「道の学問・心の学問」第十回(令和2年7月24日)
中江藤樹に学ぶ⑦
心裏面に常住不息の良知の主人公御座候。此君に御対面成され工夫御勤め候はば、いつとなく浮気の除き申す可く候
(中江藤樹「國領太に答ふ」)
藤樹は独学での求道実践の中、三十三歳の時に陽明学と出会う。繙いた『性理会通』の中に王陽明語録が十五篇含まれており、心魅かれた。更に王陽明の弟子である王龍渓の『語録』を読んで、「長年の疑問がいくつも氷解した」と述べている。そして亡くなる四年前、三十七歳の時に『陽明全書』を入手して歓喜し、愈々藤樹の学問は最終の高みへと進んで行く。
王陽明は『孟子』尽心章上に出て来る「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり。」の「良知」に着眼して、儒学の神髄を「致良知(良知を致す)」の三文字で表した。万人に備わる「良知」こそが、人間を本来の正しい姿に導く万能智である事を強調し、その声に従う生活を行い日々行動する事が真の幸福とした。
藤樹も、心の主人公である「良知」を確と体認する事を弟子たちに説いている。ここで紹介している書簡では、「志がうわの空で自反慎独の修養が成り難い」との疑義に対して「心の奥に常住止む事のない『良知』という主人公が住んでいる事を思い、この君に対面する工夫を重ねるならば、そのうちに心が浮つく様な事は無くなるでしょう。日頃からその工夫を継続すれば、やがてその主人(=良知)と御対面する事が出来ます。心の主人公と御対面してからは、万事の転倒は除き易くなるでしょう。能く能く御体認下さい。」と述べている。
「岡村子に答ふ」では、「現在の心の奥に、常住易らざる天君が泰然として居られる事を信じ」「其の心に適う事を入口として、本心の居られる堂に昇り、天君(良知)にお目見えしなさい。お目見えの後は一言一動皆この君の下知に従う様に工夫を勤めるならば、いつしか浮ついた気も沈み、あわただしい心も静かになり、万事の転倒も日々に能く弁える様になる」と、心の奥に泰然と住んでいる「天君」=「良知」に従って生きる事を教え諭している。
要は、自分の心の奥に良知と言う主人公・天君が確実に存在すると信じ得るか否かが、全ての学問の前提なのである。それを信じて、良知と出会う事、自らの内に体認する事が出来たなら、真の学問の道を歩み始めたと言えるのだ。それ故、藤樹は「致良知」を「良知に致る(至る)」と読み、先ずは自らの奥に存する「良知」の発見を勧めた。「良知」を確と体認出来たなら、後はその指示に従って倦む事無く、真直ぐに生きて行けば良いのである。
中江藤樹に学ぶ⑦
心裏面に常住不息の良知の主人公御座候。此君に御対面成され工夫御勤め候はば、いつとなく浮気の除き申す可く候
(中江藤樹「國領太に答ふ」)
藤樹は独学での求道実践の中、三十三歳の時に陽明学と出会う。繙いた『性理会通』の中に王陽明語録が十五篇含まれており、心魅かれた。更に王陽明の弟子である王龍渓の『語録』を読んで、「長年の疑問がいくつも氷解した」と述べている。そして亡くなる四年前、三十七歳の時に『陽明全書』を入手して歓喜し、愈々藤樹の学問は最終の高みへと進んで行く。
王陽明は『孟子』尽心章上に出て来る「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり。」の「良知」に着眼して、儒学の神髄を「致良知(良知を致す)」の三文字で表した。万人に備わる「良知」こそが、人間を本来の正しい姿に導く万能智である事を強調し、その声に従う生活を行い日々行動する事が真の幸福とした。
藤樹も、心の主人公である「良知」を確と体認する事を弟子たちに説いている。ここで紹介している書簡では、「志がうわの空で自反慎独の修養が成り難い」との疑義に対して「心の奥に常住止む事のない『良知』という主人公が住んでいる事を思い、この君に対面する工夫を重ねるならば、そのうちに心が浮つく様な事は無くなるでしょう。日頃からその工夫を継続すれば、やがてその主人(=良知)と御対面する事が出来ます。心の主人公と御対面してからは、万事の転倒は除き易くなるでしょう。能く能く御体認下さい。」と述べている。
「岡村子に答ふ」では、「現在の心の奥に、常住易らざる天君が泰然として居られる事を信じ」「其の心に適う事を入口として、本心の居られる堂に昇り、天君(良知)にお目見えしなさい。お目見えの後は一言一動皆この君の下知に従う様に工夫を勤めるならば、いつしか浮ついた気も沈み、あわただしい心も静かになり、万事の転倒も日々に能く弁える様になる」と、心の奥に泰然と住んでいる「天君」=「良知」に従って生きる事を教え諭している。
要は、自分の心の奥に良知と言う主人公・天君が確実に存在すると信じ得るか否かが、全ての学問の前提なのである。それを信じて、良知と出会う事、自らの内に体認する事が出来たなら、真の学問の道を歩み始めたと言えるのだ。それ故、藤樹は「致良知」を「良知に致る(至る)」と読み、先ずは自らの奥に存する「良知」の発見を勧めた。「良知」を確と体認出来たなら、後はその指示に従って倦む事無く、真直ぐに生きて行けば良いのである。
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