「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「良知」の言葉 第20回「良知は只だこれ一箇の天理の自然に明覚発見する処、只だこれ一箇の真誠惻怛、便ちこれ他の本体なり。」

2023-08-22 11:00:10 | 「良知」の言葉
第20回(令和5年8月22日)
「良知は只だこれ一箇の天理の自然に明覚発見する処、只だこれ一箇の真誠惻怛(しんせいそくだつ)、便ちこれ他(かれ)の本体なり。」(『伝習録』中巻「聶文尉に答ふ」二)

 大西晴隆氏は、『王陽明全集』第1巻の解説の中で「晩年の彼(王陽明)は良知を「真誠惻怛」「誠愛惻怛」「仁愛惻怛」などと規定し、(略)天地万物一体の仁、いわば神的衝動としての愛といってよいであろう。」と記している。

 「惻怛」とは「いたみ悲しむ」(『大漢語林』)の意味だが、『伝習録』の訳を記した溝口雄三氏はもっと深い意味で王陽明はこの語を使ったと次の様に註釈している。「人間の極限の心情でもあり、その点で普通の悲しみをこえる。ここで、陽明は、良知が、幸なり忠なりの感情の深奥の根源に、泉のほとばしりわくような発動としてあるといいたい、そのイメージをこの語に託し、さらにそれに「真誠」という形容詞まで冠した。人間がその本来的あり方において、やむにやまれずほとばしらせる真底ぎりぎりの心情、とでも訳すべきか。」

 この第二書は、王陽明が亡くなる一月位前に記されたものである。その意味で、王陽明が達した境地を示しているとも言えよう。「良知」は「天理」が自然と明らかに悟り発現したものであり、「真誠惻怛」こそがその本体なのである、と述べている。「真誠惻怛」を溝口氏は「まことのこころ」と、るび付けしている。自分の心の底から泉の様に湧き起こって来る、他者の痛みを自らのものと感じる事の出来る「万物一体の仁」の心でもある。幕末の陽明学者の山田方谷は「至誠惻怛」の言葉を使っている。その言葉も同じ意味である。

 「真誠惻怛」「誠愛惻怛」「仁愛惻怛」「至誠惻怛」と、「惻怛」につけられた形容詞は、人間の最高の境地を表す言葉ばかりである。

 「惻怛」、深い言葉である。私達が日常に於てその様な「いたみ悲しむ」深い心を持しているかどうか、自分を省みさせられる言葉だ。お釈迦様の「大慈悲」にも通じる境地だと思う。


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