「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知」の言葉 第19回 「問ふ君何事か日に憧憧(しょうしょう)たる」

2023-08-15 14:36:25 | 「良知」の言葉
第19回(令和5年8月15日)
「問ふ君何事か日に憧憧(しょうしょう)たる」 (『王陽明全集』第6巻「詩」「居越詩 良知を詠ず。4首。諸生に示す。」)

 前回紹介した「詠良知四首示諸生」の中の詩の2首目を今回は紹介する。

問君何事日憧憧    問(と)ふ君(きみ) 何事(なにごと)か日(ひ)に憧々(しょうしょう)たる
煩悩場中錯用功    煩悩場中(ぼんのうじょうちゅう) 用功(ようこう)を錯(あやま)
莫道聖門無口訣    道(い)ふ莫(なか)れ聖門(せいもん)に口訣(こうけつ)なしと
良知両字是参同    良知(りょうち)の両字(りょうじ)はこれ参(さん)(どう)


【意訳】(菅原兵治『王陽明の詩』より)
「一体君は、どうして毎日毎日、落ち着かずにそわそわしているのか。恐らくそれは、煩悩の迷いの世界の中で、錯(あやま)った生き方をしているからであろう。というと、儒教には、仏教の如く端的に第一義を示す口訣(秘伝)がないからだ、などというかも知れぬが、そんなことはいうものではない、「良知」の二字がそのまま、仏教の示す「参同契(さんどうかい)」に匹敵すべきものである。」(※「参同契」とは、唐の石頭希遷禅師の著書で、禅宗の学問の基礎となったもので、現象即実在の理を端的に述べたものだという。)
 
 この詩で王陽明は冒頭の起句で「問ふ君何事か日に憧憧たる」と投げかけている。「どうして毎日毎日、落ち着かずにそわそわしているのか」と。私達自身、日々の自分の生活を振り返って、「憧憧たる」=落ち着かずにそわそわしている事がありはしないだろうか。日々「肚が据わって」生きているだろうか。

 人の心は「瞳」に表れると言ったのは孟子だが、目をしかと見据えて生きているだろうか。不安は恐怖を生み、落ち着きが失われると、目がうつろになって始終キョロキョロする様になる。心に邪心が無ければ、向き合う相手を正面から見つめる事が出来る。

 承句で、落ち着きが無いのは、煩悩の世界の中で誤った生き方をしているからだ、と落ち着きの無さの理由を指摘している。様々な煩悩、功名利得に引き摺られて自分を失っているのではないか。それ故に、腰が据わらないのだと。

 そこで、転句と結句で、仏教の言う「第一義」に匹敵するものが「良知」なのだと断言している。自分の中の良知を信じて、その事だけを人生の第一義に据えたなら、不動の生き方が出来る様になり、肚の据わった生き方を貫ける様になる。それが「良知」に生きる、即ち「致良知」の生き方なのである。

 陽明学を学び自らのものとした者には、恐れが消滅する。そして、良知に基づく不動の信念を貫く生涯を送る様になる。中江藤樹、大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛など皆そうである。人生は長い様で短い、限られた人生を生き切る為には、心に内在する「良知」の声に只管従って、外欲に惑わされない事である。その様な生き方から、人生を一貫する自分らしさ=個性が生まれて来る。

 毎日、毎日、自分は「憧憧」としていないかどうか、問いかけて生きて行きたい。


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