「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知の言葉」第4回「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」

2023-06-20 14:01:36 | 「良知」の言葉
第4回(令和5年6月20日)
「心は即ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや」
(『伝習録』上巻3)

 諸事情により、この連載は中断していましたが、今回から週二回(火曜日・金曜日)のペースで掲載したいと考えています。陽明学、人間学、心学に関心のある方は、是非お読みください。

王陽明が「心即理」に目覚めたのは、左遷されて龍場に流謫されている三十七歳の時である。シナ大陸の奥地、文化も原始的な土地に流される事により、王陽明は学問の在り方を根本から問い直す事になった。社会的な装飾の全てが失われ、意味をなさない辺境の地にあって陽明に残されているものは、自らの体と心だけであった。だが、地位や名誉を失ったことは気にしなくても、龍場迄の往路で刺客に狙われた事も有り、生死についての恐れだけは中々消えなかった。そこで石の棺を作って端座し、「吾はただ天命を待つのみ」と自らに言い聞かせて心が鎮まる様に努めた。その内に胸中もさっぱりして来た。日常生活も前向きに明るく過ごせる様になって行く。
その様な中、ある夜、『大学』に云う「格物致知」の真の意味を悟った。それは、「聖人の道というのは、吾が本性そのものを自覚するだけで十分に実現できる。いままでそういう内なる道理を外にある物事の中に探し求めていたのは誤りであった。」との「気付き」=「悟り」だった。それを「龍場の大悟」と言う。この体験によって陽明は、聖人への道とは自分の心を深める事によってのみ到達出来るのだとの確信を持つに至った。そして、「心即理」を教学の根本に据える様になるのである。
人が正しい生き方を求める時、その羅針盤と成り得るのは自分の心の外には無い。心は無限に「広く」「高く」「深く」磨いて行く事が出来る。その一方で、心をなおざりにするなら、「狭隘で」「低劣で」「浅薄」な心に堕し、人格もその様になってしまうのである。王陽明は自分の心を信じ、日々、心を磨く事によって、人格の無限の生長を成し遂げて行けたのである。「心即理」とは、自分の心を磨き続ける事を何よりも優先せよとの教えに他ならない。

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