蘊蓄cafe

-日々発見、身の回りの話題 【うんちくカフェ】-

国宝 松本城天守

2018年11月28日 | 歴史

 国宝 松本城天守。
 主要な門はあるものの、平城で他の建造物が残っていないので、門をくぐると天守がそこ。大きな堀が命の城かなと。平日なので観光客は少ないものの、外人さんが目立つ。梯子のような階段を上がっていく。天守内には敷居がなく襖は入ってなかったらしい。沢山の鉄砲が展示されている。明治18年から昭和7年まで、二の丸に松本深志高等学校(現名)があり、本丸御殿跡が校庭として使われていたことがあったらしい。

















道後温泉(夏目漱石「坊ちゃん」)

2018年11月15日 | 歴史

 道後温泉本館。現役の温泉施設でありながら国の重要文化財に指定されており、1月から7年間の補修工事が始まるため、しばらく覆いがかかって見えなくなる。

 夏目漱石は、29際の時に松山中学:愛媛県尋常中学校(現在の県立松山東高等学校の前身)に英語の教師として赴任した。赴任したのは1年だけだが、この時の体験が後の小説「坊ちゃん」に活かされている。
 「温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。」「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事にきめている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。」

 道後温泉本館は、松山中学の北東700m程にある。温泉に入るだけと、2階の団体休憩室付きと、3階の個室休憩室付きを選ぶことができる。坊ちゃんの「上等」は今の3階の個室休憩室付きのこと。3階は満室だったので2階にしたけれど、こちらでもおばちゃんが「天目へ茶を載せて」出してくれる。浴衣とおせんべい付き(3階は坊ちゃん団子になる)。
 個室は6畳ほどの部屋で、一番奥の部屋を「坊ちゃんの間」と称して見学に供している。いずれにしても漱石は、3階の個室を毎回使っていたということだと。





 よく見る漱石の写真は、46歳の時のものだけれど、ここ坊ちゃんの間にある写真は、松山での30歳の時のもの。若々しいんだな。この年に鏡子さんと婚約している。

 松山に来たのは、友人の正岡子規の故郷ということもあるかもしれない。子規とは50日、同宿したという。「漱石」のペンネームも元々は子規が使っていたのを譲り受けたもの。

 3つある大きな外湯を全部回ると、タオルと石鹸がもらえる。施設のおばちゃんは「景品はタオルなんだけどね」と言うけれど、温泉好きにはレア品だ。

 坊ちゃんには、次のところで手拭いがでてくる。
「ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。」

 道後温泉で、貸しタオルが赤いのは、これに因んだものだという。



坊ちゃんには、団子がでてくる。

「おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。」

 で、御多分に漏れずお土産に「坊ちゃん団子」という三色串団子が売られている。ただ、坊ちゃん(漱石)が食べたのはこれではない。
 三色団子は、アーケード街の「つぼや」の二代目が小説坊ちゃんから考案した団子で、小説坊が発表されたのは明治39年で、三色団子ができたのは大正10年のこと。今では、三色団子があちこちのお店で作られている。

 で、漱石が食べたのは、同じく「つぼや」の一代目が明治16年の創業当時から作っていた「湯晒団子」と言われる。
 今の坊ちゃん団子(三色団子)は、求肥餅を三色の餡で包んで串に刺した団子だが、「湯晒団子」は、米粉餅を小豆こし餡でまぶした素朴な団子だ。つぼやのパンフレットにはそこらがちゃんと説明されているし、湯晒団子を買うと教えてくれる。ただ、湯晒団子は、賞味期限が当日なのと、地味なのであまり売れないようで、店頭に少量しか並んでいない。でも、分かって買ってくれるのは嬉しいみたい。

 つぼやは、小説には「団子屋は遊廓の入口にあって」とあるように道後温泉本館のすぐ前にあったが、今は移転して少し奥まった場所にある。

 また、小説に出てくる汽車が「坊っちゃん列車」として復活し、路面電車にまじって、実際にダイヤ運行している。ただし、当時は石炭を焚いていたけれど、今はディーゼル駆動になっている。展示されているものかと思ったら、実際に走っていて乗れるんだから。ただし、引っ張る客車はこれだけ。

「停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。」

 


ガダルカナル

2014年06月15日 | 歴史

 昭和17年8月21日、ガダルカナルで、一木支隊が全滅した。この一木支隊は、旭川駐屯地の第7師団歩兵第28連隊だったのだな。

 ミッドウェーに向かう予定だったった一木支隊2300名は、急遽、ガダルカナルに派遣された。日本軍がミッドウェーで大敗したのと、ガダルカナルが米軍に占領されたためだ。ガダルカナルには、日本海軍約247名の戦闘部隊しか駐屯していなかったという。一方、米軍は1万名である。

 一木支隊先遣隊として約900名が8月18日にガダルカナルに上陸した。米軍1万名に、日本軍900名とは何ぞや? これは、米軍は退却しつつあり2000名であるとの都合のいい情報が伝えられたためという。
 また、一木支隊の上陸については、日本海軍駐屯部隊に情報が伝わっていなかったため、一木支隊の斥候30名と日本海軍駐屯部隊との間で、敵と間違い戦闘になって斥候隊が全滅したという。
 また、一木支隊本体が、米軍の側面であるとして突撃したところも、重機関銃や戦車砲で陣地防衛された最も強固なところだった。

 1万名の強固なところに、900名の突撃では、どうなるかは明らかだ。約900名のうち、戦死777名、戦傷約30名で、生存は128名にしかすぎない。情報の欠如である。この後、さらに別の部隊の逐次派遣が行われ消耗した。


「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」

2013年09月01日 | 歴史

 

 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ
(加藤陽子 著)朝日出版社

大学の先生による、高校生への戦争史の講義である。

普通、中学・高校の歴史の授業は、教科書をなぞっているだけでつまらない。中学・高校の歴史の先生は、「教科書を用いて歴史を教える人」でしかない。要するに、専門的な知識を有している訳ではなく、歴史を解説する能力がない。授業が面白くなくて当然である。

さて、大学の先生ならどのように教えるのだろうか。本著作は、小林秀雄賞を受賞。高校生には難しい部分もあろうが、それでも面白い。


天気晴朗ナレドモ波高シ

2013年07月29日 | 歴史

写真は、日本海海戦で連合艦隊が出撃した際の「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の打電の暗号送信文と翻訳文である。

私は、兵器マニアではないし、戦争は避けるべきと思う。しかし、兵器や戦争について、興味があるし、知りたいと思う。戦争があってはならないから兵器を見るのもイヤ、原発は嫌いだから見るのも聞くのもイヤ、考えるのもイヤ、とにかくいや・・・という人にはモノ事の本質は分からないだろうし、戦争や原発の恩恵を受けていながら、目と耳をふさごうとするのはいささか卑怯だろう。

この時代、東南アジア各国が列強の植民地となり、清(中国)も列強の租借地とされていき、ロシアが南下してくる・・・という状況のなかで、戦争は避けられなかったのだろう。

日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った我が国、連合艦隊の4隻の戦艦はいずれもイギリスに発注して建造されたものである。悲しいことに、その頃の日本には、鋼鉄を大量につくる技術も設備もなかったのである。日本が生き残るか否かは紙一重の状況だろう。そして、先人は必死になって学び技術立国日本を残したのだろうと。

 


サンダース軍曹

2013年07月21日 | 歴史

昔、50年くらい前になるが、「コンバット」という第二次世界大戦でのアメリカの部隊を描いたテレビドラマがあった。このドラマに「サンダース」という軍曹がでてくるのだが、このサンダース軍曹のモデルとなった「実在のサンダース軍曹は、朝鮮戦争をも経験し退役後、ケンタッキー・フライド・チキンを創設した。ケンタッキー・フライド・チキンの看板人形カーネル氏はサンダース軍曹が大佐に昇進した後の姿であるという。」って本当?

 


シミュレーション 日本海海戦2

2013年07月20日 | 歴史

シミュレーション 日本海海戦」をiPadに移植した。自分用なのでグラフィックを付けていないし、オリジナルゲームが、艦船は日本側が6隻、バルチック艦隊が8隻という簡易版なので、地味ではある。しかし、敵前回頭のタイミングなど史実を体験することができる。

ところで、ボードウォーゲームとは、実際の地図の上に、師団や軍団、戦車や歩兵の駒を配置して、戦闘をシミュレートするもので、史実を再現・試行しようとする高度なゲームである。軍の机上演習と基本的には変わらない。関ヶ原や川中島の戦いなど、戦国ものもある。しかし、ルールが煩雑で、計算が面倒なので、ボードウォーゲームは廃れたと思っていたのだが、マニアックに残っているようだ。ホームページでは「GameJournal.net」「コマンドマガジンWEBサイト」がみられ、ゲームも通販で購入可能である。

この中で、1941年11月18日から始まったイギリス軍による「クルセイダー作戦」をシミュレートする「Operation Crusade」がルールブック、マップ、駒が無料で公開されていて、これらを印刷すれば即プレイ可能で、ボードウォーゲームがどのようなものか興味があるムキはご覧になるとよい。初心者向けでよくできているようだ。

 


シミュレーション 日本海海戦

2013年07月16日 | 歴史

昨日、DVDレコーダに録画してあった「坂の上の雲」を見たところ、奉天の戦いが終わり、バルチック艦隊との日本海海戦が始まるところだった。

ご先祖様が日露戦争に出兵したこともあって、この時代には興味がある。「日本海海戦」をググったところ、戦艦「三笠」が横須賀で記念館になっているという。かなり痛んで修復・復元され、下甲板にコンクリートを注入し海底に固定されている。現在、世界中でも「戦艦」は存在せず、同じように資料館として残っているだけで、珍しい。そのうち見てみたい気もする。

そういえばと・・・月刊誌「歴史群像」に、日本海海戦のボードゲームがついていたのを思い出し、引っ張りだしてみた。ゲームといっても「マジ」なゲームで、敵前大回頭をどのタイミングで行うか、波の高さが変わるとどのような結果になるか、どの艦船を砲撃するか・・・など、史実と条件を変えてシミュレーションするものだ。一度やってみたが、サイコロをふったり、駒を動かしたり、計算したりと面倒くさい(「ミッドウェー海戦」もついているが、こちらは複雑すぎて紙上ではやる気が起きない)・・・ということで、とりあえず「日本海海戦」をiPadに移植している。あと1日あれば完成しそう。ただ、著作権の関係で、アップルストアにUPできないのが残念。そのうちオリジナルウォーゲームを作ってみたい。


「てつのくじら館」

2007年06月01日 | 歴史
 呉市の「大和ミュージアム」の隣に、平成19年4月5日に「てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)」がオープンした。ここには名前のとおり「てつのくじ ら」つまり退役潜水艦「あきしお」の実物が展示されている。全長76mもの潜水艦が陸揚げされ、一部制限はあるが、発令所、士官住居区と魚雷発射 管室を覗くことができるという。写真で見ただけでもなかなかの迫力である。いろいろな機雷や掃海艇の一部も展示されているという。呉市には、「大和ミュージアム」と合わせて見所が増えた訳だ。一度行ってみたいものである。

「一両」とは

2007年05月13日 | 歴史
 時代劇にでてくるお金だが「一両」は、現在のお金の「約20万円」に相当するのだそうだ。これを知っていると時代劇が面白い。1両などは一般庶民が普通に見るものではないのだろう。「借金10両の形に娘を売る・・」というのは、積もりつもって(おそらくは利子を含めて)200万円の借金となったということか。

 因みに、正月によくテレビ放送される「忠臣蔵」で、浅野内匠頭が拝命した勅使御馳走役としての負担額は700両(約1億4千万円)で、実はこれでも少なかったという。また、赤穂城明け渡しの後の残金は697両(約1億4千万円)あり、これが討ち入りの資金になったらしい。(99.1.9)

伊藤一隆

2007年04月22日 | 歴史
 しょこたんのブログを読んでいたら、しょこたんの母方のひいひいおじいちゃんが「伊藤一隆(いとうかずたか)」という人で、「鮭・鱒の養殖を発明した人」だという。北大のクラーク先生の弟子でもあったらしい。

 伊藤一隆は、札幌農学校一期生で、北海道庁初代水産課長になった人だ。東京出身。伊藤については、インターネットでも写真が北大附属図書館のページ、その他に見られる。鮭捕獲のため千歳に建設した「インディアン水車」が、改修・移設されてはいるが、今もふるさと館の側にあるという。とても有名な人なのである。

感動!「1/10戦艦大和模型」

2006年11月12日 | 歴史

 平成17年4月にオープンした呉の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)にこの春行った時の写真である。ここには10分の1の大きさの戦艦大和模型が展示されているのだ。1/10といっても全長26m、船体は三井造船の造船所で作られ、実際に進水式も行われている。模型というよりは小さい船と言った方がいいかもしれない。感動モノである。入館者は一日中多く、これを見るためだけに呉を訪れる価値がある。


 1/10大和の製作にまつわる逸話については、新書「戦艦大和復元プロジェクト」(角川oneテーマ21)に詳しく興味深い。木甲板の一枚一枚を棟梁が張るなど、可能な限り当時の姿に可能な限り近づけようとする姿、これにかける熱意が生まれるのはそれが「大和」だからだ。使い道を失った時代遅れの悲しき巨艦である。

 なお、大和ミュージアムには、他にもタンカーの模型、零式艦上戦闘機や人間魚雷「回天」、特殊潜行艇「海龍」、潜水調査船「しんかい」などの実物が展示されており、展示物も充実している。ぜひ一度訪れていただきたいところだ。