「武士道の言葉」第四十一回 敗戦の責任を果した将兵 その1(『祖国と青年』27年12月号掲載)
敗戦の責
一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル(陸軍大臣 阿南惟幾)
昭和二十年八月十五日、国家の総力を尽して戦い抜いた大東亜戦争は、昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言を受諾し終結した。国家未曽有の敗戦である。
首都ベルリンが陥落したドイツと違い、当時の日本は沖縄を失ったものの、昭和十九年末から準備した二千八百万名に及ぶ「国民義勇隊」を組織化し、更に「国民義勇戦闘隊」の編成に着手していた(藤田昌雄『日本本土決戦』潮書房光人社)。本気で「一億総玉砕」・徹底抗戦を準備していたのである。更には、支那大陸では連戦連勝していた百五万人の支那派遣軍が健在だった。岡村寧次総司令官は八月十一日に「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」との電文を中央に送っている。
これらの戦力を背景に阿南陸軍大臣は、御前会議に於て徹底抗戦を主張した。だが昭和天皇は、これ以上の犠牲を見るにしのびない、自分の身はどうなろうとも国民を救いたいとの大御心を示され、終戦の御聖断が下された。かつて侍従武官を務めた事もある阿南陸相は陛下にとりすがって号泣したが、陛下も涙を流しながら「阿南、阿南、お前の気持は良く解る」と仰せになった。御聖断の後に閣議が開かれ、国家としての終戦が決定する。阿南陸相は署名し花押を認めた。
これからが、阿南陸相の本領発揮である。徹底抗戦を主張する陸軍の急進派の前に立ち塞がって陛下の御意志である終戦を実現せねばならない。阿南陸相・梅津参謀総長連名で告諭を発し、省内の将校を集めて決意を述べ、「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」と付け加えた。そして、八月十四日深夜、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を認め割腹自決した。遺書の裏には「神州不滅ヲ確信シツゝ」と付け加えてあった。
特攻隊勇士への責任
特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。 (海軍中将 大西瀧治郎)
特攻隊の生みの親である大西瀧治郎海軍中将は、特攻隊を送り出す度に胸を痛め、自らも必ず後に続く事を心に誓っていた。終戦が決まった八月十五日の深夜二時頃、官邸にて割腹自決、腹を十文字にかき切り、返す刀で頸と胸と刺した。それでも数時間は生きており、翌朝発見され駆け付けた軍医に「生きるようにはしてくれるな」と述べたと言う。絶命したのは十時頃だった。
遺書は五通あったといわれているが判然とはしていない。その中で明らかになっているのが次の遺書である。
「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するを誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ。諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎 」
欄外に「八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す。総長閣下にお詫び申し上げられたし。別紙遺書青年将兵指導 上の一助とならばご利用ありたし
以上」と記されていた。
更に奥様の淑恵さんに宛てた遺書。
「淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す。淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな
」
奥様宛の遺書は丸みを帯びた優しい文字で綴られていた。
日本学生協会出身将校の自決
魂魄トコシヘニ祖國ニ留メテ玉體ヲ守護シ奉ラム(海軍少尉 寺尾博之)
福岡市の郊外にある油山の油山観音から少し登った奥まった所に、終戦後自決した二人の海軍軍人の顕彰碑が建立されている。建立されたのは昭和三十三年八月二十日、爾来この碑の前で国民文化研究会の方々によって慰霊祭が執り行われて来ている。自刃した二人は、長島秀男中佐と寺尾博之少尉である。寺尾少尉は高校在学時より、国民文化研究会の前身たる日本学生協会の学風改革運動に挺身され、全国各地の高校・専門学校巡回のメンバーとしても活躍されていた。
私はかつて、故名越二荒之助先生から戴いた葉書に「多久さんの文章に触れ、その行動、発言、文章に触れる度に想起するのは国文研の前身、学生協会時代の寺尾博之さん(いのちささげて前篇)です。多久さんには寺尾さんの魂がのり移ったのではないか。輪廻転生を信ずるようになりました。寺尾さんは小生より二歳年長で仰ぎ見る存在でした。終戦後の油山で長島中佐の介錯をし、自らは腹十文字に突いて自決しました。彼の生前のさわやかで謙虚、そして透徹した雄弁、論文の見事さ、多久さんとダブって仕方ありません。御健闘祈上つゝ」(平成十八年三月十七日)とあり、寺尾少尉の事が深く思われてならない。顕彰碑の碑文。
「昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔下るや、九州軍需管理部に所属せる海軍技術中佐 長島秀男、海軍少尉 寺尾博之は8月20日未明、この地において遥かに皇居を拝し古式にのっとりて割腹自刃せり。
長島秀男中佐は埼玉県秩父郡横瀬村出身、東京文理科大額を卒業、昭和12年身を海軍に投じ技術部門における改良に尽力航空魚雷の研究においては当代の第一人者たりき、行年39歳、遺書に曰う
唯二、上御一人の御心を悩まし奉り候のみならず、一億国民を難苦の底に沈ませ候事誠に申し訳無之、所詮死を以って
お詫び申すべき次第に候
寺尾博之少尉は京都市出身 旧制高知高等学校より東京帝国大学農学部に進みしが、高校在学時よりわが国の思想伝統を仰ぐ事深切、全国の学生有志と共に学風の改革に挺身せり、
昭和18年12月学徒出陣、海軍に入る、行年25歳、遺書に曰く
一死以て臣が罪を謝し奉り 併せて帝国軍人たるの栄誉を保たんとす 願わくは魂魄とこしえに 祖国に留めて 玉体を守護し奉らむ
両烈士の純真、至誠、温容なほここに在りて我等を先導し給うごとし、ここに有志一同 その志を仰ぎ祖国日本の恒久を願ひて之を建つ
長島 寺尾両烈士顕彰会」
父の上官の自決
故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ (松浦勉海軍大佐の訓示)
私の父は、終戦六十年の平成十七年十一月に亡くなった。その時皆さんから戴いた香典の一部を、父が最期まで気に止めていた靖国神社に寄付を申し出た。その時、神社側から何方かの永代供養をされたら如何ですかとの有り難いアドバイスを戴いた。そこで、昭和二十年八月二十八日に自決して亡くなられた松浦勉海軍少佐の事が思はれて永代供養させて戴いた。松浦少佐は父の上官だった。
父は、熊本師範学校から学徒出陣し、第十五期海軍飛行予備学生になった。土浦航空隊で訓練に励んだが、土浦が空襲を受けた後は福井県に移動し、九頭竜川河口グライダーによる特攻訓練をしていた。学生達は丁度二十歳前後であり、血気盛んだったという。敗戦が決まるや、学生達はマッカーサーの本土上陸時の斬り込みを志願していたという。その時、上官の松浦少佐が、「終戦の大詔が降った以上、お前達は陛下の大御心に従って、祖国の為に力を尽くさねばならない。各自、故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ。」
と諭されたと言う。
松浦少佐は当時三十歳前後であるが、学生達は心の底から心服していた。それ故、父は泣く泣く熊本に戻り、熊本の教育界で人づくりに尽力した。所が、松浦少佐は学生達を送り出した後、米占領軍先遣隊が厚木に進駐した八月二十八日に、福井県坂井郡芦原町(現あわら市)の水交社で自刃された。予備学生達の思いを一身に担って敗戦の責をとられたのである。
私は、永い間この事実を知らなかったが、大学生になって祖国再建運動に尽力する様になってから父は当時の事を話す様になった。それでも、少佐の事は父が教え子の方に話したのを横で聞いたのが初めてである。
昭和六十一年に福井県に行く機会が有り、その時芦原町を訪れ、父が訓練していた海岸や街を訪ねた。その時に逢った方が、昭和二十年頃は海軍の学生さん達が一杯居ましたとの話をして下さり。松浦少佐の事を述べると、何と御存知で、松浦少佐が下宿されていた部屋に案内して戴いた。松浦少佐の御魂が導いて下さったのであろう。そして、水交社跡も訪れ祈りを捧げた。だが、慰霊碑も何も残ってはいなかった。『世紀の自決』には、遺影と奥様が記された事実関係のみの短い文章が掲載されているだけである。少佐は岡山県笠岡市大宜の御出身とある。父達を教え諭した松浦少佐が居られたが故に、今の私もある。
敗戦の責
一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル(陸軍大臣 阿南惟幾)
昭和二十年八月十五日、国家の総力を尽して戦い抜いた大東亜戦争は、昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言を受諾し終結した。国家未曽有の敗戦である。
首都ベルリンが陥落したドイツと違い、当時の日本は沖縄を失ったものの、昭和十九年末から準備した二千八百万名に及ぶ「国民義勇隊」を組織化し、更に「国民義勇戦闘隊」の編成に着手していた(藤田昌雄『日本本土決戦』潮書房光人社)。本気で「一億総玉砕」・徹底抗戦を準備していたのである。更には、支那大陸では連戦連勝していた百五万人の支那派遣軍が健在だった。岡村寧次総司令官は八月十一日に「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」との電文を中央に送っている。
これらの戦力を背景に阿南陸軍大臣は、御前会議に於て徹底抗戦を主張した。だが昭和天皇は、これ以上の犠牲を見るにしのびない、自分の身はどうなろうとも国民を救いたいとの大御心を示され、終戦の御聖断が下された。かつて侍従武官を務めた事もある阿南陸相は陛下にとりすがって号泣したが、陛下も涙を流しながら「阿南、阿南、お前の気持は良く解る」と仰せになった。御聖断の後に閣議が開かれ、国家としての終戦が決定する。阿南陸相は署名し花押を認めた。
これからが、阿南陸相の本領発揮である。徹底抗戦を主張する陸軍の急進派の前に立ち塞がって陛下の御意志である終戦を実現せねばならない。阿南陸相・梅津参謀総長連名で告諭を発し、省内の将校を集めて決意を述べ、「不満に思う者は、まず阿南を斬れ」と付け加えた。そして、八月十四日深夜、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を認め割腹自決した。遺書の裏には「神州不滅ヲ確信シツゝ」と付け加えてあった。
特攻隊勇士への責任
特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。 (海軍中将 大西瀧治郎)
特攻隊の生みの親である大西瀧治郎海軍中将は、特攻隊を送り出す度に胸を痛め、自らも必ず後に続く事を心に誓っていた。終戦が決まった八月十五日の深夜二時頃、官邸にて割腹自決、腹を十文字にかき切り、返す刀で頸と胸と刺した。それでも数時間は生きており、翌朝発見され駆け付けた軍医に「生きるようにはしてくれるな」と述べたと言う。絶命したのは十時頃だった。
遺書は五通あったといわれているが判然とはしていない。その中で明らかになっているのが次の遺書である。
「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉彈として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り、自重忍苦するを誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ。諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為
最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎 」
欄外に「八月十六日
富岡海軍少将閣下 大西中将
御補佐に対し深謝す。総長閣下にお詫び申し上げられたし。別紙遺書青年将兵指導 上の一助とならばご利用ありたし
以上」と記されていた。
更に奥様の淑恵さんに宛てた遺書。
「淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す。淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな
」
奥様宛の遺書は丸みを帯びた優しい文字で綴られていた。
日本学生協会出身将校の自決
魂魄トコシヘニ祖國ニ留メテ玉體ヲ守護シ奉ラム(海軍少尉 寺尾博之)
福岡市の郊外にある油山の油山観音から少し登った奥まった所に、終戦後自決した二人の海軍軍人の顕彰碑が建立されている。建立されたのは昭和三十三年八月二十日、爾来この碑の前で国民文化研究会の方々によって慰霊祭が執り行われて来ている。自刃した二人は、長島秀男中佐と寺尾博之少尉である。寺尾少尉は高校在学時より、国民文化研究会の前身たる日本学生協会の学風改革運動に挺身され、全国各地の高校・専門学校巡回のメンバーとしても活躍されていた。
私はかつて、故名越二荒之助先生から戴いた葉書に「多久さんの文章に触れ、その行動、発言、文章に触れる度に想起するのは国文研の前身、学生協会時代の寺尾博之さん(いのちささげて前篇)です。多久さんには寺尾さんの魂がのり移ったのではないか。輪廻転生を信ずるようになりました。寺尾さんは小生より二歳年長で仰ぎ見る存在でした。終戦後の油山で長島中佐の介錯をし、自らは腹十文字に突いて自決しました。彼の生前のさわやかで謙虚、そして透徹した雄弁、論文の見事さ、多久さんとダブって仕方ありません。御健闘祈上つゝ」(平成十八年三月十七日)とあり、寺尾少尉の事が深く思われてならない。顕彰碑の碑文。
「昭和20年8月15日、大東亜戦争終戦の大詔下るや、九州軍需管理部に所属せる海軍技術中佐 長島秀男、海軍少尉 寺尾博之は8月20日未明、この地において遥かに皇居を拝し古式にのっとりて割腹自刃せり。
長島秀男中佐は埼玉県秩父郡横瀬村出身、東京文理科大額を卒業、昭和12年身を海軍に投じ技術部門における改良に尽力航空魚雷の研究においては当代の第一人者たりき、行年39歳、遺書に曰う
唯二、上御一人の御心を悩まし奉り候のみならず、一億国民を難苦の底に沈ませ候事誠に申し訳無之、所詮死を以って
お詫び申すべき次第に候
寺尾博之少尉は京都市出身 旧制高知高等学校より東京帝国大学農学部に進みしが、高校在学時よりわが国の思想伝統を仰ぐ事深切、全国の学生有志と共に学風の改革に挺身せり、
昭和18年12月学徒出陣、海軍に入る、行年25歳、遺書に曰く
一死以て臣が罪を謝し奉り 併せて帝国軍人たるの栄誉を保たんとす 願わくは魂魄とこしえに 祖国に留めて 玉体を守護し奉らむ
両烈士の純真、至誠、温容なほここに在りて我等を先導し給うごとし、ここに有志一同 その志を仰ぎ祖国日本の恒久を願ひて之を建つ
長島 寺尾両烈士顕彰会」
父の上官の自決
故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ (松浦勉海軍大佐の訓示)
私の父は、終戦六十年の平成十七年十一月に亡くなった。その時皆さんから戴いた香典の一部を、父が最期まで気に止めていた靖国神社に寄付を申し出た。その時、神社側から何方かの永代供養をされたら如何ですかとの有り難いアドバイスを戴いた。そこで、昭和二十年八月二十八日に自決して亡くなられた松浦勉海軍少佐の事が思はれて永代供養させて戴いた。松浦少佐は父の上官だった。
父は、熊本師範学校から学徒出陣し、第十五期海軍飛行予備学生になった。土浦航空隊で訓練に励んだが、土浦が空襲を受けた後は福井県に移動し、九頭竜川河口グライダーによる特攻訓練をしていた。学生達は丁度二十歳前後であり、血気盛んだったという。敗戦が決まるや、学生達はマッカーサーの本土上陸時の斬り込みを志願していたという。その時、上官の松浦少佐が、「終戦の大詔が降った以上、お前達は陛下の大御心に従って、祖国の為に力を尽くさねばならない。各自、故郷に戻り、皇国の再建に尽力せよ。」
と諭されたと言う。
松浦少佐は当時三十歳前後であるが、学生達は心の底から心服していた。それ故、父は泣く泣く熊本に戻り、熊本の教育界で人づくりに尽力した。所が、松浦少佐は学生達を送り出した後、米占領軍先遣隊が厚木に進駐した八月二十八日に、福井県坂井郡芦原町(現あわら市)の水交社で自刃された。予備学生達の思いを一身に担って敗戦の責をとられたのである。
私は、永い間この事実を知らなかったが、大学生になって祖国再建運動に尽力する様になってから父は当時の事を話す様になった。それでも、少佐の事は父が教え子の方に話したのを横で聞いたのが初めてである。
昭和六十一年に福井県に行く機会が有り、その時芦原町を訪れ、父が訓練していた海岸や街を訪ねた。その時に逢った方が、昭和二十年頃は海軍の学生さん達が一杯居ましたとの話をして下さり。松浦少佐の事を述べると、何と御存知で、松浦少佐が下宿されていた部屋に案内して戴いた。松浦少佐の御魂が導いて下さったのであろう。そして、水交社跡も訪れ祈りを捧げた。だが、慰霊碑も何も残ってはいなかった。『世紀の自決』には、遺影と奥様が記された事実関係のみの短い文章が掲載されているだけである。少佐は岡山県笠岡市大宜の御出身とある。父達を教え諭した松浦少佐が居られたが故に、今の私もある。