「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

上杉謙信②「其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能はざるも、夫は其者と予が天運に在らん。十二三歳の者なれば、父に党して逆心あるべからず。」

2020-09-08 11:31:52 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第十六回(令和2年9月8日)

上杉謙信に学ぶ②
其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能はざるも、夫は其者と予が天運に在らん。十二三歳の者なれば、父に党して逆心あるべからず。
                             (『定本 名将言行録』)

 TⅤ「日本歴史鑑定 信長と謙信はどちらが強かった」で、謙信の戦績は108戦64勝7敗37分で、負けない確率94%と紹介していた。謙信は川中島で武田信玄の本営に斬り込んだとの逸話がある様に、自ら先頭に立つ猛将だった。しかし、強いだけなら「名将」とは言われない。謙信に際立っているのは、敗者や弱者に対する仁愛の精神である。

 永禄四年(1561)の関東遠征の帰路、厩橋にて、謙信は長尾謙忠(かねただ)を四ヵ条の罪により手討にした。近郊に謙忠の十二・三歳の子供がその母と共に居た。家臣達が誅殺すべきではと進言するのに対し謙信は「其の子が成人してわしを狙い、父の怨みに報いる事が出来るか出来ないかは、この子とわしとの天の運命によるものである。十二・三歳の者故、父親に与して謀反した訳でもあるまい。」と述べて金子を与え飢寒の憂いを免れさせた。この恩に感じたのか、この者は後に景勝の時に忠義を尽し奮戦して亡くなっている。

 天正四年(1576)変心した中沢長兵衛を誅殺してその城を攻め落とした際、城を守っていた板持美濃守は自分の女童全てを始末したにも拘らず、長兵衛の妻と二十人ほどの女を庭の植込みに隠れさせて居た。謙信の手の者が女どもを生け捕りにして謙信の下に連れて来た。その時謙信は「板持美濃は知勇兼備の武将である。板持がこの女達だけを生かしておいたのには理由があろう。長兵衛は清和源氏の末流として天下に志を抱いていたので、自分の血統が絶える事は致し方ないと思っていたかもしれないが、板持がこの者達を生かしておいたのは、長兵衛の妻女はきっと懐妊しているのであろう。もし男児が生まれれば血統は続く事になろう。実に美濃のふるまいは義というべきである。その心を無にしてはならない。か弱い女の身、何の科があろうか。助けてどこか拠り所となる所迄送り届ける様に。」と述べた。

 今川氏真と北条氏康が結んで、敵である武田信玄の分国への塩の輸出を止めてしまった時に、謙信は信玄に手紙を送り、「これは卑怯の挙動と思う。弓矢を取って争う事が出来ないからであろう。私は幾度でもあなたとの勝敗を一戦によって決しようと思っているので、塩は私の国からお送りしましょう。」と告げて、信玄の分国である甲斐・信濃・上野に膨大な量の塩を運送した。この話は「敵に塩を送る」美談としてあまりにも有名である。

 『名将言行録』に記されているこれらの逸話は、「義」を重んじる謙信の真面目を表すものであり、戦国武士道の華として後世に語り継ぐべきものだと思う。

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