「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武田信玄①「弓矢の儀、勝負の事、十分を六分七分のかば十分の勝なり」

2020-07-21 17:12:01 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第九回(令和2年7月21日)

弓矢の儀、勝負の事、十分を六分七分のかば十分の勝なり
                (『甲陽軍鑑』「信玄公御一代敵合の作法三カ条」)

 徳川家康は武田信玄を若い頃から手本とし、弓矢の師と仰いで来たと述べている(「岩淵夜話」)。信玄の戦いは群を抜き、武田軍団の精強さは周りに鳴り響いていた。信玄の兵法は後に「武田流軍学」として伝えられ、「山鹿流軍学」にも受け継がれて行く。後世その教本となったのが、『甲陽軍鑑』である。著者は武田信玄の重臣・高坂弾正昌信とされているが、実際は武田の家臣・小幡昌盛の三男の小幡景憲が当時の記録を元にして編集した。

 武田信玄は、大永元年(1521)甲斐の国の守護・武田源氏の嫡男として生まれた。父・信虎が平定した甲斐国を受け継ぎ、更には信濃の諸豪族と戦って勝利して手中に収め、越後の雄・上杉謙信の軍も五度に亘る川中島の戦いで凌いだ。この間、最大勢力範囲は駿河、三河、遠江、美濃、上野、飛騨、越中まで及んだ。遂には、天下に号令すべく上洛を企て西上するが、その途次に病気で倒れ、元亀四年(1573)4月に享年53歳で病歿した。

 何故、信玄は大きく勢力を広げる事が出来たのだろうか。その根本の考えがこの「信玄公御一代敵合の作法三カ条」に記されてある。それは次の三点である。

① 敵の強弱をしっかり把握し、更にはその国の大河や急坂、財力の状態、家中の人々の行儀や作法、剛勇の武士が上の地位や下の地位の者の中にどれだけいるかを調べて、その事を味方の指揮に当る者達に良く知らせておく事。

② 合戦勝負では、十のうち六分か七分敵を敗れば、それで十分な勝ちである。特に大きな戦いの場合はこの事が肝要である。八分の勝利は危うい、九分十分の勝は味方が大敗する下地になるからである。

③ 戦いの心得について、四十歳迄は勝つ様にして、四十歳を過ぎれば負けない様に工夫すべきである。但し、二十歳前後でも、弱敵には負けない程度にして勝過ぎてはならない。強敵には右の様に考えて、良く思案工夫して追い詰め、圧力を加え、心を気長に持って後々の勝利を得る事こそが肝要である。

信玄は、敵の状態を詳しくかつ的確に把握し、その情報を軍団で共有する事を第一とした。その上で、「勝過ぎない事」「時間をかけての勝利」を心掛けたのである。この用意周到さを身に着けていたが故に、信玄は着実に勝利を重ねて行く事が出来た。名将は、目先の勝敗に左右されず、究極の勝利を目指して一歩一歩前進出来る「見識」を必ず備えているのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中江藤樹⑥「我心わたの如くや... | トップ | 中江藤樹⑦「心裏面に常住不息... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

【連載】続『永遠の武士道』」カテゴリの最新記事