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武谷敏子の自分史ノート

埼玉県比企郡嵐山町女性史アーカイブ

菅谷婦人会文化部の報告 1988年

2010-06-07 08:59:47 | 『しらうめ』9号(1988)

 六十二年(1987)度文化部最初の行事は料理教室、町の住民課にお願いし、明治乳業さんに東京より来ていただきました。
 六月十七日担当の方との打ち合わせ、七月七日当日はお暑い中四十三名の方々にご参加いただき、牛乳入り炊きこみ御飯、パンプキンスープ、ヨーグルトサラダ、オレンジゼリー等教えていただきました。
 次は昨年に引き続き手編み教室、九月二十九日にスタートし四回にわたり、中村先生にネックから編むセーターを教えていただきました。作品は十一月の文化祭に出品していただき又大変着やすいと喜んでいただけたようです。三度目は例年通り料理講習会。
 今年は町の保健課の計らいで成人病の予防食を栄養士の近江ちか子先生にお願いしました。二月二十五日、季節の材料を使ってのかき御飯、白菜ときくらげの甘酢炒め、鰯のかば焼き風等でした。二十六名の方にご参加いただきました。冷暖房の使えぬ調理室での講習会、会員の皆様ご協力ありがとうございました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


県外研修に参加して 菅谷二区・伊東ときゑ 1987年

2010-06-06 08:57:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 師走に入ったばかりというのに雪もようの十二月二日、比企郡地域婦人会連合会の研修に参加させていただきました。今年度は『群馬県内の食品加工場を視察し食生活の向上に資すると共に今後に於ける婦人会活動の一層の推進を期する』という趣旨のもとに「キリンビール高崎工場・キッコー食品群馬工場」を視察し水上温泉に一泊という日程で行われました。菅谷婦人会からの参加者六名は婦人会館前で他の地区の方々で既に満席に近いバスに乗り込みました。
 最初の見学「キリンビール高崎工場」では先づその構内の広さに驚きました。構内専用のバスで到着した一棟では、ベルトコンベアーの長い流れと共に歩を進めつつ、罐ビールとなる最終工程を見学した後、講堂で製造工程の詳細を伺いました。ビールのおいしい呑み方の実習でホンノリ上気した面々を乗せバスは更に北に向かい発車します。
 車中では、参加十団体の婦人会活動の報告が行われました。菅谷婦人会の婦人教育会館を介してのホームスティーの報告なども新しい活動として注目されました。
 渋川あたりで雪が舞い始め、あたりが雪景色に変わった頃、月夜野焼きの窯元に着きました。聞くところによると、この土は関越トンネルの工事で出土したものだそうで素朴さの中に個性ゆたかな花入れ、抹茶茶碗等高価な物からお湯呑み小皿等々お土産に買い求めたり、或いは観賞のみに止めたり、それぞれひと休みしている間にもますます激しくなった雪の中を水上に向け出発しました。
 寒いと思った水上の一夜は、恒例の各地区の皆さんによる余興に身も心も暖かく更けてゆきました。菅谷婦人会も宿に入るとすぐ練習を続けたダンスを披露し大喝采を浴びました。
 思い出深い一夜が明けた翌朝は抜けるような青空と雪化粧した山々……。凍てつく様な朝の空気の中を雪を踏んで駐車場まで歩いたほんの二、三分がとても印象的でした。出発したバスのガイドさんの指さす真白な谷川岳の「猫の耳」とか言われる稜線がクッキリ青空に映えていました。
 二日目の最初の見学工場「キッコー食品群馬工場」は、スーパーなどでお馴染みのデルモンテトマトジュース類の製造工場です。先づ原料となるトマトの生育課程とそれにたづさわる人々の登場する美しい映画を鑑賞の後、見学に移りました。水と空気のきれいなこの工場の製品はスーパーの同じ物より新鮮な感じがして売店で沢山買い込みふくらんだお土産を載せバスは次の“峰岸きのこ園”へ向かいました。水の温度の調節でビンの中に育つ“しめじ”をおいしく食べる秘訣は「水洗いをしないこと」だそうです。早速バター焼きを試食し、おいしさを実感しました。いよいよ帰途につくわけですが藪塚から三ヶ月村に入村、木枯し紋次郎の世界に浸り古き時代の雰囲気を満喫しました。
 二日間の県外研修で見学した工場はいずれも優秀な設備の工場なのでしょうが、製品に対する理解と信頼を深めることが出来たように思います。他地区の婦人会の方々とも識ること、楽しむことで交流出来た事を感謝しつつ、四九名の方々とお別れしました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


箸と手料理 教育長・飯島留一 1988年

2010-06-05 08:55:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 こんなことを書くと、お母さん方からお叱りを受けるかも知れません。
 最近の子供たちは箸が使えない。小刀が使えない。靴ひもが結べない。りんごの皮がむけない。というふうに何々することができないという生活の技能の側面があります。
 ある調査では、調査の結果、箸の使えない子が半数以上という結果がでました。その結果については、いろいろな議論があります。今の子どもは二十一世紀の社会に生きていく。国際化が進むだろう。食べ物は非常に西洋化されて、ナイフとフォークの時代に入っていくにちがいない。何も今更箸が使えないことを云々することはないではないか。
 それとは別に、大変興味深い論に、あるお医者さんのお話しがあります。子どもの半数以上箸が使えないというのは、お母さんの責任だというのです。日本のお母さんたちが作ってくれる手づくりの料理は、これは箸で食べてはじめて、それらしい味がするように昔から歴史的、伝統的に出来ている。ところがこの頃の若いお母さんは、手づくりの料理を作らない。忙しかったり、共働き、その理由はいろいろだと思いますが、手料理は少ないのではないかと……。
 こんな話があります。この頃の子どもの好きな食事を並べていくと「おかあさんは休め」ということになるそうです。「お」は「オムライス」から始まって「カレーライス」とつづき、最後は「メダマヤキ」になってしまうのだそうです。大体は、手作りの物を作るというお母さんの仕事は、休んでいてよろしいというぐらいの食べ物になるということでしょうか。だから、子供は自然にそういった食べ物が好きになってきます。それは大体箸を使って食べないですむものが多い。みんなパックで食べられるというわけでしょう。
 ところが最近は、もっとひどくなって、母危篤という状態になる。「ハムライス」「ハムエッグ」から始まって「ギョーザ」とか……そうきて母危篤、つまり、お母さんが手作りの料理を作って、箸が使えるようになることは、危篤状態におちいるということだと思います。そのお医者さんの結論は、箸を使える子どもにしたいと思えば手作りの料理を作りなさい。僅かな時間を使ってもよい。箸を使って食べるようにしなさい。ということです。
 大げさに考えると、このことは二十一世紀に向けて、日本の食生活をどうするかとか、日本の食文化をどう維持発展させるかという大事な生活技能の一つだということができるのではないかと思いました。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


青春の記 嵐山町長・関根昭二 1988年

2010-06-04 08:49:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 今年の婦人会の新年会に鈴木健二(前NHKアナウンサー)の青春時代の話をしましたので、それについて述べたいと思います。
 鈴木健二は東京の下町に生まれましたが、昭和二十年(1945)三月十日の東京大空襲で生まれ育ったわが家が一瞬のうちには灰燼に帰しました。その直後、傷心を抱いて十六歳の春に懐かしい隅田川のほとりの下町をあとにして、旧制弘前高等学校の学生となったのであります。
 郭公が鋭い声を上げて落葉松の梢を鳴きわたりますと、思わず青春の感傷の涙がこぼれそうになりました。
 旧制高等学校の学生の中には、芸者といい仲になって、身のまわり一切から、しまいには学費まで貢がせて卒業するような者も居たのであります。
 戦争の終った翌年の夏休み、彼は津軽平野の中の小さな駅に降り立って、リンゴ畑の間を紫色の岩木山を眺めながら歩いていました。彼は今はやる胸を押えてある女のもとへ通おうとしているのであります。
   津軽の野辺に 秋立ちて
   落日 山に映ゆる時
   ひばの林に 独り居て
   濁れる人世 嘲れば
   胸に嗟嘆の 涙湧く
 朴歯の下駄から小さな砂煙が舞い立つほどに彼の足は勇んでいました。
 今、勇躍訪れようとする女性は、彼のかつての学友の妾であったのであります。
 彼はかねてからこの妾のダンナであった男をエライ男だと思っていました。勉強はさっぱりできなかったのですが、学生の分際で、妾を二人も囲っていたことであります。一人だって容易ではないのに、無類飛切りのベッピンを二人であります。しかも、一人は奥羽本線の上りの駅の近くに、一人は下りの駅のそばに置いて、気の向くままに、日夜弘前駅から汽車で上下したのであります。しかも戦争の最中にです。
 東京の金満家のせがれでありましたが、通う本人は一人でありますので、片方へ行って遊んで居れば、その夜は当然もう一人の女性は不自由することになります。そこで彼はかねがね、どうか空いている方をたまには貸して欲しいと申し込んでいたのであります。しかし、この金満家の二世は絶対にうんとは言ってくれませんでした。
 ところが、一度その男が女と歩いているのを見ました。目がくらむような美人でした。あとで聞くとその女は上りの女でありました。下りのも見たいと思っているうちに戦争が終り、学校が一時閉鎖になってしまいました。
 再開された学校に彼は現れませんでした。終戦のショックで家が突如として没落したのであります。
 その年の冬はひどい大雪がやって来まして、リンゴの木が沢山折れたりしましたが、ついに友だちはやってきませんで、さよならの手紙だけが来ました。
 彼は友だちのことより二人の女性の方がよっぽど気がかりでしたので葉書を出しますと、半年以上もたった夏休み直後に返事が来まして、今はヤミ市で働いている、ここでは結構な顔役になった。将来は一念発起して、テキ屋の親分になりたいと書いてあったのです。妙な一念もあるものだと思いましたが、それに続いて、ここしばらくそちらへ行く気もない、ついては上りの女に云わば手切金としてこれを渡して欲しい。下りの女はすでに上京して自分の所で働かせていると、つけ足しの文章がありました。そして彼にとってはその当時、目の玉が飛び出しそうな為替が同封してありました。
 その為替はご丁寧に薄紙に包んでありまして、開けてみましたら「行ったついでに抱いても可」と鉛筆で書いた紙切が入っていました。
 彼は直ちに彼女にそのままを書いて都合をききますと、折り返しに、顔とはおよそ不似合いの金釘流で返事が来まして「今度の日曜の夕方おいで下さい。抱いても可よ。ウフフ……」と書いてありました。
 彼が勇み立ったのは自然の道理であります。
 酒を用意し、寮生活の彼が見たこともないような、当時としては山海の珍味を整えて彼女は待っていました。いい女でした。二十にもならぬ身で、こんな美人と飲み食い寝ていたあの男がうらやましく思われましたが、その栄耀栄華が今やわが身であります。
 生まれて初めて経験する天国のような夜がもうすぐやってくると思うと、折からの津軽の夕景を彩る陽光は、まるで神々の慈悲の光であり、鼻についた肥だめのにおいは、諸仏の蓮座からのお恵み深き香りのようでもありました。
 またたく間に彼女も私も酔いました。
 お互いのとろんとした目は、「可よ」の期待がもうすぐ果されるだろうというときめきの光を交錯させ、ぶつかりあわせていました。
 ここまで新年会でお話し申し上げましたが、相憎原稿用紙の紙数が尽きてしまいましたので、NHKの『武田信玄』ではありませんが、「今宵はここまでにいたしとうございます」ということで終らせていただきます。いづれまたいつの日かこの続きをお話しすることもあろうかと思います。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月


最近感じること 菅谷婦人会長・中村きみ 1988年

2010-06-03 08:47:00 | 『しらうめ』9号(1988)

 去る三月二十日に婦人教育会館にて嵐山音楽祭が行われました。第四回目を迎えましたこの日は、N響のオーケストラの演奏会でした。四十名の演奏者から、かもし出す美しいハーモニーは満場を魅了してしまいました。アンコールに次ぐアンコールに拍手のなり止まらない感動のひと時でした。
 このように人々に感動をあたえる演奏会のエネルギーは、一体何処にあるのでしょうか。曲もさることながら演奏者の一人ひとりが、それぞれの楽器に精魂を込め全力をつくして自分の役割を果たす所にあると思います。家庭や会社も又、自分の持ち場持ち場をしっかりと守りその責任を果たしてゆくからこそ和が生まれ繁栄するのです。
 婦人会の行事もこの一年滞りなく終わる事が出来ました。これも会員の皆様を始め役員の方々の責任ある協力によるものと心より御礼を申し上げる次第でございます。
 菅谷婦人会は国立婦人教育会館のある地と云う事で、他の婦人会では経験の出来ないような国際交流集会や、ホームビジット等に協力させて頂いております。ホームビジットは今回で三回目でしたが参加して下さった全員の方が、やって良かった、楽しかったと、喜んで下さったのは何より嬉しい事でした。
 充実感あふれる皆様の声を要約致しますと、
 ・自分自身の目が開け心が広がりました。
 ・子供達も世界地図や各国のニュースに興味を示すようになりました。
 ・広い世界を身近に感じ家庭の会話の中に、海外の話がでるようになりました。
 ・居ながらにして外国の様子を直接聞け、異文化にふれる事が出来心が充たされました。
 ・その後、子供も交えて文通をしております。
 ・また来年もホームビジットがあるようでしたら今から予約をしておきたいほどです。
等々、ホームビジットを受け入れる事は、ボランティアの精神で他のためのようですが、結局は自分にプラスとなり、より向上させてくれるようです。次回も又一人でも多くの方がホームビジットを楽しんで頂ければと思っております。
 家庭や地域の環境が変わるとそこに住む人の意識も変わると云います。例えば嵐山音楽祭にしても入場料が従来の倍額に値上がりしたのにもかかわらず、七八〇枚の整理券が、早々と完売してしまったのです。四回目にしてはや、クラシック音楽の魅力が町の人の中に浸透して来たように感じます。又、僅か二、三時間のホームビジットで目も心も広がり世界の動きに関心を持つようになった等、一寸した環境の変化が意識の改革をもたらしてくれるのです。これが人を育てると云う事でもあり、人づくりは、やがて町づくりへと発展してゆくと思います。
 「国際化の時代」と日々云われておりますが、今年の婦人学級は「国際化に向けて」とのテーマで嵐山町在住の外国の方の講演又は会員の方の海外体験発表など講師はいずれも身近かな方々ばかりでした。又婦人会館にはすでに百十一ヶ国から五七〇〇人余りの方々が来館しておるそうです。大都市でもない、この小さな町で他国の方に接し異文化にふれる事が出来るのです。
 この国際的な町の婦人会としての認識を新たにして、しっかりと足元を見つめつつ一歩一歩向上してゆくべく皆様と共に努力して参りたいと思います。

   菅谷婦人会『しらうめ』第9号 1988年4月