「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

山田方谷 誠に生きた藩政改革の巨人1  事の外に立ちて事の内に屈せず

2011-04-06 17:25:20 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十六回(『祖国と青年』22年8月号掲載)

山田方谷  誠に生きた藩政改革の巨人1

   事の外に立ちて事の内に屈せず



 幕末期の陽明学者山田方谷の魅力について、安岡正篤氏は「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と述べている。

山田方谷は文化二年(1805)に備中松山藩(現在の岡山県高梁市)に誕生、幼い頃から学問に励み、京都に三度遊学して学問を深め、更には江戸に赴いて佐藤一斎に学び、帰国後藩校有終館学頭(校長)に任じられた。その後、藩財政の再建を任せられ、見事に成功を収め、その手腕と実学は全国に鳴り響き、長岡藩の河井継之助は方谷を唯一の師と仰いで、備中松山迄学びに訪れた。方谷は、幕末期最後の老中となった藩主・板倉勝静公を補佐する。大政奉還上奏文の起草は方谷が行った。維新後は、松山藩の存続に力を注いで成功し、新政府からの財務大臣就任の要請を断って、郷土の子弟教育に晩年は尽力し、明治十年(1877)に73歳で薨去した。

    指導者方谷の経世哲学

 嘉永二年、松山藩では板倉勝静公が新しい藩主に就任、十二月には自らの学問の師である有終館学頭の山田方谷を元締役兼吟味役(藩の財務大臣)に任命した。方谷四十五歳の時である。松山藩は五万石の藩だが、実質は二万石しかなく、借財は積り積って十万両(現在の約六百億円)に達して居た。方谷は、確固たる哲学の下、次々と手を打ち、利益は三年にして一万両(六十億円)四年目には五万両(三百億円)に迫り、わずか七年で藩政改革を成し遂げ、全ての借財を終え、更に十万両の余剰金迄を生み出した。方谷は佐藤一斎に学んでいる時に「理財論」という経済論を、帰国後「擬対策」という政治論を執筆しているが、その中にこの藩政改革の基本的な哲学が記されている。

●それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。しかるに今の理財者は悉く財の内に屈す。(良く天下の仕事を為す事が出来る者は、物事の外に悠然と立って物事を考察し、物事の渦中に取り込まれる事は無い。それにも拘らず、現在の財務担当者は総て財政の事しか考える事が出来ずに袋小路陥っているのだ。)

と指摘し、太平の中で唯一財政赤字の克服について毎日毎日議論しているが、結局、打開策は見出せずに歳月を空費しているだけである。と現状を厳しく批判する。そして、

●人心は日に邪にして正すこと能はざるなり。風俗は日に薄くして敦きこと能はざるなり。官吏は日に汙れ、民物は日に弊るるも検すること能はざるなり。文教は日に廃れ、武備は日に弛むも、これを興しこれを張る能はざるなり。挙げて問ふ者あれば、すなはち曰く、財用足らざれば、奚んぞここに及ぶに暇あらんと。嗚呼、この数者は経国の大法にして、舎きて修めざれば綱紀ここに於てか乱れ、政令ここに於てか廃れ、財用の途もまたはた何に由りてか通ぜん。(人心は日に日に邪悪になって正す事が出来ない。風俗は日々軽薄に流れ敦くならない。役人は汚職にまみれ、民百姓が倒れて困窮する事の原因も追究出来ない。日に日に文教は廃れ、軍備は疎かになっている。それらについて尋ねる者があれば、お金が無いから対策する余力が無いと言い逃れする。ああ、これらの事は「経国の大法(国家経営の重要問題)」であって、これを除外して政治を行えば、国の綱紀は乱れ、政令は廃れ、貨財運用の方途も行づまるのである。)〈「理財論」〉

それ故、今の者達は「財の内に屈する者」だと言う。更に、方谷は、「君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。」「利は義の和」との言葉を引用して抜本的な国家経営の建て直しこそが、財政再建への道である事を指摘している。

又、方谷は財について『古本大学講義』の中で次の様な考えを示している。

●矩に因り財用を制すれば、争も奪も起こらぬものなり。(物事の明確な基準を立てて財を運用すれば、争いも奪い合いも起こらない。)

●自然の誠意より出でて、財を積み国を富ませば王道なり。権謀術数を以て、国を富ませば覇術なり。(自然の真心に随って財を生み出し国を富ませる事が出来たなら王道であり長続きし、権謀術策によって国を富ませたなら覇道であって長続き出来ない。)

●財は天下に広めて、天下万民の用をなすに非ざれば、真に財を生ずるに非ず。(財は天下に広めて巡回させ天下万民の役に立たなければ、真に財を生み出した事にならない。)

方谷は、物事を為し遂げる信念ともいうべき人生観を確立していた。

●天地間如何なる大功業も、時に遭ひ運に遭ひ、自然の道義より出づれば、出来ざることなし。(『孟子養気章講義』)

●国家を治むるは、徳に非ざれば不可なり。才智の能く為す所に非ず。(服部膺手記)

●大事を成すは、大義と細謀と、兼ね行はれざれば遂ぐること能はず。(『続資治通鑑綱目講説』)


  わずか七年で藩を蘇らせたその手腕

 この様な、考えの上に立って方谷は、藩政の抜本的な建て直しに着手して行った。それは、次の様な内容だった。

【実態の解明と情報の公開】年間五万両の支出に比し収入は三万両弱、二万両の構造赤字、藩の財政規模の倍に相当する十万両の借金、利息は一万三千両に及ぶ実態を解明。

【負債返済猶予の相談】大阪に自ら乗り込み、商人達の前で実態を説明すると共に緻密な返済計画を示し、借金返済延期を要請。方谷に対する人間的な信頼が生じ了解を得た。

【藩札の信用回復】信用の失われていた旧藩札を回収、高梁川河原で全て焼却して財政立て直しの強い意思を内外に示し、その上で健全財政を裏付けとする新藩札を発行。

【地場産業の振興・物品販売方策の確立】藩の事業部門「撫育方」を新設して専売事業を推進、大坂蔵屋敷は廃止、米は藩内で貯蔵して直接全国に販売。時代の潮流に乗った産業政策を振興、煙草・ゆべし・檀紙等地場産業を育成、道路の拡幅、河川改修等の公共投資。鉱山を直営とし、鉄製品等特産品を育成、三本刃の「備中鍬」が大ヒット。江戸の大火に際し「鉄釘」を大量供給。船を保有し江戸へ直送。

【人心の掌握 撫民政策】道路や水利の整備、凶作に備え領内40余ヶ所に貯倉設置(嘉永六年の日照り災害の際、死者が出ず、農民は方谷を「生き神様」と慕った。)、目安箱を設置、賄賂を禁じ、賭博や盗賊の取締りを厳しくした。

【人心の刷新】中級以上の武士と豪農を対象に節約令・贈答禁止・上下節約(穀禄を減ずる・贅沢禁止・贈答禁止・役人饗応禁止)、方谷は家計簿を他人に管理させて範を示す。

【士風の刷新】時代に対応出来る軍事力の整備、近代的な銃陣、洋式砲術を採用し軍制改革、農兵の組織化・嘉永五年「里正隊」を結成し、幕末有数の強兵となった。

【文教振興】人材を養成すべく文武奨励の為、学問所、教諭所、寺子屋、私塾など。を75カ所に新設した

かくて松山藩はわずか七年で藩政を立て直し、更には十万両の貯蓄を生み出し、経世家山田方谷の名は全国に轟いた。


    方谷の陽明学

 ここからは、藩政改革を成し遂げた人間力を生み出した方谷の学問、特に陽明学について記して行く。

武士の家系であるにも拘らず、菜種油の売買で生計を立てていた方谷の両親は、天凛の才を持つ方谷に、幼い時から学問を身に付けさせ、学問の力で藩に取り立てられる事を願っていた。その両親も方谷十四・五歳の時に相次いで亡くなった。家業と学問の間で困しむ方谷に救いの手を差し延べたのは藩主板倉勝職公だった。二十一歳の時に二人扶持を給され藩校有終館で学ぶ事を許された。二十三歳の時に初めて京都に遊学し、寺島白鹿の下で朱子学を学んだ。

この間の方谷の学問に対する強い志が伺われる文章を紹介する。

●父や我を生み、母我を育つ。 天や吾を覆い、地吾を載す。 身男児たり。宜しく自ら思ふべし。 苶々(ぼんやり)として寧ぞ草木とともに枯れんや。

●然りといへども皇考(亡き父)の志は継がざるべからず、明主の遇(殿様から受けた待遇)は報ぜざるべからず。(略)大丈夫の志を立てるは一にかくの如し。天下の力を挙げて之を動かすも、未だ以て吾が志を移すに足らざるなり。
    
山田方谷が、陽明学に強く魅かれる様になったのは、天保四年の三度目の京都遊学の時で二十九歳だった。

方谷は陽明学の得失を確りと認識した上で、王陽明の言葉に強く魅かれる事を「伝習録抜粋の序」に記している。

●王の学たる、内に専らにして、約に一なり。是を以て其の伝ふるは偏に出で、是を習ふ者は、得あり失あり。(陽明学は内面を見つめる事に力を注ぎ、「致良知」に究極を見出すので、学ぶ者には得失が生じる。)

そこで、あまり勉強もしない迂闊な者がそれを学ぶと自分の心を絶対視して慢心が生じる欠陥がある。一方、

●易にして知なる者之に資れば、則ち性を見ること速やかに、理を断ずること果に、之を事業に措きて其の効を視るもの、おうおう之あり。是れ其の得なり。(おだやかで知力がある者が学べば、自己の本性を見出すが速やかで、物事の理を見出す事も早く、事業に活用して効果を出す者も往々にして生れる。それが利点である。)

方谷は、得失を弁えた上で陽明学に魅かれて行った。王陽明語録である「伝習録」を読んだ時の心境を「口に熟し心に得て、猶ほ空水名月の無間に相映ずるがごとし。(口に諳んじ心に尋ねると、澄んだ水と明月とが隔てるもの無く映し合う様な境地になる)」と記している。

京都での学問の積み重ねは方谷に強い使命感を抱かせた。

●天の我を生むや、既に我に与ふるに終身の業を以てす。授受よりして之を命と謂ひ、固有よりして之を性と謂ひ、之を心に得て徳と謂ひ、之を身に行なつて道と謂ふ。天之を用て以て我に与へ、我之を奉じて以て天を全くして、終身の業は畢る。(天は私を生み終生尽す業を課せられた。それは、「命」であり「本性」であり「徳」であり「道」である。私はこれらを奉じて天を全うして生涯の業を終える。)

天保五年、二十九歳の方谷は江戸に上り佐藤一斎に学んだ。塾頭に任じられた方谷は、佐久間象山と共に「左門の二傑」と称された。方谷は佐藤一斎の下で陽明学を深め、自ら体現して行く。

●孟春念五、佐藤翁の門に入る。翁の道は、先づ其の大いなるものを立て、華を去り実に就き、人をして性命道徳の源に優游自得せしむ。是を以て日にその教へを聞くを楽しむ。(正月二十五日、佐藤一斎翁の門下生となる。翁の学問は先ず大いなるものを立て、華美を去り実質を重んじ、人の性命道徳の根元にゆっくり自得する様に導かれる。毎日先生の教えを聞く事が楽しい。)

山田方谷の人生哲学を考える場合、その激しい求道心に圧倒させられる。

方谷は、知人から故郷備中の風土について問われた際、鉄を産する風土が人心をも剛健にし、鍛え上げれば日本刀より鋭くなると、漢詩を詠んで示した。

●わが州の風土はもとより雄豪なり  鉄気山にこもって山勢高し  さらに人心の剛なることは鉄に似たり  
錬磨一たびなれば刀よりするどし
 
又、方谷の剛毅なる精神を示したエピソードとして文久元年三月、藩主に随って江戸に居た際、愛宕山の麓で喀血した際に詠じた次の漢詩は有名である。

● 東征に扈従して邸に留まること月余なり。会喀血を患う。時に陽明先生の心中の賊を討つの語を思ふあり。因って賦す。
賊心中に拠り勢ひ未だ衰えず  天君令有り殺して遺す無かれと  満胸迸出す鮮鮮の血  正に是れ一場鏖戦の時

血を吐きながら王陽明の「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」を思い起こして、心中の賊を皆殺しにする戦いは今であると、自らを叱咤激励しているのだ。物凄い志気である。

又、「人は浩然の気を養はねばならぬ。此が学問工夫の肝要(重要)なる所なり。」「学業は、鉄を鍛ふるが如し、一鍛、休むべからず、百錬の剛を成さんを要す。」「総て学問は、存心、致知、力行の三つなり。」とも述べている。江戸在住の頃に体調を悪くした方谷はそれを契機に、以後死ぬまで二十年余酒を断った。意志の強さはここにも表れている。

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