「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

上杉謙信④「吾一度天下の乱逆を討平て、此を一統に帰せんとす。若此志遂ぐべからずんば、只病死を賜へ。」

2020-09-22 16:47:42 | 【連載】続『永遠の武士道』
続『永遠の武士道』」第十八回(令和2年9月22日)

上杉謙信に学ぶ④
吾一度天下の乱逆を討平て、此を一統に帰せんとす。若此志遂ぐべからずんば、只病死を賜へ。
                           (『謙信軍記』)
 
 謙信が法号「謙信」を自称したのは、元亀元年(1570)十二月十三日に春日山城看経所に越中平定の祈願文を納めた時だと言われている。その時、「私は一度天下の乱逆を討ち平らげて、秩序ある世界を実現したいと願っている。若しこの志を遂げる事が出来ないなら、私には唯病死を与え賜え。」と祈ったという。

 謙信の戦いの跡を追いながら実感するのは、その行動範囲、守備範囲の広大さである。拠を置く越後の国だけでも上越・中越・下越と三地区に分かれており、それらを平定する事自体大変な労力が要る。謙信の拠点である春日山城は上越(現在の直江津)にあり、この地は三国峠を通って関東平野と直結していた。関東管領となり上杉姓を名乗った謙信は関東の保護者を自負した。更には、信州方面に進出を図る甲斐の武田信玄から信州北部を守らねばならない。北信の野尻湖を越されれば上越は累卵の危機に瀕する。謙信が幾度も川中島に出陣した所以である。その上、足利将軍や天皇は謙信の忠誠心と武勲に期待して上洛を盛んに求めて来る。上洛する為には越中、越前の平定が不可欠である。常に三方面の作戦が求められた。如何に連戦連勝の猛将と雖もこの広大なる地域の平定は人業では到底不可能である。

 それ故謙信は必死になって神仏に祈願した。春日山城中に毘沙門堂を建てて毘沙門天を祀った。毘沙門天は多聞(たもん)天とも言い、仏法を守護する四天王の一つで北方世界を守護すると言われ、甲冑をつけた憤怒の武将で表現されている。毘沙門天の信仰は毘沙門法という祈祷を修めるもので、真言密教の一つである。二度の上洛時には高野山金剛峯寺にも赴いて教えを受けている。謙信は戦いの度に神仏に願文を捧げて必勝を祈願した。現在でも願文十八通が残されており、その数は戦国武将の中でずばぬけて多い。又、寺僧達にも必勝の祈祷を命じ、戦闘が芳しくないと僧侶達の祈祷が足りないからだと叱責している。

 ある時、急いで間者を派遣せねばならなくなり、毘沙門堂に連れて行く余裕が無い為、謙信は「わが前で神文(神への誓約)せよ。」と命じ、驚く老臣達の前で「我あればこそ毘沙門天も用いられる。毘沙門をこちらが百度拝めば、毘沙門もわれを五十度か三十度は拝まれる。われを毘沙門天と思って、わが前で神文せよ。」と述べたと言う。謙信の軍旗は「毘」である。自らを京都の北方を守護する毘沙門天の化身と固く信じて戦い抜いたのである。

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