人間魚雷特攻「回天」金剛隊
豊住 和壽(とよずみ かずとし)S16卒
「我々肥後男子の血には勤皇菊池氏の忠節の誠流れ、千本槍の意気や将に昇天の気概あり。」
豊住和壽は、大正12年11月に熊本市古大工町に生まれ、済々黌に進んだ。
豊住の少年時代については母親のシズの回想記が残っている。少し長くなるが当時の済々健児の姿が良く偲ばれるので紹介する。
「小学校も高学年になったころは、何としても陸士、海兵への進学率の多い済々黌に入るんだと、口ぐせのように申しておりましたが、六年生になると、ひとの二倍も三倍も勉強するようになりました。担任の吉岡先生に励まされ、級友と遅くまで教室に残って勉強し、さらに夜は夜で、二キロほど離れた水道町の従兄の家に行って、眠い目をこすりながら、受験前夜まで頑張りぬきました。終るのが毎夜十一時ごろ。電車の便もないところで、一人では帰りが淋しかろうと、私は毎晩歩いて迎えにゆき、肩を並べて戻ってまいりました。そんな一途な姿を見ていると、ほんとうにいじらしくて、いじらしくて、「どうぞこの願いをかなえてやって下さいまし」と、神仏に毎朝毎晩手を合わせ続けたことでした。合格発表の当日、〝首尾良く合格〟の電話連絡をうけた和寿は、受話器を置くなり、「やったぞ!」とばかり両手を二、三度高く振り上げて、文字通り欣喜雀躍いたしました。子供ながら、つぶさに苦しみを味わった後の、満ち足りた誇らしげな勝利者の顔、あの晴ればれとした表情は、いまも私の眼底に焼きついて離れません。」
「四キロほどもある通学は、徒歩で通しました。たまに朝遅くなると、「走っていけ」と、父親にどなられます。甘い母親の私は、「それではつらかろう」と、かげでこっそり電車賃を渡してやったこともありました。学校恒例の兎狩りの日には、遠くから通学している友だちが、前夜から宅に泊りこんで、まだ明けきらぬ空の星を仰ぎながら、みんな大張り切りで出かけて行きました。元来、無口な方でしたけれど、案外、友だち付き合いはよいらしく、何かといえば、よく友だちが訪ねてくれて、二階で話したり、一緒に勉強したりしておりました。それが私はうれしくて、妹たちと代わるがわる果物やお菓子などを、いそいそと運んだことでした。中学二年、三年と上がるにつれて、陸士、海兵、幼年学校など軍関係の学校にパスした人たちの送別会が続き、和寿も「今度はぼくの番だ」と、いよいよ受験準備にカコブを入れてゆきましたが、父親からも「お前も早く送られるように頑張れ」と励まされ、海兵、陸士に的を絞って猛勉強をはじめました。
当時すでに日支事変が起こっていて、日本軍の勝利が続々と報ぜられ、町中は旗行列、提灯行列の連続で、兵隊さん万々歳です。和寿も友だちも集まればその話で、「何が何んでも軍人にならねば……」という覚悟を、いよいよ高めて行ったようでした。昼間は学校の軍事教練で教官に鍛え上げられ、ヘトヘトになって家に帰ってからも、文句一つ言わずに時々は店の集金や配達を手伝い、そのあと睡魔と闘いながらの受験勉強で、傍で見ている私が切ないほどの肉体酷使ぶりでした。いよいよ海兵入試、運を念じて帰りを待ちました。少し遅すぎると、みなで心配しているところに帰ってまいりましたが、「残念ながら、目がいけなかった。それで海軍機関学校に行けと勧められたので、試験を受けてきた」とのこと。本人が望むなら、それでもけっこうと、よい知らせを待つことになりました。
昭和十五年十一月三日めでたく海機合格の電報を受け取り、親子みんなで喜び合ったことです。小学校から中学、そして中学五年半ばで、やっと希望が叶えられました。これはひとえに本人の努力の賜でしたが、その後ろに、父親のつねに厳しい愛の鞭,友だち同志の励まし合いのあったことを忘れるわけにはまいりません。いつも集まって『夢』を語り合っていた人たちも、それぞれ陸士、海兵へと望みを果たして進んで行かれました。十一月二十五日、機関学校入校の前にわが家へお招きし、心ばかりの送別会を催しましたが、皆んなハチ切れるような元気はつらつぶりで、たいへん楽しく賑やかに一夜を過ごしていただきました。今にして思えば、これが皆さんとの『最後の宴』だったわけです。」
豊住は、15年11月27日に、舞鶴の海軍機関学校(第53期生)に入校した。海軍機関学校は、日本海軍の機関科に属する士官を養成する為に設置された軍学校で、機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計等メカニズムに関わるあらゆる事象の研究・教育を推進した。
機関学校同期の橋元一郎は豊住の人柄について「熊本済々黌出身の彼は、いつも自然体で無愛想にみえたがなんとなく心がとけあえるような雰囲気をもっていた。三号になって彼と同分隊(4分隊)になった。彼は無口ではあるが気性は強く頑張りやで体育訓練などにも十分にそれを発揮していた。そして親密度は深まり語らなくても分かり合えるような、一緒に居るだけで心が休まるような男であった。」と述べている。
18年9月に海軍機関学校を卒業し、少尉候補生として重巡洋艦「熊野」に配属された。その後、潜水艦乗組員を養成する第11期海軍潜水学校普通科学生となり、19年9月前には卒業している。9月の1日には広島県徳山市(現周南市)の大津島に人間魚雷「回天」基地が開設されている。「回天」とは頼山陽『日本外史』巻之五「新田氏前期 楠氏」の中にある「天日を既に堕(お)つるに回(かえ)す」に由来し、「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味が込められて命名された。回天は海中深く潜んだ潜水艦から発射され、一撃で空母をも撃沈させる威力を持っていた。それ故、米海軍は「回天」を最も恐怖した。「回天」は現場の海軍士官二人によって考案され、海軍省は中々認可しなかったが、戦局打開の秘密兵器として採用した。
11月3日に帰省した豊住は、既に永訣を覚悟していた。11月8日、第1次玄作戦菊水隊(最初の回天出撃)として、伊36潜水艦で内地を出発しウルシー泊地(西太平洋カロリン諸島東北端、ヤップ島の約100㎞東北東)攻撃に向った。出撃前に豊住は後掲の「遺書」を認め、遺品を済々黌後輩の八木中尉に依頼して故郷に送った。だが、伊36潜搭載の回天4基のうち3基は故障のため発進できず、豊住は11月29日呉に帰投した。12月初めに橋元と再会した豊住は、橋元の「出撃するときの思いはどうであったか」との問いに対して、言葉少なに「故国は美しかった。この国を護らねばならないと思った」と答えたと言う。
19年末、最新鋭の潜水艦6隻で敵の前進拠点五か所を奇襲する計画が立てられ、、回天特別攻撃隊金剛隊が編成され、豊住中尉はその一員に選ばれた。20年1月9日、豊住中尉は伊四十八潜水艦に乗組み、大津島を出撃、再び敵のウルシ―泊地に向かい、1月21日突入して戦死を遂げた。22歳だった。
【遺書】
拝啓 寒冷相催す候と相成候処、父上には益御壮健の事と拝察仕居候。先日は亦御手紙を戴き感謝に不堪候。不肖私儀元気益旺盛訓練に励み居候間何卒御放念被下度候。
今や決戦の秋来りて皇国の興廃将に此の一戦に有之候。男と生れて二十有二年、皇国の興廃を担って此の聖戦に参加し、皇恩の万分の一にも報い奉り得るは、男子の本懐之に過ぐるものなし。我々肥後男子の血には勤皇菊池氏の忠節の誠流れ、千本槍の意気や将に昇天の気概あり。皇国護持の道、唯我々青年の肉弾突撃にあり。されば我等の責務や重大にして、愈以て尽忠報国の念を堅くする次第に御座候。牛島(28の牛島維一)戦死し、入江中尉、合志、坂梨戦死せらるるやも知れずと聞き、誠に残念至極に御座候。彼等の戦死公表になりますれば、何卒彼等の霊前に、豊住は、仇は必ず討つと出て征ったと御伝へ被下度御願中上候。
寿子も女子挺身隊員として毎日働き居るとの由、益御指導鞭撻あらんことを切に願上候。和史も愈いたずら盛で元気旺盛の事と存候。兄として弟に何等成す事もなく誠に申訳なきも、弟の教育には私の最も御頼み申上げおく次第に御座候。今日まで私の帯せし軍刀一振、和史に譲り渡す事に決心致したる次第に御座候。尚、国の大事に際しては何卒御使用相成度、和史成年の暁には小生の魂と共に出陣せんことを、今より祈り居る次第に御座候。親類の方にも手紙出すべき処その暇も無之、何卒宜しく御伝へ下さるべく願上候。舞鶴の佐藤大佐にはくれぐれも宜しく御伝言を御頼み申上候。 牛島様、井上様、川添様、其の他御世話になりし五福校、済々黌の諸先生には厚く御礼申上候。最後に、
天皇陛下の萬歳を三唱し、敵撃滅に征く。
父上始め皆様の御健康を祈りつつ
昭和十九年十一月八日 海軍中尉 豊住和壽
父上様
豊住 和壽(とよずみ かずとし)S16卒
「我々肥後男子の血には勤皇菊池氏の忠節の誠流れ、千本槍の意気や将に昇天の気概あり。」
豊住和壽は、大正12年11月に熊本市古大工町に生まれ、済々黌に進んだ。
豊住の少年時代については母親のシズの回想記が残っている。少し長くなるが当時の済々健児の姿が良く偲ばれるので紹介する。
「小学校も高学年になったころは、何としても陸士、海兵への進学率の多い済々黌に入るんだと、口ぐせのように申しておりましたが、六年生になると、ひとの二倍も三倍も勉強するようになりました。担任の吉岡先生に励まされ、級友と遅くまで教室に残って勉強し、さらに夜は夜で、二キロほど離れた水道町の従兄の家に行って、眠い目をこすりながら、受験前夜まで頑張りぬきました。終るのが毎夜十一時ごろ。電車の便もないところで、一人では帰りが淋しかろうと、私は毎晩歩いて迎えにゆき、肩を並べて戻ってまいりました。そんな一途な姿を見ていると、ほんとうにいじらしくて、いじらしくて、「どうぞこの願いをかなえてやって下さいまし」と、神仏に毎朝毎晩手を合わせ続けたことでした。合格発表の当日、〝首尾良く合格〟の電話連絡をうけた和寿は、受話器を置くなり、「やったぞ!」とばかり両手を二、三度高く振り上げて、文字通り欣喜雀躍いたしました。子供ながら、つぶさに苦しみを味わった後の、満ち足りた誇らしげな勝利者の顔、あの晴ればれとした表情は、いまも私の眼底に焼きついて離れません。」
「四キロほどもある通学は、徒歩で通しました。たまに朝遅くなると、「走っていけ」と、父親にどなられます。甘い母親の私は、「それではつらかろう」と、かげでこっそり電車賃を渡してやったこともありました。学校恒例の兎狩りの日には、遠くから通学している友だちが、前夜から宅に泊りこんで、まだ明けきらぬ空の星を仰ぎながら、みんな大張り切りで出かけて行きました。元来、無口な方でしたけれど、案外、友だち付き合いはよいらしく、何かといえば、よく友だちが訪ねてくれて、二階で話したり、一緒に勉強したりしておりました。それが私はうれしくて、妹たちと代わるがわる果物やお菓子などを、いそいそと運んだことでした。中学二年、三年と上がるにつれて、陸士、海兵、幼年学校など軍関係の学校にパスした人たちの送別会が続き、和寿も「今度はぼくの番だ」と、いよいよ受験準備にカコブを入れてゆきましたが、父親からも「お前も早く送られるように頑張れ」と励まされ、海兵、陸士に的を絞って猛勉強をはじめました。
当時すでに日支事変が起こっていて、日本軍の勝利が続々と報ぜられ、町中は旗行列、提灯行列の連続で、兵隊さん万々歳です。和寿も友だちも集まればその話で、「何が何んでも軍人にならねば……」という覚悟を、いよいよ高めて行ったようでした。昼間は学校の軍事教練で教官に鍛え上げられ、ヘトヘトになって家に帰ってからも、文句一つ言わずに時々は店の集金や配達を手伝い、そのあと睡魔と闘いながらの受験勉強で、傍で見ている私が切ないほどの肉体酷使ぶりでした。いよいよ海兵入試、運を念じて帰りを待ちました。少し遅すぎると、みなで心配しているところに帰ってまいりましたが、「残念ながら、目がいけなかった。それで海軍機関学校に行けと勧められたので、試験を受けてきた」とのこと。本人が望むなら、それでもけっこうと、よい知らせを待つことになりました。
昭和十五年十一月三日めでたく海機合格の電報を受け取り、親子みんなで喜び合ったことです。小学校から中学、そして中学五年半ばで、やっと希望が叶えられました。これはひとえに本人の努力の賜でしたが、その後ろに、父親のつねに厳しい愛の鞭,友だち同志の励まし合いのあったことを忘れるわけにはまいりません。いつも集まって『夢』を語り合っていた人たちも、それぞれ陸士、海兵へと望みを果たして進んで行かれました。十一月二十五日、機関学校入校の前にわが家へお招きし、心ばかりの送別会を催しましたが、皆んなハチ切れるような元気はつらつぶりで、たいへん楽しく賑やかに一夜を過ごしていただきました。今にして思えば、これが皆さんとの『最後の宴』だったわけです。」
豊住は、15年11月27日に、舞鶴の海軍機関学校(第53期生)に入校した。海軍機関学校は、日本海軍の機関科に属する士官を養成する為に設置された軍学校で、機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計等メカニズムに関わるあらゆる事象の研究・教育を推進した。
機関学校同期の橋元一郎は豊住の人柄について「熊本済々黌出身の彼は、いつも自然体で無愛想にみえたがなんとなく心がとけあえるような雰囲気をもっていた。三号になって彼と同分隊(4分隊)になった。彼は無口ではあるが気性は強く頑張りやで体育訓練などにも十分にそれを発揮していた。そして親密度は深まり語らなくても分かり合えるような、一緒に居るだけで心が休まるような男であった。」と述べている。
18年9月に海軍機関学校を卒業し、少尉候補生として重巡洋艦「熊野」に配属された。その後、潜水艦乗組員を養成する第11期海軍潜水学校普通科学生となり、19年9月前には卒業している。9月の1日には広島県徳山市(現周南市)の大津島に人間魚雷「回天」基地が開設されている。「回天」とは頼山陽『日本外史』巻之五「新田氏前期 楠氏」の中にある「天日を既に堕(お)つるに回(かえ)す」に由来し、「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」という意味が込められて命名された。回天は海中深く潜んだ潜水艦から発射され、一撃で空母をも撃沈させる威力を持っていた。それ故、米海軍は「回天」を最も恐怖した。「回天」は現場の海軍士官二人によって考案され、海軍省は中々認可しなかったが、戦局打開の秘密兵器として採用した。
11月3日に帰省した豊住は、既に永訣を覚悟していた。11月8日、第1次玄作戦菊水隊(最初の回天出撃)として、伊36潜水艦で内地を出発しウルシー泊地(西太平洋カロリン諸島東北端、ヤップ島の約100㎞東北東)攻撃に向った。出撃前に豊住は後掲の「遺書」を認め、遺品を済々黌後輩の八木中尉に依頼して故郷に送った。だが、伊36潜搭載の回天4基のうち3基は故障のため発進できず、豊住は11月29日呉に帰投した。12月初めに橋元と再会した豊住は、橋元の「出撃するときの思いはどうであったか」との問いに対して、言葉少なに「故国は美しかった。この国を護らねばならないと思った」と答えたと言う。
19年末、最新鋭の潜水艦6隻で敵の前進拠点五か所を奇襲する計画が立てられ、、回天特別攻撃隊金剛隊が編成され、豊住中尉はその一員に選ばれた。20年1月9日、豊住中尉は伊四十八潜水艦に乗組み、大津島を出撃、再び敵のウルシ―泊地に向かい、1月21日突入して戦死を遂げた。22歳だった。
【遺書】
拝啓 寒冷相催す候と相成候処、父上には益御壮健の事と拝察仕居候。先日は亦御手紙を戴き感謝に不堪候。不肖私儀元気益旺盛訓練に励み居候間何卒御放念被下度候。
今や決戦の秋来りて皇国の興廃将に此の一戦に有之候。男と生れて二十有二年、皇国の興廃を担って此の聖戦に参加し、皇恩の万分の一にも報い奉り得るは、男子の本懐之に過ぐるものなし。我々肥後男子の血には勤皇菊池氏の忠節の誠流れ、千本槍の意気や将に昇天の気概あり。皇国護持の道、唯我々青年の肉弾突撃にあり。されば我等の責務や重大にして、愈以て尽忠報国の念を堅くする次第に御座候。牛島(28の牛島維一)戦死し、入江中尉、合志、坂梨戦死せらるるやも知れずと聞き、誠に残念至極に御座候。彼等の戦死公表になりますれば、何卒彼等の霊前に、豊住は、仇は必ず討つと出て征ったと御伝へ被下度御願中上候。
寿子も女子挺身隊員として毎日働き居るとの由、益御指導鞭撻あらんことを切に願上候。和史も愈いたずら盛で元気旺盛の事と存候。兄として弟に何等成す事もなく誠に申訳なきも、弟の教育には私の最も御頼み申上げおく次第に御座候。今日まで私の帯せし軍刀一振、和史に譲り渡す事に決心致したる次第に御座候。尚、国の大事に際しては何卒御使用相成度、和史成年の暁には小生の魂と共に出陣せんことを、今より祈り居る次第に御座候。親類の方にも手紙出すべき処その暇も無之、何卒宜しく御伝へ下さるべく願上候。舞鶴の佐藤大佐にはくれぐれも宜しく御伝言を御頼み申上候。 牛島様、井上様、川添様、其の他御世話になりし五福校、済々黌の諸先生には厚く御礼申上候。最後に、
天皇陛下の萬歳を三唱し、敵撃滅に征く。
父上始め皆様の御健康を祈りつつ
昭和十九年十一月八日 海軍中尉 豊住和壽
父上様
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