眼を離した隙に居なくなり 水死体で発見された という出来事がありました
           胸の痛くなる話ですが 親御さんはくれぐれも幼い子供からは
           眼を離さないようにという願うより仕方がありません
           一瞬の間の幸 不幸 改めて 日々 一日一日の大切さを実感します
           今回も楽しい記事 有難う御座いました
           御礼申し上げます