Do be Ambitious! 日記館

あくまでも「Do be Ambitious!」の1コンテンツとして。

洞爺湖サミット/スキージャンプ夜話 第2夜:ジャンプの歴史(日本編その1)

2007年04月23日 | スキージャンプ夜話
おばんでした、野々村です。

[洞爺湖サミット 来年夏開催決定
 警備、環境を評価 閣僚会合は他地域で(04/23 23:47)]

[号外pdfその1:洞爺湖でサミット 来年夏の開催決定(1554KB)]
[号外pdfその2:警備しやすい「山城」(1892KB)]
いやはや、洞爺湖に決まりましたかぁ!
と思いきや閣僚会合なんかは他の候補地でやるそうですが(^^;
まぁでも財政負担考えたらそういう風に分担してやった方がいいやも知れませんね。
さて、この洞爺湖サミットが低迷しっ放しの北海道経済の起爆剤となるか、見モノです。

さて、今日の本題行きましょう!!
スキージャンプのコラム第2弾、ジャンプの歴史、前回の海外編に続き今度は日本編
その1です。では行きましょう!

注:五輪などの話題に乗っていらっしゃった皆様へ。
こ、この記事はあくまでもいちファンの個人的な趣味と「もっと色んな人にジャンプを知ってもらいたい」
って感情にまかせて本とかで調べたのを自由研究のノリで勝手にまとめただけなんだから、
変な勘違いしないでよね!?




北海道にスキーが初めて持ち込まれたのは明治42(1909)年の春、東北帝国大学農学部
(現北海道大学、以下北大)予科でドイツ語講師をしていたハンス・コラーがお国自慢で
話したところ学生に好評でコラーが取り寄せたのが始まりだそうです。
時を同じくして新潟の高田でオーストリアのレルヒ少佐が正式にスキーを教えていると
知って、そり屋に4~5台作らせて三角山で猛練習を積んだのが草分けだそうです。

日本で初めてのジャンプが行われたのは明治44(1911)年か、大正2(1913)年のこと。
当時小樽中学(現小樽潮陵高、以下樽中)2年生の大矢敏範がジャンプの映画を見て
その爽快さに心打たれて自分でも始めたのが始まりだそうです。
その後北大に進学した大矢は三角山に仮説台を作り、コラーの助言も得ながら一人で
練習を重ねて15mくらいは飛べるようになったそうです(下写真)。



大正4年頃になると北大スキー部の先輩であった木原均、前年に北欧から帰った
遠藤吉三郎教授が助っ人として加わります。木原は部員に「本当のスキーヤーになり
なろうと思う者はジャンプをやらなければならない」とゲキを飛ばし、
遠藤は本場ノルウェーで仕込んだ技術でもって選手を指導したそうです。
さらに遠藤教授は雪で作った台ではなく固定ジャンプ台が必要だと提言、
大正6(1917)年には自ら大工道具を持ち出して小樽にジャンプ台を完成させ、
この年には三角山にも仮説の台が出来、他の部員も飛ぶようになったそうです。
そして翌年、北大スキー部で正式な台を作る予算が認められ、三角山北側の
通称シルバースロープに仮設台が完成、この頃には「ジャンプは最高のスポーツ」という
考えが浸透して選手も増えだしたといいます。
大正9年頃には札樽の各中学校などにスキー部が出来て、遠藤、大矢両氏が指導に協力
する、ということがあったそうです。中でも2月に小樽商業学校(現小樽商業高校)での
練習で、遠藤の指導で仮設台を作り、そこで大矢が21mという当時としては大記録と
なるジャンプを披露したそうです。
この頃には三角山の台で初の大会が行われましたが優勝記録は14.6m、この頃には
世界のジャンプは60mクラスに達していたため、よりいっそうの進歩が図られるように
なりました。
先の三角山の台では20mそこそこしか飛べない台であったため、完全固定型の30mは
飛べる台を作ることになり、同じシルバースロープに大正11年、日本初の固定ジャンプ台
「シルバーシャンツェ」が完成しました(下写真)。




1月6日、この台のこけら落としの飛躍が行われましたが、図を見たらわかるかも
知れません、ランディングバーンがカンテからいきなり30度の急斜面の上、80mと
長く選手達は恐怖心からまともなジャンプが出来ず、転ばなかったのは緒方直光
ただ一人という散々たる結果だったそうです。
元々ヨーロッパの水準に追いつくために作った台でしたがいきなり大型すぎたのです。
実際3ヶ所あったスタートゲートのうち頂上から出たのは青山馨ただ一人でこのとき
24mという日本新記録を作っています。
(写真はシルバーシャンツェでの大会の様子)



大正12(1923)年、小樽で第1回全日本スキー選手権が開催されました。
このとき小樽に乗り込んだ信越と関東の選手団は距離コースとジャンプ台に
アッと驚いたと言います。
ちなみにジャンプ台は遠藤教授が指導した20m級だそうです。
何しろ彼らのスキーはレルヒが持ち込んだオーストリア・スキー術、いわばアルペンで、
方や北海道はコラーが持ち込み遠藤教授が指導したノルウェースキー術、ノルディック
なものだから大論争に発展したのです。
結局ノルディック式競技会が認められ、樽商の讃岐梅二が優勝しています。
余談ですがヨーロッパでも当時世界的に競技として認められていたのがノルディック
だけだった中ノルディック対アルペンのスキー論争が起こりますが、この日本での
ことより後のことでした。

大正12年には三角山南東の尾根にある鞍部に固定シャンツェ第2号の建設が決定、
斜面距離が約80mと短かったが、初心者ジャンパー妖精のためには十分なサイズである
ことからここに15m級のアルファシャンツェが作られました(下写真)。
名前の由来は初心者用であったためアルファベットの最初の文字から取られたそうです。
こけら落としは大正13年1月27日の第5回札樽中学校スキー競技会のジャンプ大会で、
樽中の秋山武夫が12.8m、193.35点で優勝しています。



大正15年、翌年の第5回全日本スキー選手権が札幌で開催されることが決まり、この時
札幌市議会で、3つめのシャンツェ建設の予算案が可決されました。
今度の台は35mの飛距離が可能とされ「東洋一の大シャンツェ」のふれこみで、
12月25日の大正天皇崩御で年号が変わった翌昭和2(1927)年1月に完成、
「札幌シャンツェ」と呼ばれました(下写真右側、下図)
この年の全日本選手権は崩御のため中止になり、こけら落としは翌昭和3年1月21日、
22日の第5回北海道選手権でした。
この大会では網走から来た弱冠19歳の新人、永井勝夫が26.8mの最長不倒で優勝、
2月4日、5日の第6回全日本選手権では北大の神澤謙三が27mのバッケンレコードを
樹立しました。




これと同じ昭和3年といえば、日本が初めて冬期オリンピック(第2回サンモリッツ大会)
に出場した年でもありました。
ジャンプ代表は北大の伴素彦(ばん・もとお)でしたが、いかんせん60m級の台など
飛んだことなど無かったため本場のジャンプに圧倒され、優勝したノルウェーの
アンデルセンが60mと64mだったのに対し、伴は34mと39mでいずれも転倒、
最下位に終わりました。


1928年2月18日 サンモリッツ
1 ANDERSEN, Alf-Sten NOR 19.208 60.0m 64.0m
2 RUUD, Sigmund NOR 18.542 57.5m 62.5m
3 BURKERT, Rudolf TCH 17.937 57.0m 59.5m
38 BAN, Motoo JPN 4.000 *34.0m *39.0m 伴 素彦(北大)
*=Fall
しかし、この経験がその後の日本ジャンプの成長の糧となったのは言うまでもない
訳でして、さらに彼の助言でノルウェーから専門家を呼んで、大倉シャンツェ建設に
つながっていくのですが、その話はまた後日、第3回でしたいと思います。

最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (しょうた)
2007-04-24 18:48:19
誠に勝手ながら、以前撮っていただいた写真使わせていただきます。
返信する
>しょうたさん (野々村(岳道)@管理人)
2007-04-24 21:01:46
お、ブログ再開ですか!
おめでとうございます!☆
写真の使用、もちろんOKですよぉ!w
返信する
祖父について (空中金魚)
2008-08-22 11:55:43
初めまして。
祖父について調べていて行き着きました。
祖父、遠藤吉三郎の孫の遠藤瓔子です。
知らなかったことがずいぶんあり、参考にせていただきました。ありがとうございます。
返信する
>遠藤瓔子さん (野々村@管理人)
2008-08-23 01:28:14
はじめまして!
まさかこんなに時が経ってコメントが付くとは思っていませんでしたが
何と遠藤教授のお孫さんだったのですか!
いえいえ、色んな本の受け売りでしかないですが
力になれたようなら僕も幸いですよ(^^
返信する
Unknown (空中金魚)
2008-08-23 13:39:43
コメントを読んでくださってありがとうございます。
実は、相方が及川恒平という北海道出身の歌手で、最近、時々、函館でライブを行っています。彼が、函館の祖父の生家が分かれば、現在の函館の遠藤家の系譜も分かるかもしれないので調べてみようか、と言ってくれています。
祖父の生家は廻船問屋だったそうです。
こういうこと、函館のどこで調べればいいのか分かりません。なにか方法をご存知なら教えていただけませんか?

スキーに直接関係のないことをお尋ねするのは心苦しいのですが。
返信する
>遠藤さん (野々村@管理人)
2008-08-23 21:07:16
え、及川恒平さんって六文銭にいて「出発の歌」の作詞もされてたあの及川恒平さんですか!?
いえ、23歳ですが昔のフォークなんかも好きだったりするので・・(笑
僕もちょっとわからないですね・・・
北大の教授だったことしかわかりませんから・・・
札幌に行かれる機会があれば北大を当たってみるというのも考えたんですけど
これもやっていいかわかりませんし23のヒヨッ子なんで・・
力になれずすみません(><;
返信する
Unknown (空中金魚)
2008-08-23 21:44:44
六文銭の及川恒平です。
http://www.asahi-net.or.jp/~rr5k-oikw/

そうですか、北大で調べる、という手がありますね。言っておきます。ありがとうございました。
返信する
>遠藤さん (野々村@管理人)
2008-08-25 01:28:41
すみません、先ほどとんだ勘違いをしておりました。
ミスの方は削除しておきます。
六文銭ので正解だったって事ですね(^^
ともあれ、成功を祈ります(^^
返信する

コメントを投稿